11.餓鬼

巴の指は千砂の腕に食い込んでいくが、巴は構わずに早足で進んでいく。人気のない場所を探しているようだ。


「鬼門の犬の所だ。俺が知っている中ではあいつが一番強い」


巴は苦々しく顔を歪め、吐き捨てるように言った。まるで今の巴は令が嫌いであるかのようだ。千砂は巴が多重人格者ではないかと思った。幼少のころに受けた傷が自分の傷だと理解できず、他人の傷だと思うことによって自己防衛を行う。この時の他人が自分の中の別の人格として形成される。別の人格は性別も年齢もそれぞれ様々であり、複数の別の人格を持つこともある。そしてその別の人格の中には、互いに存在を認識する者さえいる場合もあるという。確かドキュメンタリー番組で見た事例はそんなものだったと千砂は思い出す。これなら巴の変貌ぶりにも説明がつく。しかし、いくら人格の中には主人格に協力的な別人格も存在すると言っても、ここまで一貫性のある話をされると同一人格だと疑いたくなる。

千砂は思いきり手を振り、強引に巴の手から自分の手を引き抜いた。巴はなおも厳しい顔で千砂をにらみつけた。


「鏡の中の剣がどうしたっていうの?」


あれは夢の話だと言いそうになる。千砂は赤く巴の指の跡が残る手首を撫でた。多重人格者でもなければ、巴自身でもない。そんな確信が手首の痺れと共に千砂に伝わってくる。


「あの鏡は、十八剣地獄の獄卒が持っていたものだ。このままだとお前は餓鬼に身を落とす」


「がき?」


「常に飢えと渇きに悶えている亡者。腹は妊娠した女のように出ているが、他は骨と皮だけの醜悪な小鬼共のことだ。食道が狭すぎて食べられないモノや、口を開いた瞬間に火を吹き食べられないモノがいるという」


「そんな想像上のものになるっていうの?」


「しかし現実にそれを願ってしまったのであろう? 、と」


千砂は思わず押し黙った。ボタンを掛け違えたような一日。授業を受けようとすると、何故か千砂が取っている授業とは違う授業が始まった。なくなった自転車。荒れた部屋。あれらは現実だったというのだろうか。千砂の中で、歯車がかみ合って動き出す、本当の日常。巴は顔を青くする千砂に構わずに説明を続けた。


「十八剣地獄に落ちる罪人には、獄卒が剣を映す鏡を罪人に見せる。罪人に愛欲を断ち切りたいと思わせることにより、その罪人は思いに応じて餓鬼の身を受けるとされる。しかし、それは罪人が死に臨む時に現れるものだったはずっだが、お前は病床にあるわけでもないな」


巴は不思議そうに首を傾げた。


「よほどの者が裏で糸を引いていると見える。厄介なものに憑かれたものだ。これはあの犬野郎も手を焼くかもしれん」


巴は卑屈な笑みを浮かべ、舌をぺろりと出して唇を舐めた。


「木戸さんが負けるかもしれないということですか?」


「ああ。犬野郎が喰われたら、鬼門だってただじゃすまないだろうよ」


千砂は軽い眩暈を覚えた。千砂が一番嫌いな借りを、しかも千砂が返済できないほどの借りを、一番苦手な相手に作ろうとしているのだ。


「私だけで何とかします」


千砂の宣言に、巴の表情は強張った。そして次には声を立てて笑った。


「鬼門の犬に難しいことが、どうして羊以下のひよっこに出来る?もし出来るくらいなら、最初から憑かれるはしないだろうに!」


千砂は深くため息をついた。そして額を軽く抑えて小さく自嘲を漏らした。人を鬼と思って生きてきた自分は、本当の鬼にやられるのだ。そしてそれは誰かに貸を作らない限り、助かる見込みはないという。千砂はガードレールにもたれかかって呟いた。


「誰かに助けられるくらいなら、餓鬼になったっていいわ」


これには巴も目を丸くして「馬鹿な!」と叫んだ。


「お前が鬼になったら、門の一つが鬼の自由にされるということだぞ。人門が鬼の手に落ちれば、他の門達は荷が重くなる。そうすれば門以外の守護者も荷が重くなる。式も使いすぎて疲労困憊して弱くなる」


「私には関係ないわ。早くこの無駄に疲れる遊びとは縁を切りたいというのが正直なところよ」


もういいでしょうと言うように、千砂は歩き始めた。

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