10.ツカレテル

「はい、式は動物です。私の羊は、その、ある人に預けていて、だ、だから、今はこの子が私の式なんです」


巴は本人いわく式を抱きしめた。まるでぬいぐるみを抱くような恰好ではあるが、その巴の指の間からは式の体の一部がビチャビチャと汚い音を立てながら、まだ熱の残るアスファルトに落ちていた。


「あなた、憑かれてるんじゃないの?」

「あの、憑かれてるのは巽さんのほうだと……」


千砂は巴の小さく聞き取りにくい声に黙り込んだ。憑かれていると言われたことはどうでも良かった。ただ、千砂は巴に関する情報を全く得ていないのに、令は巴に千砂について多くを語っていたことが気に障ったのだ。ただ、そんなときこそあの言葉を繰り返す。


(あきらめなさい。しかたないんだ)


感情を覚えるたびに、千砂はこの言葉で何度でも、自分の心を殺して冷静さを取り戻す。巴はまだ中学生ではないか。まともに取り合うのも大人げないというものだ。こんなに汚いものを式と思っているのだから、やはり巴はその汚い鬼に憑かれているに違いない。そして巴の羊を預かった者もそれを知っていて放置している。巴は令達に騙されているのではないか。そして今度は巴を使って私を騙そうとしているに違いない。見れば見るほど気が弱そうで、いじめの対象になりそうな巴のことだ。ずうずうしい令を優しいお兄さんとでも信じていそうだ。人は弱っている時に差し伸べられる手には案外弱いことを、千砂は知っている。その手が善意からのものであっても、悪意からのものであっても。


「木戸さんにはよくしてもらってるの?」


千砂は巴の式を無視して優しく語りかけた。巴はようやく顔をあげて笑い、頷いた。その顔はそばかすと吹き出物で決してきれいとは言えなかった。


「そう、嬉しかったのね。でも木戸さんに何か言われても、私にはもう声をかけるのはやめてね。仕事をやっているし、学生でもあるし、忙しいの」


出来るだけ優しく言った千砂は「じゃあ、急ぐから」と、巴の脇をすり抜けた。千砂の束ねられた長い髪が、砂が風にさらわれたような音を立ててなびいた。巴は千砂に返す言葉を見つけられず、うつむいて佇んでいた。しかし巴は千砂がこのまま帰宅することが危険であると知っていた。何とかしなければならないと思う巴だったが、自分が手を出すとまた他人に迷惑がかかりそうで不安にもなるのだ。自分ではどうしていいか分からないし、分かったところで何もできないだろう。そう考えた巴は令に助けを求めようとしたが、それを式が止めた。


「駄目だよ。失敗したら取り返しつかないもん。これ以上私の独断で動いたら、皆に迷惑がかかるかもしれないし」


巴は泣きそうになりながら、思わず声をあげていた。他人からは独り言を言っているようにしか見えないが、巴は内なる声で式と話をしているのだ。千砂は巴の独り言に一瞥を送ったが、随分大きな独り言だ、としか思わなかった。


「それに、あれ、強いんでしょ? 勝てないよ。あなただってさっきから震えてるじゃない。逃げようよ」


巴は千砂とは反対方向に行こうとしたが、式が足に絡み付いて離れない。式は分かっているのだ。逃げるのは卑怯であり、その後で逃げたことを後悔するのが巴だからこそ自分はここにいるのだと。だから式は巴の中に入ろうとする。巴の方角は西。受信場所は口。うまくすれば、巴の口を借りて式が言葉を発することもできる。それは鬼が巴に憑くという行為だった。

 巴は千砂を追って走り出していた。もう少しで大通りに出ようとしていた千砂は、突然手首をつかまれた。変態かと思って、もう一方の手を拳にして振り向いたが、そこにいたのは息を切らし、厳しい表情をした巴だった。巴の変貌ぶりに、千砂は驚いていた。


「あんたの背が高くて助かったぜ。鶏が消えかかっている。人門がこうしていられるのはその式のおかげだ。もし鶏が負ければ、お前も人鬼に身を落とすか死ぬかのいずれかだ」


小さかった巴の声は、鬼気迫る男の声に変っていた。


「お前、鏡の中の剣を見て何を願った?」

「西尾さん? どうしちゃったの?」


巴は少女とは思えぬ力で千砂の腕を引っ張った。


「痛い、離して。どこにいくの?」

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