9.腐敗少女

その後のことはよく覚えていなかったのだが、千砂はようやく安堵の息をついた。千砂はちゃんと自分のベッドの上で眠っていたし、鏡もちゃんと本来の役目を果たしている。だとすると、昨日一日分が夢であったことになる。少々部屋の荒れ具合は気になるが、電気屋と大家に連絡すればいいとも思った。今日一日分を先に夢の中で過ごすというのは、損をした気分だ。しかし昨日が現実だったと言われた方が、今の千砂にとってダメージが大きい気がした。


「夢落ちってことは、今日はまだ水曜日か」


千砂は何となく携帯電話を手に取った。


「嘘? 何で?」


小さくつぶやいた千砂はしばらく考えた。何故、火曜日の夜に水曜日の夢を見たはずなのに、今日は木曜日なのか、と。しかしそれも気にしないことにした。食事もせずにアパートを出る。食事にだけは気を付けてい千砂だったが、今日は長い夢を見たせいで遅刻しそうになっている。その上曜日もずれていて、ボタンを掛け違えたまま一日が始まったような感覚がある。大学に止めてあった自転車がなくなっていたが、それも撤去されたか盗まれたかしたのだと思うことにした。授業を受けながら、千砂はふと思った。今日は鬼と呼ばれるものに一度も会っていない。この世から一匹残らずいなくなったのだろうか。まさに夢の中の存在であるかのように。それとも受信が出来なくなったのだろうか。どちらにしても、これでようやく平穏な日々がかえってくる。千砂は胸をなで下ろした。休日、林田との仕事を終えて帰る途中、に会うまでは。


 突如、夕暮れの街中で鼻をつく異臭がした。吐き気がするほどひどい臭いなのに、他の人は気づかないようだ。なんだろう、と千砂は周りを見渡した。ごみ箱があるわけでもない。公衆トイレが近くにあるわけでもない。構わずに歩き続けると、その臭いは徐々に強さを増してきた。臭いの元に近づいているのか、いや、逆だ。臭いの元から千砂に近づいて来ているのだ。これ以上この臭いの中にいたら、本当に吐いてしまうと思った千砂は、人けのない駐車場に逃げ込んだ。すると、たたっ、と小さく小走りするような足音がした。尾行されているのに気付けなかったのは、千砂にとって不覚なことだった。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


おどおどした様子で、声の主はうずくまる千砂に声をかけた。声から推察するには、まだ幼い少女のようだ。千砂はそのまま「大丈夫です」と答えてこの場から去ろうとしたが、少女が次に発した言葉にそうすることが出来なかった。


「鶏は、どうしたんですか? このままだと、危ないです」


顔を合わせずに去るつもりだった千砂だが、思わず少女の方を振り向いてしまった。そこにいたのは、サイズの合わないぶかぶかのセーラー服を身につけた女子中学生だった。膝下のスカートに黒縁眼鏡。脂ぎった天然パーマの髪を肩まで伸ばしている。肩にはふけのようなものまでついている。日々正体がばれないように過ごしている千砂でさえ、そこまではしないだろうという要素だらけの少女だった。逆に、これでは悪い意味で人目を引いてしまいそうだ。


「誰?」


千砂が立つと、自然に少女を見下ろす格好になった。長身の千砂が相手と向き合うと、いつもこんな具合だが、少女が小柄なうえに猫背であるせいもある。


西尾巴にしおともえです。ごめんなさい。いきなり声をかけたりして……。私なんかより、木戸さんか、南原さんの方が良かったと思うんですけど……」


木戸と聞いてすぐさまサングラスの長身男を思い出し、そういえば久しぶりに自分と背丈が釣り合う人間に出会ったと思い出す。


「木戸さんって、木戸令のこと?」


「はい。木戸さんから人門の人が見つかったって、聞いていたんですけど、式の気配が弱くて、人門の人かどうか自信が持てなくて……、ごめんなさい」


巴は泣きそうになりながら突然頭を下げた。どうやら巴に尾行するつもりはなかったが、声をかけようかかけまいか迷っている内に、千砂にここまでついて来てしまったらしい。巴が謝罪を繰り返すのはそれだけではない、と千砂はすぐに気付いた。先ほどの悪臭は巴から漂ってきているのだ。正確には巴の体にまとわりつくどぶ色の泥のようなものからだ。冬のプールの水のような色をしていたそれからは、折れた鉄パイプのようなものが一本突き出ている。臭いだけではなく、見た目にも吐き気をもよおさずにはいられない、と思って眺めていると、それと目があった。一つの大きな目が突然開いたのだ。


「何なのこれ?」


千砂はハンカチで口元を抑えて、それから目を離した。すると巴は傷ついたような顔をして千砂を見つめてきた。


「彼は、私の式です。この臭いは私が弱いからなんです。彼のせいじゃありません」


「式? 式って動物じゃないの?」

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