8.刀
千砂は頷いて瞳を閉じた。しかし改は千砂を抱きしめたかと思うと、すぐに離れた。(え?)と思って千砂が目を開けると、改は耳まで赤くして床にうずくまっていた。
「どうしたの?」
「だって、俺、今、女の子と、しかも年上のきれいなお姉さんとその自宅で二人っきりで、ギュウーって。しょすいんだけど、すんげーレアな体験してしまって」
「興奮しすぎて、何を言っているのか分からないのですが」
千砂はため息交じりに頭を抱えた。
「千砂さん、ありがとうございます。じゃあ、気を付けて」
逃げるように去ろうとする改の腕を、千砂は捉えた。
「私はここで全部の借りをあなたに返したいの。いいのよ、何でも」
千砂は自分で服のボタンをはずし始めた。その白く美しい手を、改の大きな両手が包むように止めた。
「何で、そんなことすんだ?」
「今の私の全ては、若さと体だけ。他には何もお返しできないから」
「千砂さん、もしこの世界が本当に偽善とエゴだけだったら、あなたが言う貸し借りもねぇんだと思うよ」
「裏木君は何も知らないから、そんなことが言えるのよ」
「泣ぎそうな顔して人ば責めんなよ」
改は千砂の手を力いっぱい握って、そのまま足早にその場を離れた。一人立ち尽くす千砂の横で黒い影が揺らめいていた。それは鬼と呼ばれるものだったが、千砂には受信できなかった。鬼の力が強すぎたために、受信容量を超えていたのだ。
「私が泣きそうな顔を他人に見せた? 馬鹿馬鹿しい」
(そんなわけがない。あってたまるものか)
千砂は風呂場へと向かった。
(冷静にならなくては)
そう自分を戒め、顔を洗う。今日あったことをすべて水に流そうと、執拗に何度も冷水を顔に浴びせかけた。
ふと、鏡を見た千砂の背中に悪寒が走り、黒い血が太ももを流れ落ちた。しかしその血に気を取られている暇さえ、千砂にはなかった。鏡に映っているのは自分の顔ではない。一振りの美しい抜身の剣だ。千砂は思わずその剣に見入った。日本刀のように見えたが、千砂の知っているものとは違うようにも見えた。
(また自分は妙なものと対峙している。犬といい、牛といい、あるはずのないものばかり今日は見ている。夢なのではないか)
この目の前に映し出された美しい剣も夢ではないか、と。千砂はその剣を見つめたまま、そうであることを切に願った。しかしそれと同時に、もしもこの剣で現世のしがらみを断ち切れたなら、どんなに楽かと自嘲をこぼすのであった。それほどまでに美しい刀だった。
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