6.門

千砂のアパートにはもちろん鬼は少ない。少ないというからには、多少入るということだ。今日はそんな鬼が必要になる。よく生ごみをつつくカラスにまじって、鬼がいるのを見かけるので、おそらく腐肉に集まる習性があるに違いない。そう考えた千砂は、値下げされた生肉を買ってきて、電気をつけない部屋に放置した。そしてそれをひたすら見続ける。はたから見れば、かなりの奇行である。しばらくして、千砂の股に受信があった。ナプキンの上に血が広がっているのが分かる。


(ああ、来たな)


千砂は思う。目にも見えず、耳にも聞こえず、しかし股には受信する。千砂の第六感が教えてくれる。トイレに行きたいのを我慢して、黒い経血が出る場所を見続けた。どうやら、肉が乗っているトレーの左側にいるらしい。眼光鋭くその場所を見て、「鶏」を想像する。


鶏、鶏、鶏。


そう心の中で唱えると、自分は何をしているのかと馬鹿馬鹿しくなってくる。そもそも、自分が知っている鶏で良いのかと疑問もわいてくる。だが、令の犬は黒い日本犬だった。だから、自分が知っている鶏で良いのだろう。


(喰らえ)


馬鹿馬鹿しいと思いながら、試しに命じてみる。そうした瞬間、部屋の空気が渦を巻いた。締め切った部屋に強風が吹いたのだ。それはカーテンが真横にあおられるほどの強さだった。書類や本が部屋を舞う中、千砂は必死に這うようにして玄関へと向かった。鍵を開け、チェーンを外す。千砂がドアノブに手を伸ばした瞬間、その長い髪を強い力で何者かが後方へ引っ張った。千砂がそのまま倒されて尻餅をついた、そのとたん、ドアが開いた。次に千砂が目にしたのは、一頭の黒い牛だった。


「喰らえ!」


男の声がしたと思うと、部屋の風は止んで、本も紙もカーテンも重力に素直に従っていた。バタバタと騒々しい音を立てながら本が落ち、紙と一緒に床に散らばった。しかも蛍光灯は割れ、窓ガラスにひびが入り、机は倒れ、すさまじい状態になっていた。


「大丈夫だっけが? 今鬼ば片づげだっけがら」


男、いや千砂よりも年下だから少年というべきだろう。彼の声と訛りには聞き覚えがあった。


「裏木、君?」

「んだ。電話したっけのが木戸さんだっけがら、心配さなって来てみだっけ。木戸さん、ちゃんと注意事項ば言ったって言ってだっけけど、あやしいど思ってよ」

「何なの、これ」


半ば放心状態の千砂は、部屋の入り口で呆然と立ち尽くしていた。改は「あーあ」と緊張感のない声をあげていた。まるで、以前にもこれと同じ部屋を見たことがあるかのようだ。


「木戸は知っていたんですね、こうなること」


改は玄関に入って靴を脱ぎ、相変わらずの口調で「たぶん」と答え、部屋の片づけを始めた。千砂の家に誰かが上り込むのは初めてだった。しかし改に千砂は怒りもしない。


「ガラス、危ないわ。これを履いて」


千砂は自分が履いていたスリッパを改に差し出した。改は自分が人の家の片づけをさせられているにもかかわらず、「あ、ありがどさま」と礼らしき言葉を口にした。本来なら誰かを家にあげることなど考えられない千砂だったが、改には、千砂が他人との間に引いている一線を越えるだけの価値がある。千砂がそう思うだけの情報を持っている。千砂は新聞紙を敷いた上に乗り、机を戻した。組み立て式の簡易な机は千砂の力だけでも簡単に持ち上がる。次に書類を集め、本を手にとり、机の上に置いていく。ガラスの破片を丁寧に袋に入れながら、千砂は切り出した。


「裏木君の式は牛みたいだけど、あなたも門なの?」

「んだっす。裏鬼門が俺の方角だっす」


手始めに改が話し始めたのは、門のことだった。門とは北東、南東、東西、北西の四つをさしている。北東は木戸令の鬼門で、その反対方向にあるのが裏木改の裏鬼門。北西にあるのが神門、天門などと呼ばれる門で、ここを担当する人物を改はよく知らないが男だそうだ。そして神門(天門)の反対側、つまり南東にあるのが地門、人門と呼ばれる千砂が担当する門である。それぞれの方位には式にできる動物が「卦」によって決まっている。鬼門の方位は犬、裏鬼門の方位は牛。人門(地門)は鶏だ。


「神門は?」

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