5.辰巳
それきり、電話は途切れた。最後に改が発した言葉は、千砂が一番嫌悪する言葉だった。しかし令のようにずうずうしくないだけましかもしれない。これで令達と関わることはなく、千砂が「何か」と呼んでいた鬼におびえることもなくなるのだから、安いものかもしれない。ふかふかのカーペットの上をゆっくりと歩いて席に戻ると、令は暇を持て余して黒い犬と戯れていた。このレストランには介助犬以外の犬の入店は断られているはずだが、誰もその犬について言及するものはいないようだった。シャンデリアの黄色味がかった光が生む影も、その犬にだけはなかった。これが式か、と千砂は一人合点する。自分にもそんな不可思議な生き物が憑いているのかと思うと、千砂は不思議な感覚にとらわれる。まるで空中を歩いているような、頼りなさである。
「もういいですか?」
千砂はそう言うと、伝票を取って会計へと向かった。令は千砂の後ろについて店を出た。見慣れているせいか、店員は千砂が男におごる様子を見ても気にする様子がなかった。
「いい店だな」
「お気に召していただければ、幸いです。今度お友達といらしてくださいね」
千砂は便宜上の笑みをそっとたたえて見せた。
「いや、学生にこんな高い店は無理。ちぃちゃんって、何者?」
千砂は「只者です」とやんわり答えた。
「あなたや改君から比べると、ですけど。それでは」
ポケットに両手を突っ込んだまま立っている令にたいして、慇懃無礼に頭を下げ、千砂は駅に向かった。
駅は多くの人が行き交う場所だ。その分千砂が、いや、千砂達が受信する中で一番受信しやすい場所でもあるから、注意が必要だ。だから今日のようなことがなかったこれまでも、千砂はホームの真ん中に立つ。いつも感じていた「ホームに突き落とされる」という恐怖感の正体は、鬼だった。角を生やして虎柄のパンツをはいている鬼とは、全く違うモノだということは、もう気が付いている。それが分かっただけでも、今日は収穫があったと千砂は自分に言い聞かせる。今日のgive&takeの出来を評価しながら、人の波に流されるように電車に乗り込む。電車の中から流れる風景を見ると、光がまるで人魂のようだ。もしかしたら、本当は一つ二つ人魂が混ざっているのかもしれない。そして、千砂は受信しながら思う。向かい側に座る酔っぱらいの上や疲れ切った顔の婦人の足元、席に横になって眠る高校生の頭の上に鬼たちがいる。気づかないのだろうか。もしかしたら、皆本当は鬼たちの存在に気付いているのに、それを隠しているだけではないのか。そう思えるほど、鬼たちはどこにでもいる。犬は、令の式は、この鬼を喰らうという。そして自分は令の犬のように鬼達を喰らう鶏を飼っているのだという。そういえば、と千砂は不意に思い出した。あの時、令は何と言ったか。
千砂の名前を聞いたとたん、自動的にそうなると決まっていたかのように、令は「ちぃちゃん」とあだ名を呼んでいた。しかし式のことを言ったとき、「巽なら、鶏を式にできる」と言った。つまり千砂だからではなく、巽だから式が使えるということだ。巽という名字は珍しくても、
分からないばかりだ、と千砂はため息をつく。まるで散らばったパズルのピースを見せられたようだ。この断片だらけの知識はいつか、完全な一枚の絵として完成する日が来るのだろうか。
千砂は一人暮らしのアパートに帰る。事務手続き用の住所のような、アパートだった。わざと駅二つ分の所に借りたのは、市の中心部から離れた方が安くて暮らしやすいからだけではない。「家はどこ?」ときかれて、遠いと答えれば、誘いを断る理由になり、他人を近づかせないこともできる。ただ、一応千砂も女だから、安全面には気を付けた。千砂にとっての安全面とは、鬼の少ない場所ということである。墓地や川の近いところは厳禁だ。このアパートにまさかモデルの女が住んでいるとは思えないものであったが、禁忌はなかった。一番初めに紹介されたアパートは、安かったが、過去に自殺者がいた。このような物件を事故物件と呼ぶらしい。その事故物件は過去にあった自殺などは知らされず、住んでから気づく人が多いという。千砂も何も知らされずに紹介されたが、そういうところには自殺者の鬼がいるものだ。
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