プロローグ 下
若い女は現実の始まりに、気怠さを感じて目を開く。よく働かない頭で、昨日はどこに泊まったのか考える。
遠くで涼しげなシャワーの音がしている。上半身を起こして辺りを見回せば、人が本当に生活しているのか疑いたくなるほど、何もない殺風景な部屋だ。ただ、撮影機材やフィルム、ネガは昨日のままであった。それだけをベッドの中から確認した女は今日は何曜日だったか考えた。昨日はスタジオで撮影だったから火曜日。と、いうことは今日は週の半ば。大学に行かなくては、と女は起き上がった。
いつの間にか止んだシャワーの音に気付かずに女が着替え始めると、妙にさっぱりした様子で男が顔を出した。部屋と同じで、これと言って特徴がない男だった。黒髪で黒い瞳の日本人男性。中肉中背というよりは痩せているが、病的に痩せているとか、長身痩躯とかとは違う。とにかく「普通」を絵に描いたような男だった。
「何だ、レイ。起きてたのか」
着替え中のレイに何の反応も示さずに男はキッチンへ向かった。レイの方も、男の部屋に常備してある自分の普段着に黙々と着替えていた。髪を三つ編みに二本、手早くまとめ、サイズが大きめのシャツにロングスカートという全く色気のない格好をしたレイに、男はコーヒーを差し出した。
「また
コーヒーを受け取りながら、溜息交じりに、レイは呟いた。それを聞いた林田は、「未成年を深夜の仕事につき合わせた自分が悪い」と言って笑った。レイと林田は仕事上のパートナーだ。レイという女の名前も本名ではない。レイは何度もこうして林田の家に泊まっているが、林田はレイに一度も手を出してはいない。手を出せない理由は、いくつもあることを、レイは知りつつ、しどけない質問を口にした。レイにとっては珍しいことだった。
「林田さんにとって、私は子供みたいなもの?」
今のレイはアパートこそ契約し、自宅アパートとしているが、その日その日で他人の家を泊まり歩く根無し草のような生活を送っていた。たいていは男の家で過ごすことが多かった。林田はそんなレイを知っていたが、レイの生活を注意することはなかった。
「何で、そんなに自分を安売りするの?」
林田の質問に、レイは首を振った。
「今の私には、これしかないから」
「若さと体? お金、ずいぶんあるんじゃないの?」
「学費とその他生活費。後は老後の為にとっておくわ。結婚する予定、ないから」
レイにとって相手との関係は「give&take」が前提条件だった。自分が何かを得るならば、それと同価値のものを相手に返さなければならない。同じ価値のものさえ交換できていれば、別れるときになって後腐れがないので、レイはそういった関係を求めた。そういった関係を結べない相手とは、レイは人間関係を持たなかった。与えすぎれば、他者を自分に引き付けてしまう。しかも与えられることを望むのは弱者だけだ。かといって、与えられすぎることは、他者を自分より上に立たせてしまう。自分が恩によって他者に縛られることをレイは良しとしない。
「あなたは私に何も求めないから、不安になるの。だって、いつかそのツケをまとめて返させられそうなんだもの」
「そうやって、その場その場で他人との関係を清算しないと気が済まないわけか。他人が嫌?」
「好きだとか嫌いだとか、そういった感情は徒労よ」
レイは相変わらずの無表情で言葉をかえす。何か不満があるわけではないが、別に面白いこともない。そんな表情だった。
「レイって、友達いないだろ」
「一緒によくいる同世代同性の子はいるけど」
そう言いながら、レイはキッチンに立った。
「あれ……、この前のって?」
林田は部屋着に着替えて髪の毛をタオルで拭いている。まるで互いに独り言を言っているのに会話が成り立っているような不自然な会話だった。
「林田さん、それ以上私のプライベートに首を突っ込むなら、私は林田さんのモデルをやめなければならないわ」
レイは冷淡な口調で林田の口を塞いだ。レイの視線の先には目玉焼きが出来上がろうとしている。フライパンの上でじゅうじゅうと、音を立てている。
林田はレイの本名を知らない。そしておそらくレイの宿主となった男たちはレイが本名だと思っている。そういった点で、林田は他の男たちよりもレイに近い存在だと思っていたが、それは間違いのようだった。「レイ」が本名ではないと林田が知っているのは、レイにとって仕事上のことなのだ。さすがに学校では本名で過ごしているだろうが、今のレイの言い方を聞く限り、親しい友人はいそうにない。レイは他人を決して必要としない。ただ、利用価値として、いるかいないかを問われれば、いないよりいた方がましだと思っているようだ。
「君には誰も触れられないんだな」
林田が苦笑いをしながら呟くと、レイは「そうよ」と答えて立ち上がった。まるで同極同士の磁石のようだと林田は思う。レイは一切の他者を拒んでいる。一定の距離を保ったまま、それ以上は近づかせない。おそらくレイは、誰ともかかわらず一人で生きていくことを望んでいる。しかし本当の孤独を好み、実際にその中で生きていくことが出来る人間は現実に存在するだろうか。
林田がそんな思いをはせている間に、レイは部屋から出て行ってしまった。見ればコーヒーカップはきれいに洗われ、簡単な朝食がテーブルの上に用意されていた。レイが寝ていたベッドも、林田が寝ていたソファーもきれいになっていた。もはや、レイがいた痕跡をこの部屋の中から探すのは難しかった。レイは林田との一晩をも清算していったのである。
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