鶏の章
プロローグ 上
私は一人が敵なら、全員が敵でいいと思っている。気楽だからだ。こうした考えは、極端だろうか。私はそうは思わない。
全部敵。皆が敵。
他者は他者を貶めるために存在しているのだから、全ては利用価値でしかない。私を含めたその他大勢も。ここには確かにモラルがあって、法があって、秩序がある。しかし私たちはその利己的な秩序の中で生き残りをかけている。まさに、サヴァイバルというもので、負けた瞬間、私は「死ぬ」のだ。
昔誰かが言った。
「あきらめなさい。仕方がない」
私はこの言葉を言った人間を覚えてはいない。
(嘘だ)
私が人を人として見ないで生きていると烙印を押されたあの瞬間。その言葉通りに全てをあきらめたその瞬間、私は一度「死んだ」。信じていないと言いながら、どこかで期待していたから裏切られたと感じ、嵌められたのだと気づいた。
信頼も期待も裏切られるためにある。一般的に、道徳的に、あきらめず最後まで頑張ってたどり着いた私の「命日」。その日以来、私は「死んでいる」為に現実味を欠いているこの世界で「生きて」いる。二度と生き返らないように何度も何度も自分で自分に言い聞かせるあの言葉。
「あきらめなさい。仕方がない」
私は、もう一人の私自身をイメージする。「感情」と名付けた私の分身に馬乗りになって、何度も、何度も、何度も、繰り返し、首を絞めてもう一人の私を殺した。感情は邪魔でしかなかった。しかし何故か死んでいく感情の方が無表情で、殺している私の方がいつも泣いていた。
そうだ。これはゲームのようなものだ。他人をどう利用し、自分はどう他人に利用されず、生き残ることが出来るか。だからずる賢い私は「裏ワザ」というもので、サヴァイバルゲームに復帰した。二度と殺されないように、「死んだままで」ゲームに復帰したのだ。
もう一度「殺される」位なら、死んだままでいい。
だから、生き返らないで。
虚構の良心。
他人に利用されて殺されないように。もう二度と、殺されないように。だから私は一般的に「良くない」とされることを全てする。けれど、ルールやモラルに反することはしない。ルールとモラルに反するように他者は仕掛けてくるので、私はその罠をクリアする。他者は常に他者を貶めようとしているわけだから、私は貶められない他者にならなくてはならない。つまり、A(私)という私がいる。B(ある他者)はAを貶めようとする。しかしAは「死んでいる」ため、貶めるための要素を含むことはできない。そのためBはAを攻撃できず、無理に攻撃すれば、それは他者B以外の他者すべてに対して、Bを攻撃する正当性を与えてしまう。まさに、食うか食われるかの弱肉強食。それが私(自己)とその他(他者)との関係だ。
何という精神をすり減らす秩序なのだろう。まるで命綱なしの綱渡りのようだ。それなのに、時間は速く、速く、と急き立てて、このゲームの意図を理解せずにいる愚者は、私の足を引っ張って、地獄に落とそうとしている。
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