エピローグ
エピローグ
「姫様、どうかお気遣いなく……。これ以上、宝飾品を増やされたら……首と腕がもげて、白目をむいて泡を吹いて赤黒い顔で倒れてしまいます。姫様は、舞踏会を殺人現場になさるおつもりですか……!? わたしが死んだら、容疑者は姫様ですよ?」
「やかましいですわ。首がもげようが、腕がもげようが、白目をむこうが、女性は常に美しくあるべきなのです。あなたは自分を磨くことに無頓着すぎますわ」
鏡ごしに、ふんっと鼻を鳴らすユーフェミアの隣で、ダイアナが大げさに両手を叩く。
「そのとおりですわ、姫様! もっと言ってやってくださいまし」
初夏の風が吹き、庭園のバラが色あざやかに花開く五月の末。
南向きの窓から白い陽光が燦々と射し込む王女の私室にて、ドリスはなぜかユーフェミアの監督のもと、大勢の侍女たちに囲まれていた。
ダイアナが持ち込んだ山のようなドレスを着せ替えられ、衣装に合わせたアクセサリーをあれやこれやとつけ替えられ、化粧や髪型まで入念に吟味されること、およそ二刻。青白い顔に疲労をにじませるドリスに、ユーフェミアは容赦のない一言を浴びせた。
「
「いえ、寝すぎたせいで節々が若干、軋んでいるような……」
ドリスにかけられた魔力凍結の呪いは解けた。
魔法を取り戻したドリスは、セレストとリプリィ、使い魔の黒猫を連れて、宮殿の隅にある魔法師団の塔へと転移したらしい。当時のことを覚えておらず、目が覚めたら一月も眠っていたと聞かされ驚いた。
ドリスの肉体を器に、魂をとらわれていたサレムも解放されたのだろう。目覚めてから、彼女の声は聞こえていない。
沈黙の魔女リプリィは魔法師団に身柄を拘束され、今は塔の地下牢につながれている。生きる目的であるサレムを失った彼女は、食事もろくに摂らず、空虚な日々を送っている。
山奥に隠されていたリプリィの城は、彼女が魔力を封じられたことで結界が解き放たれた。近く、魔法師団が出向いて城内を調査した後に焼き払う計画だという。
「表向きは、わたくし主催の舞踏会ということになっていますが、本当は呪いの解けたあなたを皆に披露するための宴ですのよ。両親も、あなたに会いたがっておりますわ」
「国王陛下と王妃様が……?」
ドリスは、緊張のあまり身震いした。鏡の中で、侍女たちの手で複雑なかたちに編まれていく黒髪が、絡み合う大蛇のように見える。
「姫様、髪に挿す宝石はサファイアがいいと思いますわ」
「そうですわね。こちらの、蝶の髪飾りにいたしましょう」
今すぐ暗くて狭いところへ閉じこもりたいというドリスの願いもむなしく、ダイアナとユーフェミアは嬉々として装飾品を選んでいる。
ドリスがリプリィの城から脱出するのと時を同じくして、ユーフェミアにかけられていた猫の呪いは解けたらしい。ユーフェミアは呪いの影響で体調を崩し、この一月の間、海辺の離宮で静養していたのだという。ドリスが目を覚ましたと聞くや否や、海を駆ける風よりも早く王宮へ戻ってきたのが、昨日のこと。
「姫様こそ、お休みにならなくても平気なのですか? パーシバル様がとても心配なさっていましたよ」
「これくらい、へっちゃらですわ。少しは動いたほうが身体にいいんですのよ」
ここへ連れてこられる途中、偶然顔を合わせたパーシバルはドリスの快復を喜ぶ半面、体調が万全でないのに歩きまわる婚約者をひどく心配していた。
「ところで、お兄様とはもうお会いになりまして?」
「いいえ、まだ……。お忙しいみたいで……」
ドリスが眠りこけている間、セレストは宮廷魔法師団の補佐に自ら名乗りをあげた。通常の公務の合間に塔へ顔を出しては、資料の整理や調査書の検分など裏方の仕事に徹している。副団長のメリンダは、口うるさい王太子のせいでカード賭博ができなくなったと嘆いている。
「まったく、しょうがないお兄様ですわね。お仕事なんて放り出して、真っ先に会いにくるべきではありませんこと? 愛が感じられませんわ」
不満げに頬をふくらませるユーフェミアに、ドリスは曖昧な笑みを浮かべた。
あの時のキスで魔力凍結の呪いが解けたということは……そういうことなのだろうが、セレストに対する気持ちを未だに自覚していなかった。呪いが解けたと聞かされて、「あ、そうなんだ」と認識する程度で。
彼と直接顔を合わせたら、心の中で何か変わるだろうか。
ぼんやりしているうちに身支度は着々と進み、姿見に映し出されたドリスは、思わず目を疑ってしまうほど、神々しいまでの光をまとった美しい淑女へと変身を遂げていた。
淡い空色のドレスは肩がむき出しになるデザインで、腰から下のスカート部分は無数の花びらを重ね合わせたようにふくらんでいる。胸元に沿って小粒の宝石が縫いつけられており、光の加減で細かな虹色の光を散らす。肩凝りがしそうなほどに大粒の宝石を連ねた、見事な金の首飾りは、ユーフェミアが貸してくれたものだ。複雑なかたちに結い上げられた黒髪には、蝶をかたどったサファイアの髪飾りが輝いている。
「完璧ですわ」
誇らしげにうなずくユーフェミアに続いて、ダイアナと侍女たちも手を叩いて互いの成果を称え合う。
「まぶしい……、頭と首が重い……」
ドリスの弱々しすぎるつぶやきは、さらりと無視された。
うなだれているところへ部屋の扉が叩かれ、取次の侍女が応対する。
この日、一月ぶりに王宮へ戻ったユーフェミアを見舞う客人がひっきりなしに訪れ、彼女はそのたびに「今はそれどころじゃありませんのよ!」という本音を押し隠しつつ、「今夜の舞踏会でお目にかかりましょう」と丁重にお断りしていた。
姿見に映る自分と向き合いながら、心の中でユーフェミアの労をねぎらっていると、鏡の中に突然見知った人物が現れ、ドリスは飛び上がりそうなほどに驚いた。
「セ、セレスト様!?」
「なんだ、その顔は? まるで化け物でも見るような顔をしてるぞ」
正直なところ、本物の化け物と対峙するほうがまだ冷静でいられる気がした。恐ろしくて口には出せないが。
「元気そうだな」
「はい、おかげ様で……」
会話はそこで途切れ、二人は同時にうつむいた。なんとなく気まずい。
「お兄様、他に言うことがありますでしょ? わたくしたちの努力の結晶を無駄になさらないでくださいな」
見かねたユーフェミアに肘でつつかれ、セレストは、はっとしたように顔を上げた。視線だけで彼の顔を盗み見ると、頬がほんのりと朱に染まっていた。
「ドリス」
「は、はい……」
「その……、よく似合ってる」
「どうも……」
再び沈黙が降りる。
ユーフェミアは苛立たしげに靴の踵で床を打ち鳴らし、ぎりぎりと奥歯を軋ませた。
「それで終わりですの? 五歳児のほうが、もう少しうまいことを言えますわよ」
「うるさい。邪魔だから、お前らは席をはずせ」
「お望みどおり、退散いたしますわ。ただし、着衣やヘアメイクを乱すような行為はなさらないでくださいませね。二度手間はごめんですから」
「誰がするか!」
肩を怒らせて叫ぶセレストを背に、ユーフェミアとダイアナは侍女たちを引き連れて続き間の向こうへと姿を消した。
「姫様とパーシバル様、婚約解消せずに済んでよかったですね」
「ああ。ユフィも、本心からパーシーを拒絶していたわけじゃないからな」
パーシバルの一途な想いにユーフェミアが応える日は、そう遠くないだろう。
「お前は、ランカスタ村に戻るのか?」
「はい。屋敷のみんなや村の人たちに、呪いが解けたことを報告したいので」
屋敷に住む懐かしい顔ぶれを思い浮かべながら微笑むと、セレストは表情を曇らせた。
「そうか……」
「実は、メリンダさんから魔法師団へのお誘いをいただいているんです。父も、修行するのにちょうどいいと言ってくれて。落ち着いたら、見習いというかたちでお世話になる予定です」
そう言うと、セレストは大輪の花が咲いたように目を見開き、口元をほころばせた。
「そうか!」
同じ台詞でも、発せられる声の響きがまるで違う。その変わりようがおかしくて、ドリスはつい小さく笑ってしまった。
「何がおかしい」
「す、すみません……なんだか可愛らしくて、つい」
「可愛らしい?」
肩を震わせてくすくすと笑っていると、セレストの眉がみるみるうちにひそめられる。それでも笑いが止まらずに、ドリスは口元をおさえた。
これからは、好きなだけ笑って、怒って、泣いて、喜ぶことができる。
心穏やかな引きこもり生活もそれなりに幸せだったけれど、今は、もっと、ずっと……言葉では言い表せないほどの幸福感で胸が満たされている。
「決めた」
不意に、セレストがぼそりとつぶやき、両手でドリスの手首をつかんだ。
「え?」
「今後、俺のことを『可愛い』と言ったら、一回につきペナルティを課すことにする」
「ペナルティとは?」
ドリスが目をぱちくりさせていると、セレストの顔が突然、間近に迫ってきた。
――息が止まった。
ぽかんと開けていた唇の隙間から、温かくて甘ったるい吐息が注ぎ込まれる。
ドリスは睫毛を震わせ、何かにすがるように両の拳をぎゅっと握りしめた。
永遠とも思える一瞬が過ぎ去ると、唇は解放され、新鮮な空気が肺に流れ込んできた。茫然とするドリスを、セレストは勝ち誇ったような顔つきで見下ろす。
「十年も待ったんだ。これでもまだ足りないくらいだ」
古書やインクの匂いが染みついた指先で、わずかに濡れた唇をなぞられる。
どくん、と鼓動が跳ね、お腹の底から何やら熱いものがこみあげた。
「セレスト様……、わたし」
藍色の目をうるませ、ドリスがか細い声で想いを言葉にしようとしたその時、
ぽむ、ぽむ、ぽむっ!
たとえるなら、ここから馬で一刻ほど駆けたところにある城下町で花火を打ち上げたような音。もしくは、小さな小さなガラス瓶の小さな小さなコルク栓を引き抜いたような音。
それが三発。
「えええ……?」
「なんだこれは……?」
二人の真横にはちょうどいいのか悪いのか、姿見が置かれている。
朝焼けを紡いだような濃い蜂蜜色の髪の間から、綿毛のように白い毛並みをした三角形の物体が二つ。薄い筋肉のついた腰の下から、同じ色のやわらかそうな羽箒のような物体が一つ。
見覚えのあるその物体はまさしく、猫の耳と尻尾だった。
「呪いは……解けたはずだよな?」
枯葉を踏むような乾いた声で問うセレストに、ドリスは力なくうなずいた。
『ごめんなさい。たぶん、あたしのせい』
ドリスの頭の奥で、若い女性の声が響いた。暗い部屋の隅で縮こまっている姿が連想できそうなほどに怯えた様子の声は、聞き覚えのあるものだった。
「この声……もしかして、サレムさん?」
「サレム殿だって?」
驚く二人の声に、ドリスの内側で縮こまっている(らしい)サレムは、ますます声をすぼめた。
『あたしの魂がドリスの中で生き残っちゃったせいで、その……とっても言いにくいんだけど、ドリスは特異体質に目覚めたみたい』
「特異体質……?」
首をかしげるドリスの姿に、頭に猫耳のついたセレストが眉をひそめる。
『いわゆる、呪い……的な? たぶん、ドリスが好きな人にときめくと……相手に……その、見てのとおり……そういう可愛いお姿に』
「サレム殿はなんて言ってる?」
「わたしがセレスト様にときめくと……、猫耳と尻尾がつくそうです」
サレムの言葉を通訳すると、セレストは作りかけの石膏像のように硬直した。
額に手を当て、よろよろと目の前の姿見にもたれかかろうとし、鏡に映った自分の姿を見るなり背を向けてしゃがみ込んだ。
「うあっははははははは! 殿下、どうしたのその愉快な姿!? えー、何これ何これ、呪いだったりするわけ? めちゃくちゃウケるんだけど!」
空間移動魔法で駆けつけたメリンダが、セレストの姿を見るなり空気を読まずに大笑いした。
彼女の声に、続き間の向こうからユーフェミアたちが何事かと、ぞろぞろとやってくる。
「まああ、お兄様。どうなさいましたの、可愛らしい!」
「見るな……誰も俺を見るな……すべて忘れろ」
セレストは両手で純白の猫耳を隠すが、ぺたんと床についた尻尾は隠せていない。頭隠してなんとやら、である。
「わたくしにかかった猫の呪いが、お兄様に伝染したのかしら?」
「冗談じゃない。風邪じゃあるまいし」
(サレムさん、呪いを解く方法はおわかりですか?)
心の中で問いかけると、歯切れの悪い答えが返ってきた。
『うーん……、初めて見る例だからなあ。ごめんなさい』
サレムはお手上げといった様子だ。
まさか、獄中のリプリィに助言を請うわけにもいくまい。
「セレスト様、ごめんなさい。また、わたしのせいでご迷惑を……」
ドリスがおずおずと声をかけると、セレストは、すっと立ち上がって手を取った。
「そういう辛気臭い顔をするのも禁止だ」
言うなり、ドリスの手の甲に口づけた。
ユーフェミアとメリンダを筆頭に、周囲が色めき立つ。
「セ、セレスト様……っ」
「皆の前だからな、これで勘弁してやる」
目を針のように鋭く細めて、口元に意地悪な笑みを浮かべるセレストだったが、猫耳と尻尾がついていては迫力がない。ただ可愛いだけである。
「ああ、興奮すると尻尾が上向きになりますのね」
いつの間にかセレストの背後の回っていたユーフェミアが、ぴんと天井を向く純白の尻尾をまじまじと観察する。
「やだー、殿下ったら昼間からやらしー」
「うるさい! あんたはもう塔に帰れ!」
猫耳と尻尾のついた姿で、セレストは野良猫を追い払うように手を振る。ついでに、ユーフェミアとダイアナ、お付きの侍女たちもまとめて続き間へ押し込んだ。
「ドリス」
「は、はいっ」
あらためてこちらに向き直ったセレスト(超絶可愛い)を、ドリスは緊張気味に見返した。
「お前は十年間、呪いに苦しんできたんだ。俺だって、少なくとも十年は耐える覚悟があるさ」
「セレスト様……」
「それから、サレム殿」
『あ、あたし?』
ドリスの頭の中にだけ、サレムの声が響く。
「俺は、黒鳥姫の物語を悲劇のままにしておきたくない。ドリスが黒鳥姫の器だというなら、俺がドリスを幸せにして、新たな黒鳥姫の物語を作る」
魔女に呪われた現世の黒鳥姫が、愛する相手とともに日の当たる場所で幸せな生涯を送る物語を。
『ドリス、彼に伝えて。ありがとう……』
サレムの声に応えるように、ドリスは胸に手を当ててうなずいた。
「セレスト様。サレムさん、喜んでいます。ありがとうって」
「そうか、よかった」
牢の中で無気力に生きるリプリィと、非業の死を遂げた吸血伯爵の救いにはならないかもしれない。けれど、少なくともサレムの魂からは温かな思いが感じられた。
「ところでセレスト様。わたしを幸せにするというのは、その……」
「言葉のとおりだ。あとは自分で考えろ」
幼い頃と同じ、やんちゃな少年の顔でセレストは笑った。
風を通すためわずかに開けた窓から、花の芳香が舞い込む。無邪気に駆け回っていたあの頃と同じ、バラ園の香りがした。
途端に胸の奥がくすぐったくなって、どうしようもなく愛おしい気持ちがこみ上げてきた。
すると、セレストの身体から引っ込みかけていた猫耳と尻尾がふたたび、ぴょこんと現れた。
「ああっ、すみません……!」
「気にするな」
この夜の舞踏会は急遽、仮装がドレスコードとなり、魔女に扮したドリスと、使い魔の猫を装ったセレストが一番の注目を集めたのだった。
クレシア王国の、新しいおとぎ話が幕を開ける。
-おわり-
【書籍化】黒鳥姫は箱庭から出たくない 高見 雛 @hinahina_tkm
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