頭の奥で声が響いた。金色の木漏れ日を透かす若木を思わせる、凛とした男性の声。

「……誰?」

 サレムは耳に手を添え、あたりを見回した。リプリィには聞こえていないのか、怪訝そうにこちらを見ている。

『ドリス!』

 目の前に、金色の光のかたまりが現れた。

 サレムの魂が宿っている身体より一回り大きな光は徐々に人のかたちを取り、光が薄れるにつれてくっきりとした輪郭を浮かび上がらせた。

 朝焼けを溶かして紡いだような蜂蜜色の髪、白磁のようになめらかな肌、泉のように透き通った空色の瞳、咲き初めのバラを思わせる薄紅色の唇。

 駿馬しゅんめのようにしなやかな体躯をした少年は、片膝をついて、両目を大きく見開いた。

「ドリス、無事か!?」

(セレスト様……どうしてここに!?)

 ドリスは思わず手を差し伸べようとするが、叶わない。身体を支配しているサレムは小首をかしげ、少し驚いたような声音で尋ねた。

「あなた、誰?」

 肩を上下させるセレストの呼吸が止まったように見えた。何を言われたのかわからないといった表情で、じっと見上げてくる。

「お前、何を言ってるんだ……?」

 声を震わせるセレストとは対照的に、サレムはいたって落ち着いた様子で見知らぬ少年を凝視する。その間にも地鳴りのような音は続き、石壁に亀裂が走る。

(セレスト様……、セレスト様……!)

 ドリスは何度も呼び続ける。けれど声は届かず、セレストは瞳を戸惑いの色に染める。彼のしなやかな両腕が頼りなげに虚空をさまよい、ワイン色のドレスの袖を弱々しくつかんだ。

「おい、ドリス……」

(セレスト様!!)

 檻の中から抜け出そうともがく獣のような感覚で、ドリスは力の限り叫んだ。

「……え?」

 サレムが目を瞬かせ、周囲に視線をめぐらせた。やがて、目の前の少年をとらえる。

「……セレスト様って、あなたのこと?」

「お前、何か変な魔法でもかけられたのか?」

「ねえ、ドリスって、この子の名前?」

 その問いに何かを察したのか、セレストは両目をすがめて訊き返した。

「あなたは……誰だ?」

「サレム!」

 本人が名乗るより早く、リプリィが叫びながらこちらへ向かってくる。落ちた瓦礫がかすったのか、彼女は足を引きずっていた。

「サレム……? 裏切りの魔女?」

「あらやだ、この時代ではそんなふうに呼ばれているの? 失礼しちゃう」

 サレムは不服そうに頬をふくらませ、口を尖らせた。ドリスが見せたことのない子どもっぽい仕草に、セレストは一瞬面食らったように絶句した。

「よく聞いて。ドリスの魂はまだ生きているわ。あたしのせいで表に出てこられないの」

「ドリスは、あなたの器にされたというのか?」

 サレムは大きくうなずいた。

「あなたが強く呼び続ければ、彼女は戻ってこられるかもしれない」

「サレム、余計なことをするな。お前の魂が消滅してしまう!」

 リプリィは小さな肩をせわしく上下させながら、サレムの腰に取りすがった。外見と言動がちぐはぐな幼い女の子の姿に、セレストが目をみはる。

「お前は……沈黙の魔女か?」

「気安く呼ぶな、王太子」

 リプリィは表情を歪め、吐き捨てるように言った。

「余計なのはお互い様ね、リプリィ。それに、今ここでドリスを呼び戻さないと、どのみち全滅よ。今、魔法が使えるのは彼女だけなんだもの」

「サレム殿、それはどういう……」

 セレストの問いかけを遮るように、サレムは彼の背に腕を回し、胸に頬を押しつけた。

(サレムさんっ!?)

 狼狽するドリスの声が聞こえたのか、サレムはくすりと笑った。

「ドリスが意識を取り戻したら、すぐに彼女の呪いを解いてちょうだい。今の彼女なら、きっと脱出できる」

 呪いを解く、という言葉に反応してか、セレストの身体がこわばった。急激に加速する鼓動が衣服ごしに伝わってくる。

「呪いの解き方はね……」

「し、知っている。しかし……」

 尻込みするセレストに、サレムは眉を吊り上げた。

「しっかりしろ! このままだと瓦礫につぶされるのよ。びびってる暇なんてないのよ!」

(…………)

 現実の黒鳥姫がここまで雄々しい人だなんて。ドリスの中で、「おとぎ話のお姫様像」が瓦解した。

 サレムは、勇気づけるようにセレストの背中を強く叩いた。

「目を見ればわかるわ。あなた、彼女を何よりも大切に想っている」

(セレスト様が、わたしを……?)

 ドリスのつぶやきに応えるように、サレムはそっと目を閉じた。

「サレム、よせ!」

「ねえ、リプリィ。あなたのやり口は気に食わないけど、もう一度会えて嬉しかったわ。さよなら」

 息を詰めたリプリィがどんな表情をしたのか、ドリスにもサレムにもわからなかった。

 けれど、悲哀と歓喜がないまぜになったような、せつない顔がまぶたの裏に映った気がした。

「さあ、早く」

 サレムにせっつかれ、セレストは片方の手をドリスの背に、もう片方の手を頭の後ろに添えた。そのぬくもりはドリスにも直接伝わってくる。サレムの呼吸が落ち着いているおかげで、頭が真っ白になるほど動揺はしなかった。白雲でできた揺り籠に乗せられたような、不思議な心地だった。

 セレストはドリスの耳元に唇を近づけ、凛とした涼しげな声で囁きかけた。

「おい、出てこい。この引きこもり根暗女」

(え!?)

 面食らうドリスにかまわず、セレストはさらに続けた。

「地下室や衣装箱や棺じゃ物足りなくなったのか? 自分の中に引きこもるってお前、バカだろ? それともアレか、俺への嫌がらせか?」

 はじめは優しかった声が徐々に剣呑な響きを帯びはじめ、ドリスは反射的に逃げだしたくなった。

「……俺から離れるな、ドリス」

 鼓動が大きく跳ねた。

 サレムではなく、内側で息をひそめるドリスの意思に同調した鼓動だった。

「ドリス」

「セレスト様……」

 喉の奥からこぼれ出た呼び声に、ドリスは目を瞬かせた。

 指先を動かすと、しなやかな身体を包む青色の上着に触れた。

「セレスト様……あの、どうしてここに?」

 顔を上げて問いかければ、セレストは眉間に深く皺を刻んで、唇を震わせていた。

 そして、きつく抱きしめられる。

「く、苦しいです……」

「俺はもっと苦しかった」

「泣いているのですか?」

「うるさい」

 セレストはドリスの身体を解放すると、懐から黒いハンカチを取り出した。銀糸で描かれた大蜘蛛が這うそれは、ユーフェミアに渡した護符アミュレットだ。

「これを媒介にして、魔法師団の連中が俺を転移させたんだ。かなり無謀な賭けだったけどな」

 山奥にあるリプリィの城の周辺には、空間をねじ曲げる魔法がかけられているため、正確な位置は把握できないはずだ。護符を媒介にしてドリスの魔力をたどれば、理論上できないことはないが、下手をすれば獣が徘徊する山の中に放り出されるか、出口のない空間のひずみに迷い込んでしまう。成功したのは、魔法師団の力量と、わずかばかりの運によるものだろう。

「どうして……そんな危ない真似をなさったのですか!?」

 心配するあまり、思わず声に怒気がこもる。その拍子に、目尻に涙が浮かんだ。

「お前の怒った顔を見るのは、十年ぶりだな」

「話を逸らさないでください。わたしは……!」

 なおも言い募ろうとしたドリスだったが、不意打ちのように頬を優しく包まれ、それ以上何も言葉が出てこなかった。

「今日は、無謀な賭けばかりだな」

 セレストは苦笑まじりにつぶやきながら、首を傾けた。

 瞬きをする間もなく、やわらかなぬくもりがドリスの唇に触れた。

 ほんのわずかに開いた唇の隙間から、何か熱いものが滑り込んできた。赤く燃える宝石を口に含まされるような、灼熱の太陽のかけらを肌に押し当てられるような、不可解な熱が身体じゅうを駆けめぐる。

 このまま炎に身を焼かれるのだと、瞬時に悟った。

(でも、セレスト様と一緒なら……)

 意識が遠のく中、ドリスは唇の端に小さく笑みを浮かべ、セレストの背に腕を回した。

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