身体が鉛のように重い。

 耳元で誰かが呼んでいるが、それは自分の名前ではない。

「――サレム」

 ドリスの意識とは別の何かが、睫毛を震わせ、まぶたを持ち上げる。

 冷たく乾いた石の床に身体が横たえられており、そのかたわらに、ふわふわの黒髪を揺らした幼い女の子と黒猫が座り込んでいた。

「気分はどうだ、サレム?」

「……あなた、もしかしてリプリィ?」

 ドリスの声で、別の誰かが訊き返す。身体が勝手に起き上がり、石壁に囲まれた小部屋をぐるりと見渡した。

 壁にかけられた肖像画のところで視線が止まり、藍色の目が見開かれる。

「そうだ、私だ。お前の最も愛する……リプリィだ」

「その姿……いったい何があったの? ここはどこ? あたしは死んだはずでしょう?」

 勝気な口調で問いを重ねるサレムに、リプリィは愛おしげな笑みを投げかけ、手を握った。

「サレム。お前は、二百年の時を経て再び現世によみがえった」

「二百年ですって……?」

 サレムは表情を硬くした。

 リプリィはサレムの手を自分の頬に寄せ、長い睫毛に縁取られたまぶたを閉じた。

「この二百年、私がどんな思いで過ごしていたか、話して聞かせてやりたい。ただひたすら無為に過ごしていた日々を……」

「リプリィ……あなた、死臭がする」

 サレムは眉をひそめた。

「人を殺したの?」

「永い時を生きるための源を、身体に取り入れただけだ」

「人の魂を食べたのね!? なんてことを……!」

 サレムはリプリィの手を振り払い、ふと自分の両手に視線を落とした。

「これは誰? あたしの身体は、あの時朽ち果てたはずだわ」

「今の世に生きる、お前によく似た娘の身体だ。偶然にも、魔力の質までお前と似ていたよ」

「……その子の魂は?」

 サレムが尋ねると、リプリィはそ知らぬ顔で小首をかしげた。

「さあな。お前の魂を注ぎ込んだ瞬間に押しつぶされて消滅したか、意識の底で眠っているか……。どちらにせよ、些末なことだ」

 リプリィとサレムの会話を、ドリスはじっと聞いていた。意識の奥底で、息をひそめるように。身体の自由はきかないものの視覚や聴覚といった五感は変わらず、一つの肉体をサレムと共有しているような感覚だと、ドリスは独自に解釈していた。サレムは、ドリスの存在に気づいていない様子だった。

「……返して」

 ぽつりと漏れたつぶやきに、リプリィはいまだ夢から醒めやらぬといった表情でサレムの顔を覗き込んだ。

 すると、ドリスの姿をしたサレムは華奢な腕を片方振り上げ、リプリィの小さくやわらかな頬を思いきり張り飛ばした。革袋の破裂するような音が、石造りの小部屋に反響した。すぐそばにいた黒猫が驚いたように毛を逆立てる。

「この身体、今すぐ持ち主に返しなさい!!」

 自分の声とは思えない怒号に、ドリスは身体の内側で打ち震えた。振り抜いた右手に広がる熱い痺れが、ドリスにも伝わっていた。

「サレム、何が気に入らない?」

 痛みを感じていないのか、リプリィは赤く腫れた頬をそのままに、きょとんと目を見開いて問いかけた。

「気に入らないわよ、何もかも! 誰が生き返らせてくれって頼んだの? 二百年ですって……? 家族も仲間もいないこの時代で、他人の身体で、あたしにどう生きろっていうのよ!?」

「悲観することはない。私がそばにいる」

「あたしが一緒にいたいのは、あなたじゃない!」

 斬って捨てるようなサレムの言葉に、リプリィの顔が翳った。

「あの人は? あの人は、どこにいるの?」

 サレムは、リプリィの小さな肩を乱暴につかんだ。爪が食い込みそうなほどに強く。

「お前を惑わせたあの男のことか? それなら跡形もなく引き裂いて、使い魔どもの餌にしてくれた」

「…………っ!」

 ドリスは、サレムが息を詰め、背筋を凍らせるのを感じた。

「私を裏切った罰だよ、サレム」

 リプリィは、生気のない眼差しで淡々と言った。

「お前はここで、私と永遠をともにする」

「嫌よ……」

 サレムは涙声で首を横に振った。

 お腹の底から、湯が煮えたぎるような熱がせり上がってくる。頭に血が昇り、鉄の鍋を打ち鳴らしたように耳障りな音が響きだす。

(いけない……!)

 魔力が暴発する前兆だと、ドリスは直感的に察した。しかし、それを抑える術はない。

「サレム」

 リプリィが唇の端を上げ、ねっとりとした声で鼓膜を撫でた。

「もう二度と離さない」

 サレムは両耳を押さえ、まぶたをきつく閉じた。

「嫌……、嫌よ。お願い、あたしを自由にして……」

 声の限りに叫ぶ。

「あの人のところへ行かせて!」

 冷たい石牢のような空間に、白銀色の光がほとばしった。

 稲光のように青白い輝きを帯びた炎が、瞬く間に石の床に広がり、四方の壁を昇っていく。壁にかけられた黒鳥姫の肖像画を避けながら、炎は天井まで達した。

「無駄だよ、サレム。この部屋には結界を張ってある。生半可な魔法では崩れない」

 そう言ったリプリィの目が、次の瞬間、驚きに見開かれた。

 青白い炎に包まれた四方の壁に、わずかな亀裂が走ったのだ。

「なぜ……」

「リプリィ。あなた、この子に魔力凍結の呪いをかけたのね」

 魔力を出しつくしたサレムが、冷静な表情で言った。開いた両の掌を見下ろし、感情のこもらない声で言葉をつなぐ。

「この子の魔力、あなたが思っている以上に強くなっているわ」

 亀裂の走った天井から砂礫が降り注ぎ、次いで拳ほどの大きさの石ころが床に落下した。

「かわいそうに……。あなたに目をつけられたばかりに、人生を台無しにされたのね」

 サレムは片方の手を胸の前に掲げ、軽く握った。

「あなたにも、好きな人がいるでしょうに……」

 石壁の割れる音にまぎれて紡がれた言葉は、おそらくドリスに向けられたものだろう。サレムのやるせない思いが、流れる水のようにドリスの魂へと注ぎ込まれていく。

「どうなっている!?」

 突然、リプリィが怒鳴りだした。華奢な両脚を肩幅に開いて立つ魔女は、胸の前で広げた両手を見下ろしている。蒼白の顔には、焦りの表情が浮かんでいた。

「魔法が発動しない……」

「魔力凍結の呪いは、何が起きるか予測不能。今の暴発で、あなたの魔力を封じてしまったのかもしれないわね」

 サレムは抑揚のない声で言いながら立ち上がった。砂礫や岩石が断続的に降り注ぐ中、壁にかけられた肖像画へ歩み寄る。

 絹糸のようにつややかな黒髪、丸みのある白い頬、幼さの残るつぶらな藍色の瞳、こっくりとしたワイン色のドレス。何度も丁寧に塗り重ねられた油絵の具にそっと指を這わせ、サレムは小さく息をついた。

「これ、あなたが描いたんでしょ? 相変わらず巧いわよね」

「そんなこと、どうでもいい! 早くここから抜け出さないと……」

 狼狽するリプリィの足元で、黒猫は半ば諦めたように天井を見上げている。

「こんなの、魔法で簡単に作れちゃうのに。あなたったら何日も自分のアトリエに閉じこもって、任務を忘れるくらい絵に夢中になって、よく団長たちに叱られていたわよね」

 サレムは口元に穏やかな笑みを浮かべ、懐かしむように言葉を紡ぐ。

 熱のない青白い炎は、上下左右の石材だけを刃物のように抉っていく。サレムの真後ろに、子どもの頭ほどの岩石が落ちた時、リプリィが短い悲鳴をあげた。

「サレム!」

「あたし、あなたの絵が大好きよ、リプリィ」

 サレムは、ドレスの裾をふくらませながら振り返った。見た目どおり、幼い子どものように身を縮めて立ちつくすリプリィに、優しく笑いかける。

「これで、あなたの望みどおり、あたしたちは永遠に一緒ね」

「違う、サレム。私は、こんなことを望んでは……」

 リプリィは、ふわふわの黒髪を振り乱す勢いで首を横に振った。

「きっと、これがあなたへの罰ね」

 刃物のように鋭い一言を投げかけたサレムは、両手を重ね、胸に当てた。

「ごめんね。もう一人の黒鳥姫」

 名前も知らない器へ、サレムが呼びかけた時だった。


『――ドリス!』

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