5
誰かに呼ばれた気がして、ドリスははっと顔を上げた。
しかし、それは思い過ごしだと気づかされる。
ドリスは、ひんやりと乾いた石畳に座り込んでいた。窓も、調度品の一つもない、それなのに真昼のように明るい、物置のように小さな部屋。
壁には、こっくりとしたワイン色のドレスをまとった黒鳥姫の肖像画が飾られている。デザインこそ違うものの、ドリスが今着ている衣装とよく似ている。
「ようこそ、黒鳥姫」
肖像画の真下で、豊かな黒髪を背に垂らしたあどけない面差しの女の子が、妖艶な笑みを浮かべて立っていた。
夜色のドレスに身を包んだ沈黙の魔女リプリィは、旧知の友を迎えるかのように、嬉しそうに目を細める。彼女の足元では、金茶色の瞳をした黒猫が鉤尻尾を揺らして座り込んでいる。
「約束の時だ」
パン
咄嗟に後ずさろうとしたドリスだったが、身体が動かない。まるで、目に見えない糸に全身を絡め取られているかのよう。
リプリィは小さな歩幅で近寄り、床に座り込むドリスの前に立った。胸元に手を差し入れ、首から下げているガラス瓶を取り出す。淡い虹色の光が静かに明滅していた。
「お前のような素晴らしい器に出逢えたことを、嬉しく思う」
「あなたは、黒鳥姫を……サレムさんを生き返らせて、どうするつもりですか?」
かろうじて動く唇を震わせて、ドリスは隙間風のようにか細い声で問いかけた。
「私は、サレムがそばにいればそれでいい。他に望むものなど何もない」
「サレムさんは……それで幸せになれるのですか?」
「当然だ。私たちは互いを必要としている」
「サレムさんが命がけで愛した吸血伯爵が、現世にいないのに?」
すると、リプリィは嘲るように笑った。
「あいつは道を誤っただけだ。間違いを正すのが友の役目だろう。私は、サレムに正しき道を示す義務がある」
「彼女が吸血伯爵を愛したことが、間違いだと言うのですか?」
「愚問だよ、黒鳥姫」
幼い指先が、身動きが取れないドリスの頬をなぞる。皮膚が、ぞくりと粟立った。
不意に、左右に結い上げた髪のリボンをほどかれ、絹糸のような黒髪がぱさりと肩に落ちた。
「やはり、このほうがよりサレムに似ている」
リプリィは、淡い紫色の瞳を満足げに細め、話を戻した。
「私から離れたことが、そもそもの間違いだったのさ」
「違う……」
ドリスは首を横に振ろうとした。しかし、実際には髪の一筋たりとも動かせていない。
「わたしは、間違いだとは思いません……。黒鳥姫の恋が間違いだとしたら、これほど永く、人々の間で語り継がれてはいないはずです」
「間違いだよ。歴史と同じさ。後世に伝えられているのはどれも、
リプリィはこともなげに言い捨てた。
「でも……」
「お喋りの時間は終わりだ」
リプリィは、首から下げたガラス瓶の栓を引き抜いた。
瓶の中から、蛍のような淡い光の球体がゆっくりと抜け出した。
リプリィは虹色の球体を掌でそっと包み込むと、それをドリスの口元へ寄せた。
「目覚めの時だよ、サレム……」
リプリィは恍惚とした表情で、淡く輝く魂に呼びかける。
「……セレスト……さま」
無意識にドリスの口をついて出た名前に、リプリィは細い眉を跳ね上げた。
「ああ、今の世の王太子か。魔法使いの力添えがなくては生きられない王族など、早く滅べばいいものを」
忌々しげに言うリプリィの声を遠くに聞きながら、ドリスは頭の中でセレストと踊った昨晩のことを思い描いていた。
『名前……、昔みたいに』
『この傷痕……いつか、お前が治してくれ』
『ドリス』
ぎゅっと目を閉じると、睫毛が涙に濡れた。
もう二度と会えないのだと思うと、悲しくてたまらなかった。
「セレスト様……」
「さあ、黒鳥姫。一息で飲み込むんだ」
湯気のように温かい何かが唇を割って滑り込んでくる。反射的に吐き出そうと喉に力を入れた時には遅く、胸の奥が急激に熱くなった。
「いや……!」
目の前が白く弾け、ドリスの意識は闇の底へと突き落とされた。
頭上に星が瞬いている。
夜空を覆う灰色の雲の隙間で、大粒の星が二つ、三つと、己の居場所を示すかのように青白い光を放つ。
ドリスは白木の小舟に乗っていた。風もない、もの静かな海原の真ん中に、小舟はただぽつんと浮いていた。遥か先にあるのが陸地なのか、なだらかな水平線なのか、判断がつきかねるほどに闇は深い。
「こんばんは」
不意に、女性の声がした。
視線を向けると、いつの間にか小舟の端に――ドリスと向かい合うように、一人の女性が座っていた。長い黒髪に藍色の穏やかな目をした、二十歳前後の若い女性だ。どこかで会ったことがある気がして、ドリスは相手の顔をじっと見つめた。
「綺麗な月夜ね……って言えたらいいんだけど。月どころか、星もろくに出ていないわね」
黒髪の女性は苦笑を浮かべながら、厚い雲に覆われた夜空を仰いだ。偶然にも、彼女はドリスが着ているのと似たような、ワイン色のドレスを身にまとっていた。かなり古めかしいデザインだが、手入れがよく行き届いており、女性の着こなしも洗練されている。
「あなた、魔法使い?」
「ええ……一応、というか、ただのポンコツですが」
ドリスが曖昧に答えると、相手は嬉しそうに顔をほころばせた。
「偶然ね。あたしも魔法使いなの。こう見えても、クレシア宮廷魔法師団の次期団長って言われていたのよ」
「それは、すごいですね……」
ドリスは感嘆の息を漏らした。
しかし、相手の女性は眉尻を下げ、悲しそうに肩をすぼめた。
「でもね、もう魔法師団には戻れないの。掟を破ったから」
「掟?」
訊き返すと、女性はこっくりとうなずいた。
「好きになってはいけない人を、好きになってしまった」
女性は、白くたおやかな手を闇色の水面に触れ、手首まで浸した。
「吸血伯爵……?」
ぼんやりとその名を口にしてから、ドリスは首をかしげた。どうしてか、頭の中にその名前が浮かんだ。
相手の女性は不思議そうに目を見開いて、こちらを見つめていた。
「なぜかしら。あたし、あなたとどこかで会った気がするわ」
「わ、わたしもです」
「まあ、偶然ね」
黒髪の女性は指先で水面に波紋を描きながら、藍色の目を細めた。
「あなた、名前は?」
「ドリスです」
「素敵な名前ね。あたしは……黒鳥姫って呼ばれてる。本当の名前は、忘れちゃった」
女性は、細い肩をすくめて笑った。とても寂しげな笑顔だった。
ふと、分厚い灰色の雲を割り、白い光の柱が水面を照らしだした。闇色の水面が金色に輝く。
「時間だわ」
黒髪の女性はすっと立ち上がった。ワイン色の袖に包まれた華奢な両腕が、鴉のようにつややかな黒い羽根に覆われていく。
彼女は、ドリスが息を飲む間に両腕の翼を広げ、船底を蹴った。
黒い羽根が、綿雪のように舞い散る。
「またね」
ふわりと舞い上がった身体は一羽の黒鳥へと変じた。
高い鳴き声をあげながら金色に晴れ渡る空の向こうへと飛び去る黒鳥の姿を、ドリスは茫然と眺めていた。
彼女の本当の名前を知っている気がするのに、どうしても思い出すことができなかった。
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