ユーフェミアの身体に異変が現れたのは、翌朝のことだった。

「明け方からずっと、この調子なんだよ」

 ドリスを王女の私室へ連れてきたメリンダは、困ったように肩をすくめた。

 窓から射す白い陽光を浴びて、ユーフェミアの蜂蜜色の髪が黄金のかけらをこぼすようにあざやかな光を散らす。精巧な人形のように麗しいが、その顔には疲労の色が滲んでいた。

 しばらく見守っていると、コルクの栓を引き抜いたような軽快な音が鳴り響き、彼女の華奢な身体はたちまち白銀色の煙に包まれた。

 煙が晴れると、すっかり見慣れた白い猫が姿を現した。

 そして、さらに時間が経つと、再び白銀色の煙がたちこめ、少女の姿へ戻る。

 日が昇ってからというもの、彼女は猫と人間の姿を絶え間なく行き来しているのだった。

「見せ物じゃありませんわよ……」

 何度目かの変身をした少女姿のユーフェミアは息を切らして、その場にいる全員を睨んだ。

 明け方から彼女に付き添っているメリンダ、呼びつけられたドリスの他に、セレストとパーシバル、ダレンも同席していた。

「姫様、大丈夫ですか……?」

 ドリスは、銀糸で大蜘蛛の刺繍を入れたお気に入りの黒いハンカチで、額の汗をそっと拭き取った。

「ありがとう……。正直なところ、ちっとも大丈夫ではありませんわね……」

 体調を崩しているというよりも、変身を繰り返した影響で身体が疲労している様子だった。

「それにしても……悪趣味なハンカチですこと」

 漆黒の闇を這うような大蜘蛛の刺繍を指差し、ユーフェミアは眉根を寄せた。

「よかったら、お持ちになっていてください。わたしが刺したものなので、護符アミュレットとしては気休め程度ですが……」

 ドリスは趣味で刺繍をたしなんでいる。描く図案はどれもこれも身内からひどく不評なのだが、遠方から村を訪れる行商人は、めずらしがって高値で買い取ってくれる。

「……どうしてもとおっしゃるのなら、もらって差し上げますわ」

 毒舌にまったく切れのないところを見ると、相当に苦しいのだろう。ドリスは、ユーフェミアの華奢な手にハンカチをそっと握らせた。

「メリンダさん、お父様。いったい、姫様に何があったのですか?」

 ドリスが尋ねると、メリンダとダレンは顔を見合わせた。

「姫様にっていうより、君に異変があるみたいだよ、ドリス」

「わたしに?」

 ドリスは首をかしげた。

「昨夜、何かありましたわよね……?」

 ユーフェミアが息も切れ切れに問いかけてくる。

「何か、と言われましても……」

 どこへともなく視線を泳がせると、不意にセレストと目が合った。互いに頬を赤らめ、同時に顔を逸らす。ドリスは無意識に、昨夜のバラ園での出来事を思い出していた。耳元で囁かれた言葉や、強く抱きしめられたぬくもりがよみがえる。

(あ、あれは別に何かあったとか、そういうのじゃなくて……。ちょっと驚いただけで……)

「バレバレですわよ。吐きなさい……今すぐに」

 ユーフェミアは、はかなげな指先でドリスの胸倉をがっちりとつかみ、幽霊のように青白い顔で詰め寄った。目が据わっている。

 あまりの迫力に気圧されていると、メリンダがユーフェミアの身体をやんわりと引きはがした。ちょうどその時、白銀色の煙がユーフェミアの身体を包み、彼女を猫の姿へと変えた。

「姫様は身体に障るから、少し黙って。それと、ダレンは退室。通常任務に戻るように」

「なぜです?」

 ダレンは怪訝そうに眉をひそめた。

「どこの世界に、父親の前で色恋の話をしたがる娘がいると思うのさ? 空気を読みなよ」

 メリンダの指摘に、ダレンは言葉を詰まらせた。

 無言でドリスに気遣わしげな視線を送り、次いでセレストに針のような鋭い視線を向けた。セレストは気まずそうに目を逸らす。ダレンはセレストを睨みつけたまま、指を鳴らした。彼の身体を青白い身体が包み込み、霧のように姿がかき消えた。

 沈黙が降りると、メリンダが「さて」と仕切り直した。

「推測だけど、姫様の呪いは解けつつあると思う」

 メリンダは、腕の中で暴れるユーフェミアをしっかり抱きかかえて言った。

「そもそも、呪いが発動したきっかけが……アレだね。大きな声では言いにくいことだから伏せておくけど」

 どうやら、メリンダはすでにダレンからの報告を受け、ドリスがユーフェミアに呪いをかけた原因を承知しているようだった。

「その、きっかけとなったアレが、うーんと……緩和された、って言えばいいのかな?」

「心変わりですわ」

 メリンダの腕の中で、ユーフェミアがぼそりと言った。ドリスは、心なしか頬が熱くなるのを感じ、顔を伏せた。

「あ、あの……」

 消え入りそうな声で切り出すと、いっせいに視線を向けられるのが気配でわかった。

 ドリスは、膝に置いた両手を見つめながら、たどたどしい口調で言った。

「パーシバル様と、二人で……お、お話を、させてもらえますか?」



 ドリスとパーシバルを残して、セレストたちは隣の続き間へと移動した。

 かぐわしい花の香りに包まれる中、こっくりとしたワイン色のドレスの布地を指先でいじりながら、ドリスは必死で言葉を選んでいた。

「あ、あの……っ」

「慌てなくてもいいよ」

 ゆったりとした、穏やかな声。水面みなもの小舟が揺らぐような心地良さに、時の流れを忘れてしまいそうになる。

「僕も、君に言わなければいけないことがあるんだ」

 ドリスは顔を上げた。涼やかな琥珀色の瞳が、わずかに憂いの色を帯びている。

「ごめん、ドリス」

「え?」

「なんて言ったらいいのかな……。何を言っても、僕が自惚れてるみたいに聞こえると思うんだけど」

 パーシバルは照れたように目元をゆるませて、一旦、言葉を切った。

「ずっと、気づかなくてごめん」

「いいえ、パーシバル様が気に病まれることはありません。わたしがいけないんです。わたしが勝手に……」

 喉の奥で何かに堰き止められるように、言葉が詰まる。

 ドリスは、うるさく鳴り続ける心臓に手を当て、小さく深呼吸をした。パーシバルの琥珀色の瞳をじっと見据え、唇を薄く開く。

「わたしは……パーシバル様を、お慕いしていました」

 その言葉を吐き出した途端、身体じゅうから力が抜けたような気がした。

「過去形なんだね」

「えっ!? いえ、あの、今は好きではないというわけではなく……。今も好きですが……じゃなくて、その好きとあの好きは違うと申しますか……その」

 ドリスは頭を抱え、塩をかけられたナメクジのように縮こまった。

「ごめん、意地悪だったね」

 ドリスは無言でかぶりを振った。

「姫様との婚約……、解消なさらないでください」

「うん、そのつもりだよ。何があっても」

 優しくも芯のある声音に、ドリスは安堵の息をついた。

「実は、僕も片想いなんだ」

「えっ?」

 突然の告白に、ドリスは目を丸くした。

「彼女は、形式上は婚約を受け入れてくれたけど、本当は……僕がもっと健康な女性と結婚するべきだと思っているみたいでね」

「あ……」

『僕は、同情で君に結婚を申し込んだわけじゃないよ』

 いつかのパーシバルの言葉が脳裏をよぎった。

「婚約を解消したいって言いだしたのは、ユフィの心からの望みだったのかもしれない。呪いのことがあってもなくても、いずれ、こうなっていただろうね」

 パーシバルの寂しそうな笑顔に、ドリスは無性に泣きだしたい思いに駆られた。

「泣かないで。僕がセレストに怒られる」

 笑みを含んだ声で言われ、ドリスは濡れた目をぱちくりとさせた。

「セレスト様に……?」

 すると、今度はパーシバルが切れ長の目をきょとんと丸くした。

「いえ、あの、これは……その、殿下……セレスト様が、そう呼べとおっしゃるので……」

「だからか。セレストの顔が、昨夜からずっとゆるんでるのは」

 パーシバルは思い出すように肩を揺らしてひとしきり笑うと、じっとこちらを見つめた。

「ありがとう、ドリス」

「え?」

「僕を好きになってくれて、ありがとう」

 胸の奥が熱く震えた。

 ドリスの頬に、温かな涙が伝い落ちる。

 顎から滴る透明な雫は銀色の光を放ち、ぽとりと音をたてて絨毯の毛足に沈んだ。

 胸を満たす温かな何かが喉から鼻の奥へとせり上がり、涙の粒がとめどなくこぼれ落ちる。

 白い頬を転がるように滑る雫は、次々と水晶の珠へと姿を変え、足元は瞬く間に光り輝く粒でいっぱいになった。

(これも、呪いのせい……?)

 ドリスは涙の水晶を一粒、掌で受けとめ、しげしげと眺める。パーシバルもテーブルに身を乗り出して、丸く小さな水晶に見入っていた。

『……時は満ちた』

 背筋に冷たいものが走った。

 沈黙の魔女リプリィの声。ドリスの頭の中にだけ聞こえる特別な声だ。

「ドリス、何かあったの!?」

 魔力の波動を感じ取ったメリンダが、続き間の扉を開けた。

 こちらへ駆け寄ろうとするセレストと目が合った瞬間、ドリスの視界が渦を巻くようにして歪んだ。

 白金色の日射しに包まれた部屋が、暗くよどんだ石造りの城へと変化していく。

沈黙の魔女の城へ連れて行かれるのだと、ドリスは直感的に悟った。

 すべての色が混ざっていくような視界の中で、自分が落とした水晶の涙が一粒、二粒、光るのが見えた。

「ドリス!」

「セレストさま……!」

 はたして、その声は彼に届いたのか。

 たしかめる術もなく、ドリスはクレシアの王宮から姿を消した。

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