セレストに手を引かれるままに、テラスから中庭へ移動する。やがて、広間の明かりや外の篝火かがりびが遠ざかり、目の前に藍色の闇が広がった。ほのかな月明かりの下、樹木の影がぼんやりと浮かび上がる。

「ここ……」

 ドリスはあたりを見回した。かすかな花の芳香に覚えがあった。

 入り組んだ迷路のように造られた植え込みに、小さく丸いものが点々と見える。ここに日の光が射すと、リンゴの実ように赤くつやのある花が姿を見せるのだ。

「覚えてるか?」

 ドリスはうなずいた。

 忘れるはずがない。

 幼い頃、セレストとパーシバルと三人でよく遊んだバラ園。

 そして、初めて魔力を暴発させ、セレストを傷つけた場所。

「ここでよく、殿下とパーシバル様と一緒に鬼ごっこやかくれんぼをしましたね。いつも、わたしが鬼にされていましたけど」

「お前は鈍くさいからな」

「鈍くささが災いして、呪われましたしね……」

 六歳のドリスは、バラ園で迷子になってリプリィと出くわし、その場で魔力凍結の呪いをかけられた。

「わたしがランカスタ村へ戻ってからは、殿下がいつも鬼になってくださいましたね。頼んでもいないのに」

「あれは、お前が勝手に逃げたり隠れたりするからだ。好きで鬼になったわけじゃない」

 セレストは口を尖らせて言うと、背を向けてバラ園の奥へと歩きだした。きらびやかな宮殿からさらに離れ、目の前の闇はますます深くなる。

 月明かりに照らされたセレストの後ろ姿をたよりに、ついていく。

「殿下、どちらへ……ぶっ!」

 急にセレストが立ち止まったので、ドリスは彼の背中に鼻っ柱をぶつけてしまった。

「す、すびばせん……!」

 深々と頭を下げ、再び顔を上げると、セレストはなぜか上着を脱いでいた。

「ひゃあっ!」

「何やってるんだ?」

 驚いた拍子に、地面のくぼみに靴の踵を引っかけて尻餅をついてしまった。

 あわてふためくドリスとは対照的に、セレストは黙々と濃紺のリボンタイをほどき、白いシャツのボタンを外しはじめる。

「で、殿下こそ何をなさっているんですかっ!?」

 ドリスは地面に座り込んだまま両手で顔を覆い、くるりと後ろを向いた。

(どうなっているの……!? 水浴びをなさるにはまだ早いし、寒中水泳や我慢大会の季節はとっくに過ぎているわ。というか、そもそもここは水場じゃないし! もしかしたら、酔っていらっしゃるのかしら? 殿下は脱ぎ上戸なのかしら? 風邪でも召されたら大変だわ……!)

「ドリス」

「は、はひっ!」

 ばくばくと鳴り響いていた心臓が、ひときわ大きく跳ねた。

 セレストは、とても酔っているとは思えないほど落ち着いた声で言った。

「こっちを見てくれ」

(見ろ、ですって……!?)

 ドリスは目を見開いた。

「まさか、殿下が露出趣味の変態だったなんて……知らなかった」

「おい、心の声がダダ漏れになってるぞ」

 セレストに肩をつかまれ、「いいから見ろ」と振り向かされる。

「あ……」

 まろやかな月明かりに、色白ではあるが線の細さを感じさせないしなやかな上半身が照らし出される。セレストは地面に膝をつき、こちらに背を向けた。

 わずかに隆起する両肩の筋肉。その左側から背中の肩甲骨にかけて、さらに腰の上にあたるところまでが――赤紫色に変色していた。

「…………っ!」

 白磁のようになめらかで美しい肌の一部が、まるで大蛇が横たわっているかのように盛り上がっている。見るからに火傷の痕だ。

「殿下……、これ……まさか」

 わたしが……?

 一番訊きたいことが、言葉にならない。口元を手で覆い、息をするのが精一杯だった。お腹の底から石ころのようなものがせり上がってきて、喉のところでつかえる感覚。

 頭の奥で記憶が渦を描いて回りだす。遠くから、幼い日の声が聞こえてくる。

 呪われて間もない頃、セレストに一度、別れを告げた日。

『お前なんか顔も見たくない!!』

『セレストさまなんか……』

(あの時……、わたしはなんて言った? そうだ、わたし……殿下に……)

『きえちゃえ!』

 セレストから突き放されたのが悲しくて悔しくて、思わず頭に血が昇って発した一言。

 普通の子どもならただの喧嘩で済むはずだったのに、あの時のドリスはすでに「普通の子ども」ではなかった。

 吐き出した怒りと悲しみは、目に見えない空気の刃と紅蓮の炎へと姿を変え、セレストを食らおうとしたのだ。

(わたし……、忘れていたの? ずっと……?)

「俺は、何日か生死の境をさまよったらしい」

 震えるドリスに背を向けたまま、セレストはぽつぽつと語りはじめた。

「父が言うには……、俺はうなされながら、ずっとお前の名前を呼び続けていたそうだ。『行かないで』と……」

 セレストがふっと笑うと肩が上下し、それに合わせて火傷の痕が生きた蛇のように、ゆらりとうごめく。ドリスは歯を食いしばって、涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。

「父は、俺のうわ言を真に受けて、お前や両親に罰を与えなかった。それどころか、魔法師団を総動員させてお前の呪いを解くことに尽力し、父自身も暇さえあれば魔法書を読みふけって解呪の糸口を探していた。俺も手伝いたかったが、あの頃は魔法書なんかまったく読めなかった。……情けないよな」

 自嘲気味に笑うセレストの背後で、ドリスは大きくかぶりを振った。

「ごめんなさい……」

 こんなに身近なところで苦しんでいる人がいたのに、何も知らずに狭い世界に閉じこもり、そこに安らぎさえ見出していた自分を、ドリスはこの上なく恥じた。

 知らなかった、忘れていた――そんな自分勝手な理由で許されるはずがない。

「わたしのことなんて、いっそ死罪にしてくださればよかったのに……」

「ふざけるな!」

 夜気を震わせる怒声に、ドリスは身をすくませた。

 振り返りざまに肩を乱暴につかまれる。セレストの顔は、怒っているというよりむしろ、泣くのをこらえているかのように見えた。

「たとえ冗談でも、そんなことを言うな! お前にわかるか? 俺が、どんな思いで……」

 夜風にさらされるセレストの両腕が、ドリスの背に回された。

 ドリスは、セレストの胸に頬を押しつけるような形で抱きしめられていた。

「で、殿下?」

 しっとりと吸いつくような素肌が頬に触れ、ドリスは頭の中が真っ白になる。反射的に逃げ出そうと身じろぐが、見た目よりも力強い腕は痩せっぽちなドリスの身体を捕らえて離さない。

「その呼び方、やめろ」

「え?」

「名前……、昔みたいに」

 セレストがひどく恥ずかしそうにしているのが、息遣いでわかった。ドリスは小さく息を飲み、呼吸を整えてから震える唇を開いた。

「ええと……、セレスト……さま?」

「もう一度」

「セレスト様……」

「もう一度」

 耳元でねだるように囁いてくる声と、かすかにただようバラの芳香に、頭の奥が痺れそうになる。ドリスは喉から熱のかたまりを吐き出すように、もう一度彼の名前を口にした。

「セレスト様……」

「まだ足りない、もっとだ」

 セレストの両腕がドリスの身体をきつく抱きしめ、片方の手は髪を撫でてくる。頭がぼうっとして、身体が地面から浮いているような気分だ。

「もう、無理です……。わたし……なんだか変です……」

「お前が変なのは、昔からだろ」

「う……」

 そんなことありません、と言い返せないのが悲しい。

「あの……、セレスト様」

「何?」

 ドリスはおずおずと右手を伸ばし、セレストの左肩に指を這わせた。なめらかな素肌とは明らかに違う、皺の寄ったサテン生地のようにごわごわした手触り。

「この火傷……、一生残ってしまうのですか?」

「このまま放っておいたら、残るだろうな」

「……ごめんなさい」

「謝るな。治療した魔法使いに、俺が頼んだんだ。どこでもいいから傷を一つ残してくれって」

「どうして……?」

 涙声で問いかけるドリスの髪を、セレストの指が優しく撫でる。

「お前のつらさを一緒に背負うためだ」

「わ、わたしは……つらくなんかありません……! わたしの……心穏やかな引きこもり生活は、平和で……快適で、静かで……。でん……セレスト様さえ不法侵入なさらなければ、きっと、もっと快適に違いありませんでした……っ」

「それじゃあ、どうして泣くんだ?」

 セレストは苦笑を浮かべ、ドリスの目尻に指先を触れた。なぞられた部分が夜の風に当たって冷たい。

「べ、別に……泣いてません」

 せめてもの抵抗とばかりに、ドリスはセレストの胸を押し返した。

「この傷痕……いつか、お前が治してくれ」

 不意をつかれたドリスは顔を上げ、涙に濡れた目を瞬かせた。

「何……? だって、わたしは魔法が使えないのに……」

「お前の呪いは、俺が解く」

 セレストは、親指の腹でドリスの唇をなぞった。

「セレスト様?」

「俺は……」

 セレストは言葉を切り、せつなげに眉根を寄せる。花びらの形をした唇がきゅっと引き結ばれると、セレストはドリスから顔を逸らした。

「……くしっ!」

「セレスト様!」

 ドリスは咄嗟に、地面に落ちているセレストのシャツと上着を拾い上げ、子犬のように身震いする彼の肩に着せかけた。

「大丈夫ですか? 夜は冷えますから、気をつけませんと……」

「すまない」

 セレストは気まずそうに背を向けて、シャツに袖を通した。

 広い背中を見つめながら、ドリスは自分の唇にそっと指先を当てた。指で触れられた箇所が、ほんのりと熱を帯びているような気がする。きつく抱きしめられた身体も熱い。

 バラの微香がただよう藍色の闇の中、夢見るようにぼうっとするドリスの耳に、どこからか猫の鳴き声が聞こえた。

 迷路のように入り組んでいる植え込みの陰に、小さな黒い影がちらりと見えた。

 ほんの一瞬、金茶色の双眸と視線がぶつかる。

『拒んだら、お前の大切な王太子がどうなるか……』

 頭の中に、幼さと妖艶さをあわせ持つ女の子――リプリィの声が響いた。

 背筋が凍りつく。

「だめ!」

 ドリスは弾かれるように叫んだ。

「……どうした?」

 セレストはシャツのボタンを留める途中で振り返った。開いた襟の間から鎖骨が覗いている。

 黒猫の姿はすでに消えていた。

「いいえ……何も」

 ドリスは曖昧に首を振った。

 脳裏に、銀色の大鎌を手にした沈黙の魔女の姿がよみがえる。

(あれは幻よ……)

 風とともに遠ざかる猫の声を追い払うように、ドリスは自分に言い聞かせていた。

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