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先日の婚約披露の舞踏会と比べると規模は小さいが、ドリスにしてみれば王宮の宴はどれも「まぶしい、騒がしい、息苦しい」につきる。
広間に足を踏み入れてからまだ四半刻も経っていないのに、ドリスの心はすでに折れかかっていた。シャンデリアの明かりと、ご婦人がたの金銀宝石が放つ光に、くらくらしてしまう。
(まぶしい……溶けそう……)
今夜は、母が体調を崩して部屋にこもっているため、ドリスは一人で広間へ赴いた。自分が周囲に度重なる迷惑をかけたことで、母の負担を増やしてしまったのだ。本当ならそばについていたかったが、必ず夜会に姿を見せるようにとユーフェミアから釘を刺されている。
母が選んでくれたのは、赤銅色のチュールレースを幾層にも重ねた飴細工のようなドレス。腰には黒いベルベットのリボンを結び、共布で作られた花飾りが添えられている。アクセサリーは敢えてシンプルに、細い金鎖の首飾りと、小花をかたどった金の耳飾り。長い黒髪は一部だけ編み込んで、残りは背中に流している。
高壇に設けられた王族用の席には、国王と王妃が並んで座り、順に挨拶の口上を述べる貴族たちへ朗らかな笑顔を向けている。セレストとユーフェミアの姿はまだ見えない。
「ごきげんよう、ドリス嬢」
壁の花を通り越して壁画になろうと隅のほうへ足を向けた時、背後から聞き覚えのある声がかかった。聞こえないふりをするのも失礼なので(それどころか不敬罪ものだ)、おそるおそる振り返る。
金茶色の髪を尖塔のような凝った形に結い上げ、金糸レースで縁取られた深緑色のドレスを見事に着こなしたクラレットが、大胆に開いた胸元を反らして立っていた。ドレスに縫いつけられた細かな宝石と胸元の首飾りの輝きが、よりいっそう彼女の美しさを際立たせる。隣には似たような装いのマリアンナと、一歩下がったところに取り巻きの令嬢たちが数人並んでいた。
「ごきげんよう……、クラレット様、マリアンナ様」
(その他の皆様もごきげんよう)
名前を知らない取り巻きの令嬢たちへは、心の中でそっと挨拶を述べた。
ドリスは気づかれないように注意しながら、クラレットの額に視線を向けた。昼間、ユーフェミアがつけてしまった傷は、前髪でうまく隠れているようだった。ひょっとしたら、宮廷魔法使いに依頼して傷痕を消したのかもしれない。父から、王侯貴族の火傷や怪我を治療した時の話を何度か聞いたことがある。
「昼間はシェスカちゃんを連れて、どちらへお出かけでしたの?」
シェスカとは、猫のユーフェミアにその場しのぎでつけた偽名である。銀翼の間から姿を消した時のことを追及されているのだ。ドリスは、こくりと喉を鳴らした。額に汗がにじむ。
「ゆ、夢でもご覧になったのではありませんか? わたしには、なんのことやら……」
「まああ、とぼけるおつもり? こちらには、何十もの証人がおりますのよ?」
ユーフェミア王女が呪われた伯爵令嬢に変身し、飼い猫が人語を喋り、さらにはその猫ともども忽然と姿を消したのだ。姫君や女官たち、現場に居合わせた人数は軽く三十を超える。
「み、皆様……、幻覚作用のあるお茶でも召し上がったのでしょう。よくあることです……」
「あるわけないでしょう! わたくしをバカにしていますのっ!?」
閉じた羽根扇を掌に叩きつけ、大声をあげるクラレットに、周囲の視線が集中した。
クラレットは口元を笑みのかたちに歪ませ、羽根扇の先をドリスに突きつけた。
「ドリス・ノルマン。あなたが王宮に現れると、必ず騒ぎが起きますわね。今日のことといい、十年前のセレストお兄様の件といい……」
クラレットは羽根扇をばさりと広げ、そっと口元を隠した。
「気味が悪いですわ」
「次は誰が狙われるのかしら? 怖いですわ」
マリアンナがわざとらしく大きな声をあげる。取り巻きの令嬢たちも、怯えたような表情を浮かべて大げさに同調した。
楽団の奏でる軽快な
「十年前の件って?」
「あの呪われた娘が、王太子殿下を焼き殺そうとしたらしい」
「まあ、恐ろしい。そのような娘がなぜ王宮に?」
「なんでも、王太子殿下が直々に招かれたとか」
「殿下のお気はたしかなのかしら? ……けがらわしい」
異質なものを見る冷たい眼差しと、嫌悪感をあらわにした硬質な声に、ドリスは雪の混じった泥水を浴びせられたような気分だった。寒くもないのに、指先が小刻みに震えだす。
(……どうして、わたしのせいで殿下が悪く言われなくてはいけないの?)
身に覚えのない濡れ衣を着せられることよりも、セレストの名誉を傷つけられることのほうに憤りをおぼえた。
「まさか、王太子殿下はあの娘を妃にするおつもりでは?」
誰かが漏らしたつぶやきに、クラレットがすかさず甲高い声で答えた。
「まあ、ご冗談にしては少々悪趣味ではありませんこと? 呪われた娘を王室に迎え入れるだなんて、疫病を持ち込むようなものですわよ」
ほほほ、と笑い声をあげるクラレットに続いて、皆がいっせいに笑いだした。
(殿下は、わたしをかわいそうに思っているだけよ)
ドリスは目尻に浮かぶ涙をこらえるために、力一杯歯を食いしばった。
「王太子殿下もいずれ目を覚まされて、貴いご身分の姫君を選ばれることでしょう」
「クラレット姫、それはあなたかもしれないと?」
一人の青年貴族の問いに、クラレットが意味ありげな笑みを浮かべたその時だった。
「私が何か?」
ドリスの背後から、澄ましたような男性の声が聞こえた。振り返るよりも早く、目の前にいるクラレットたちや他の貴族たちが口をつぐみ、さっと顔色を変えるのが見えた。
「いかがなされました? 皆様の談笑に、我々も仲間入りさせてはいただけませんか?」
少年と青年の間を行き来する、若木を思わせるみずみずしくしなやかな声。いつものぶっきらぼうな声とはまったく違う気取った口調に、ドリスは一瞬、見知らぬ殿方が声をかけてくれたのかと勘違いしそうになった。
「殿下……」
振り返ると、銀糸の縁取りが美しい漆黒の礼装に身を包んだセレストが、金銀宝石で飾りたてた淑女たちよりもはるかに麗しい笑みを浮かべて立っていた。その隣では、サファイア色のドレスを身にまとったユーフェミアが、スミレの花のようにひかえめな微笑みを浮かべている。
「ユーフェミア、どうしてここに……?」
「わたくしの大切な友人が化粧臭くて野蛮な孔雀に
別にあなたのことだなんて申しておりませんわよ、という余計な一言をつけ加え、ユーフェミアはにっこりと笑った。
「あなた、そこにいる魔女の使い魔に……猫になったはずでしょう!?」
クラレットの声に周囲が再びざわめくが、ユーフェミアは動じることなく空色の瞳を輝かせ、ころころと笑った。
「あらあら、おもしろいことをおっしゃるのね。魔女というのは、ドリスのことかしら? だとしたら人違いですわよ。だって、彼女は魔法がまったく使えませんもの。ねえ、ドリス?」
「は、はいっ。わたしは何の取り柄もない、ただのポンコツです!」
ユーフェミアの助け舟にドリスは頬を上気させ、力強くうなずいた。
「だ、だって、魔力凍結の呪いが……」
「クラレット。まさか、そのような根も葉もない噂を宮廷じゅうに流したわけではありませんわよねえ?」
なおも言い募ろうとするクラレットを、ユーフェミアがやんわりと遮った。そっと身を寄せ、声を落として囁きかける。
「猫好きで有名なクラレット姫が、王女の愛猫に手をかけようとした……なんて噂が流れたら、あなたも困りますでしょ?」
クラレットは表情を凍りつかせ、無言でユーフェミアを睨んだ。
「皆様、お話はもう終わりですか?」
セレストは、いかにも王族らしい優美な笑顔を浮かべたまま、周囲にじっくりと目を配った。しかし、彼の問いかけに応える者は誰もいない。
(今日の殿下……なんだか、本物の王子様みたい)
心の中で失礼な感想を抱いていると、不意にセレストがドリスの手を取った。
「……何か?」
ぼんやりと問いかけると、日を浴びたバラのように輝いていたセレストの笑顔が、瞬く間にしかめっ面へと変わる。いつもの不機嫌そうな顔に、ドリスは緊張がほぐれるのを感じた。
「何か、じゃない。踊るぞ、来い」
しかし、手を引かれると、条件反射でつい足を踏ん張ってしまう。
「い、嫌です……っ! 殿下とご一緒すると目立つから嫌なんです……!」
「バカかお前は。もうじゅうぶん目立ってるって、何度言わせる気だ?」
「バカでいいです。わたしは壁画になるんです」
「いいから来い」
広間の注目を一身に浴びていることなどすっかり忘れ、普段の調子で言い合うドリスとセレストの姿に、ユーフェミアはくすりと笑った。
「クラレット、少しよろしいかしら?」
踊りの輪の中に入っていく二人は、この後、ユーフェミアがクラレットとどのような会話を交わしたか知らない。
後日、クラレットの取り巻きだった令嬢たちの半数が、ユーフェミアとともに海辺の離宮へ赴くこととなるのは、また別の話。
「足を踏んでも、わたしは責任を負いませんよ……?」
「踏めるものなら踏んでみろ」
優雅な曲調と軽やかなステップとは裏腹に、二人は牽制するように低い声で囁き合う。先日の舞踏会同様、セレストは鈍くさいドリスを見事にリードしている。華麗な足さばきを見るに、仮にわざと足を踏もうとしても涼しい顔で避けられてしまうだろう。
「さっきは、ありがとうございました」
セレストの目を見つめて礼を言うと、彼の目元がほのかに赤らんだように見えた。
「あんな連中の言うことは気にするな。噂や陰口くらいしか娯楽がないんだ」
噂、という単語に反応して、ドリスの肩がこわばった。身体をぴったりと寄せ合っている状態では当然、気づかれてしまう。
「ドリス?」
「あの……、殿下」
ぎこちなく足を運びながら、ドリスは消え入りそうな声で問いかけた。
「十年前……、本当は何があったのですか?」
ドリスの腰を支えるセレストの手が、かすかに震えた。
「殿下は、あの日のことを一度も口にしませんよね。ただ、『気にするな』とおっしゃるばかりで……」
暗い部屋に閉じこもるドリスを、強引に外へ連れ出そうと躍起になるセレストと、笑顔でなだめるパーシバル。彼らはいつも、どんな思いでランカスタ村へ来てくれていたのだろう。
「同情で、殿下やパーシバル様に負担をおかけするのは、しのびないです」
「違う、俺は……」
セレストは声をあげかけ、次の言葉を飲み込むように息を詰めた。隣で踊る二、三組のペアが横目でこちらを見ている。
「この曲が終わったら、外に出よう」
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