山をおとなうまれビトどもがふえた。とりわけ頭の毛の短い雄がふえた。まれビトどもは己の頭を叩きながら『文明開化』とやらをうたい、山ビトどもの雄にもまねるものが出はじめた。

 新政府とやらが東に立ち、黒くぴたと身にそう衣をまとった雄をおくりこんできた。役人というのだった。ヌシはいかづちでうとうとしてすこし考え、山にまねきいれることにした。役人に死をあたえるのはかんたんだが、そうなればますますまれビトはおとずれなくなる。山ビトの血はなおもって濃くなり、いずれ絶える。

 ただし、ヌシのすまうほらをふくめた、山ビトのすまわぬ一帯は禁域とし、みだりな立ち入りは禁じさせた。山ははじめて外にひらかれた。

 山はかわった。石を切って積んだイエが建った。商いをするまれビトがしじゅういきかうようになった。山ビトまれビトとわず衣の色がさまざまになり、花が咲いたようにはなやいだ。

 日がのぼりしずむほどに山ビトのすまう一帯はにぎわい、里とよばれた。しかしヌシのすまうほらはヌシののぞむとおりしずかだった。ときおり禁域にふみいりウサギやシカやワラビをとるヒトがでたが、そのたび毒の雨でとかせばそれですんだ。

「ヌシよ、ヌシよ。山はかわりはててしまいました。なにゆえこのような忌まわしい有り様をお赦しなさいますのか」

 老いた山ビトにはなげくものもいたが、ヌシはとりあわなかった。じっさい、山ビトどものくらしはこれまでとて変わりつづけてはいたのだし、そこさえのぞけば山はいまなお平らかだった。なによりも、外の血がはいり、意味ある鳴き声をあげられぬコや、這うよりほかになにもできぬコ、うまれつき盲いたコなどがふえぬのはよきことといえた。あまりにヒトがさかえすぎるなら間引かなければなるまいが、その必要はしばらくないようにおもわれた。

 つめたくしめったほらのなかで、ヌシは富みさかえていく里をみつめ、まっていた。

 そろそろかのヒトが来ていいはずだった。

 こんどはどのような手でヌシをしいさんとするのか。こんどはどのようにして噛みくだき、ひねりつぶし、溶かしつくしてくれようか。

 あの日ガトリングガンでうちつらぬかれて以来、ヌシはそればかり考えるようになっていた。




 そんなある日、里に一匹の雄がやってきた。

「この里は不具かたわが多いのに医者がおらぬ。丁度わしの甥が今年医学校を出たのでな」

 ちいさな身の丈をきにしてうんと身をそらす役人のうしろで、雄は体を前におって首をたれた。

 下をむく一瞬まえ、黒目の底からのぞいた光が、ヌシにはほかのヒトの雄とちがってみえた。

 ――ははあ。

 この医者とやらいう雄こそが、こたびの『かのヒト』か。

 羽虫のようにつぶすはたやすい。だがヌシはほうっておくことにした。『かのヒト』はこたび何をこころみるのか、それをしってからでもおそくはない。

 医者は里のはずれにすみついた。役人は女中とやらをあてがいたがったが、医者は首をよこにふって『大丈夫です伯父さん』といった。

 医者ははじめ遠まきにされていたが、腹がいたいと泣きわめくコを一匹、咳がとまらぬ老いた雌を一匹、滝のように糞をたれながす雄を一匹なおしたあたりで、石のイエに山ビトがおしよせるようになった。

「孫が目がかゆいと泣きどおしで」

「かかあの胸のつかえをなんとか」

「息子がヤマカガシに噛まれちまった!」

 医者はすべてにうんうんとうなずいた。ヌシにヒトの表情はあいかわらずわからぬが、山ビトどもの目にはすきとおった泉の底のようにみえるのだと推しはかれた。なぜなら医者のその顔をみると、あわてふためき声をあらげていた山ビトたちがぴたとしずかになるからだった。日照りつづきの夏、飢えかわき気の立っていたオオカミが泉の水をひとなめしおちつくのを思わせた。

 しかし両目の底はあいかわらず光っていて、これが己をしいしにくるのだとヌシはみるたび確信をふかめた。

 幾百回か日がのぼっては沈み、医者は山ビトの雌とつがいになった。黒い頭の毛を尻までのばした黒曜石のひとみの雌は、ヒトのものさしではきりょうよしらしかった。うまれつき後足の一方が少しまがり、長い木の棒――杖なるものを地についてあるかねばならなかったが、医者は求愛をうけいれられたキジのようによろこんだ。

 もう幾百回日がのぼってしずんだある日、すこし腹のでてきた医者が衣をあらうつがいに向け、こう鳴いた。

「なあ、おまえ。この山にすまうというヌシのはなしだがね」

「はい、おまえさま」

 たらいとやらに衣をつけ、じゃぶじゃぶとこすりながらつがいがこたえた。

「ヌシは多くの掟を山ビトに課しているというな。たとえば、山に生まれたものは山を下りてはならぬだとか」

「誰に聞きましたの」

「炭焼きのおきなだ」

「まあ、おしゃべりな爺様だこと」

 じゃぶじゃぶと鳴っていた音がとまった。

おきなの孫――タカヨシというのだがな、あれが中々利発なので、さきざき僕の出た医学校を受けないかと勧めたのだ。丁度去年お上が学制を定めたことだし、尋常小学から中学下等科を出て、それから医学校に進めばいい。と、言ったのだがね」

 おきてがあるから山を下りられぬと断られたという。

 医者の声はクマの唸りに似てきた。

「なんと不条理な話か。そんな掟打ち壊してしまえばいいものを」

「外からいらした方はそうおっしゃれますわね」

「何か棘があるね、おまえ?」

 ふふ、と、医者のつがいはちいさな口から声をもらした。

「山に生まれた者は、山の掟を守らねば生きてはいけませんのよ」

「生きてはいけん、だと?」

 医者の目の上の毛束がつりあがった。ますますこれまでかのヒトがみせてきた顔に似ていて、ヌシは心の臓のたかなりをかんじた。

「三月前、四つ辻の菅野のせがれが死んだな」

「熱が高うございましたわね。薬が無いので山を下りて買いにいけとおまえさまはおっしゃいましたが」

「菅野のやつ掟に触れるので行けぬと言って、診断から三日も放っておいた。仕様が無いから僕が行こうと外套を着たとき、きゃつのせがれは死んだと知せが来た」

「悲しい話でございますこと」

「八月前、池のはたの沼田も死んだな。頭から爪先まで真っ黒焦げで」

「シカが仔を産む秋に猟をして、ヌシのお怒りにふれたのだともっぱらの噂ですわ」

「葬式もなく、真っ黒に焦げたまま山裾に打ち捨てられたのはそのせいか」

「掟を破った者に肩入れすれば、自分もヌシのお怒りを買うと皆思ったのですわ。ヌシはこの山を平らかに保つためだけにある御方。ヌシにあらがって生きるすべなど誰も知りません。この山に生まれたヒトは、誰も」

 医者はゆっくりと口から息をはいた。その息が火のようにあつく、ヒトの窯からあがる湯気より湿っているとヌシはしっていた。

「許せぬ」

 しずかに微笑む己がつがいをよそに、医者はひくい声ではきすてた。

 それからまた幾百回、日がのぼってしずんだ。ヌシがしるかぎり医者はそれきり一度も、山のおきてについて話さなかった。ある日ヌシが棲まうほらに一匹やってくるまでは。

「山の、ヌシよ」

 医者は木をつくった底のまるい容れものを抱えていた。容れものからつよいにおいがした。マツの木肌がかもす香を幾十倍にもつよめたにおいに、顔もしかめずほらまでのぼってきたのだ。

 ヌシにもわかるほど顔があおぐろい。具合がよくないのだ。それでも医者はほらの天井をみあげ、ヌシが数えきれぬほどきいてきたあの言葉を口にした。

「山のヌシよ、おまえを殺しにきた……」

 うろこにおおわれたヌシの背を、ぞくぞくと震えがはいあがった。

 これをまっていた。

 この真っ直ぐなひとみをたたきつぶし、この細いからだを赤い血でよごし、この声をあげる口を力のかぎりひきさく日を心まちにしていた。

 ――こたびはおそかったではないか、ヒトよ。

「できるなら、もっと早く此処に来れたら良かったが。余人の目を盗むのは難儀なものだ」

 ――山ビトの目など気にしておったか。其方も臆病になったものよ。あまりに多くこの世に生まれなおしたゆえか。

「旧くから棲まうものは兎も角、伯父上まで此処は禁域と止めるのだから恐れ入る。骨の髄までこの山に染まってしまった。屹度きっと若輩のじぶん藩校で四書ばかり読んでいたからだ。だから旧弊に弱い。だから斯様なことになる」

 ――あの老いたまれビトなどどうでもよい。さあヒトよ、こたびはどうするつもりか。其方のたくらみをみせてみよ。

 燃えたつばかりに熱いからだをふるわすヌシに、しかし医者はこたえなかった。かふかふと湿った咳をしてつづけた。

「嗚呼なんという旧弊、なんという因習。これまで何人が命を失い、何人が才を活かさず無為に過ごし、何人が掟を破ったと謗られ、弔いさえなく野辺に打ちすてられてきたのか。縁者の悲哀と痛苦はいかばかりか」

 おや、とヌシはおもった。

屹度きっと教育の欠如のせいだ」

 かふりかふりと、また咳。

「物を知らぬから掟の理不尽が判らぬのだ。何よりもまず、教育だ。学校を建てねばならぬ。教師を呼んで来ねばならぬ。男も女も老いも若きも、みな連れてきて教えねばならぬ」

 医者はきっと睨み据えた。

 ヌシでなく、ヌシの体をこえた先にあるほらの底を。

りもせぬ山のヌシなどにまつろうはおかしいと、示して判らせてやらねばならぬ」

 ――其方。

 ヌシは搾りだすように声をだした。

――見えて、おらぬのか。

 答えはなく、マツの木肌かおる桶がかたむけられた。どぽどぽと岩肌に流れ落ちたのは油だった。マツのヤニを水と混ぜて釜であぶりひやし取りだしたものだった。

「『山のヌシよ、おまえを殺しにきた』か」

 油を残らずほらにまいて医者は鳴いた。

まことに斯様なものがいるなら、いくらでも殺してやるものを。棚に並んだ薬は使いよう、大蛇の一匹ぐらい倒すはわけない。菅野のせがれの件で懲り、一年二年困らぬ量の薬を行商に頼んだのだから」

 これまでのかのヒト幾十人には、ただ一匹の異例もなく、ヌシのすがたがみえていた。憎しみをこめてヌシをにらみ、脳天を、心の臓を、臓腑をつらぬかんとした。

 であれば、ヌシのみえておらぬこの雄は。

 ――ヒト違い、か。

 医者はまとった衣のあわせめから、黒くとがった石をふたつとほつれた布をだした。カチと音がして茜の火花があがり、布のはしが燃えだした。

 ヌシのおらぬほらしか目にうつらぬ医者は、一歩二歩とさがり、やがて後足の動きをとめた。そして、油のまかれた岩肌めがけ燃える布をほうった。

 あかい炎があがった。

 炎はヌシのうろこをもあぶった。あつさを感じぬヌシはうごかなかった。その場にたたずむ医者を見すえていた。

 かのヒトではない。

 ならば、こたびのかのヒトはいつ来るのか。

 おおきなあたまのなかでヌシが思いめぐらせたとき、医者がその場にくずおれた。後足のまがったところを岩肌につき、前足の先でからだをささえて、どっぷりと血をはいた。さっきよりあおぐろい顔になっていた。

 そのとき。

「山のヌシよ」

 かつり、かつりと音がした。重みのかかった細長いものが岩肌をうつ音だった。

 ――ああ。

 ヌシは歓喜の声をあげた。

 ――其方であったか。

 杖に身をあずけ、医者のつがいがそこにいた。

 尻までのばした黒い毛はみだれ、まとった白い衣は土にまみれていた。不具かたわの身をおして山道をのぼってきたためとおもわれた。

「お、まえ……」

 せりあがってくる血とほらの中にみちだした火の毒気に、息もたえだえで医者がうめいた。つがいは医者に一瞥もくれず、かまくびをもたげたヌシを見すえた。

「山のヌシよ。長く待たせたようだな」

 ――山ビトに生まれておったとは。

「このような体でさえなければ、もう少し早く来るつもりだったよ。前世の業かはたまた単に巡り合わせかでこう生まれついたか、今生の私には分からんがな」

 ――なんでも良い。

 ほらがふるえていた。炎のあつさでゆらいで見えるだけではなかった。ヌシの歓喜のふるえにあわせて、ほらがゆれているのだった。

 ――さあ、こたび其方はどうする。

「おまえ……なぜ、此処に」

 ヌシのすがたがみえず声もきこえぬ医者は、たおれこんだまま己がつがいに手をのばした。

 つがいはようやく医者をみた。杖の先を医者に向け、突いた。

 力の入れ方をこころえていたのであろう。医者のからだはごろりと転がり、からだぜんたいが上をむいた。

 むきだしになった医者ののどを、つがいは杖の先でまた突いた。ごえ、という聞きぐるしい鳴き声とともに、医者はもう一度くろい血を吐き、動かなくなった。

 ――殺すあいてをたがえておるようだが。

「このまま放っておいて苦しませるよりいいさ」

 ほらのなかの熱気が増してきた。

「良い亭主だった。私には過ぎていた。もっと楽に殺してやれればよかったが、井戸に流した薬の量が足りなかったな」

 ――井戸?

 つがいは死んだ医者のそばにうずくまった。

「丈夫すぎた。それに義理堅すぎた。己の身がもううにもならぬのを悟り、せめてその前にと貴様を『殺しに』来るほど」

 顔につたう汗をぬぐいもせず、つがいはふふと笑い、しずかにヌシをみあげた。

「山のヌシよ。私はこのたび、貴様を殺しにきたのではない」

 ――ほう?

「山ビトたちの様子を見てみるがいい。これまで貴様がそうしてきたように」

 ヌシはそのとおりにして、気がついた。

 ヒトのうごく気配がない。

 炭焼きのイエでオヤコ三匹が死んでいた。池の端のイエでは玄関先で老いた雄が倒れ、それを助け起こそうとしたらしい若い雌もまた息絶えていた。アカゴを抱いた雌が道端で死に、抱かれたアカゴはオヤの重みで窒息していた。土の上にもだえた痕をのこして、サカナをとりにいくところだった幼い雄が動かなくなっていた。医者を山によびよせた役人も、机とやらいう木の塊を血でくろくよごし冷たくなっていた。

 ウシも、ウマも、イヌもネコもみな死んでいた。

 ――其方、まさか。

「薬を流した。すべての井戸に」

 こともなげに、つがいが鳴いた。

「ヌシよ、貴様はこの山を平らかに保つためにある。なれば、それが貴様の生ける甲斐そのもの。その生ける甲斐を少しばかり減らしてやったまでだ。今生の私はこの通り、貴様を殺すこと叶わんのでな」

 ――どれほどの罪かしってのことか。

「貴様のものさしでどうかは知らんよ。ただヒトの世でなら、そうさな、二、三十回くびられても足りん」

 みひらかれた医者のまぶたを閉じてやりつつ、つがいはまた鳴いた。

「ああそうだ、ヌシよ。蛇畜生の顔つきはわからんが、今の貴様の心はわかる。頭が真っ白だろう。何も考えられんだろう。貴様が守ろうとしてきたものは消えて無くなった、少なくとも幾ばくかは!」

 つがいは口をあけた。あかくもえる火にてらされて、のぞく色は腐りかけた八重桜のようだった。

 笑い声がもれた。はじめは小さく、やがて噴きあがるように大きくなった。あはは、はははは、あははは、あははははと、杖にもたれた身をゆらしながらつがいは笑いつづけた。

 笑いすぎて息をつめ、前のめりになったつがいの体を、ヌシは尾の先でないだ。ほそい体は軽くふきとび、ほらの岩壁にうちつけられた。右半分岩にめりこみつぶれながら、それでもつがいは笑っていた。

「ざまをみろ。ざまをみろ。山ビトは死んだ。男も女も老いも若きもみな死んだ。ヒトの与える糧で生きるケモノもみな死んだ。貴様が間抜けだからだ、ざまをみろ。私はこの身に生まれてこのかた、何もかも全て、このために――」

 つがいは目をみひらいた。口からぼとぼとと血があふれた。

「このために」

 目をとじれば楽になれるだろうに、つがいはそうしなかった。まぶたから目がこぼれおちそうなほど大きくみひらき、血といっしょに声をしぼりだした。

「このため、なんのため……私は、なんの、なんのために。忘れてしまった。なんのために」

 のこった左前足をつがいはさしのばした。

 たったいま息の根のとまった医者は、ひろがりつづける火にのまれ燃えていた。

「おまえさま……」

 山ビトはほろんだ。

 よからぬうわさでもたったのか、分け入ってくるまれビトもいなくなった。

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