山ビトがほろんだのは、ヌシにとってむろんよいことではなかった。しかしクマもシシもオオカミもキツネもタヌキもカラスもキジもウズラもスズメも変わらず暮らしていたので、やることはそうかわらなかった。

 かのヒトはまだやってきたが、少しずつ間があくようになった。

「日本は負ける」

 あるとききたのは、骨がみえるほど肉の薄い雄だった。

 鼻の頭にひっかけたすきとおった飾り(眼鏡というらしい)を前足の先でもちあげながら、やせた雄は歯をむいた。

「ハルビンで何百もの丸太を……捕虜をガス室に送りこんだ。米兵が鬼畜だろうとなかろうと俺の命はない。ならばその前に貴様もろとも地獄に落ち溜飲を下げる。さあ思う存分吸え、護国の礎になるはずだったガス兵器だ!」

 ヒトの前足ひと抱えあるおおきな鉄が、どうやってほらまで運ばれてきたかヌシはしらない。とにかく雄は鉄のかたまりの先を引き、中につまっていた何かをふきださせた。

 ほらに甘いかおりがみちた。熟しすぎたヤマモモのにおいににていた。

「ヌシよ観念しろ日本は終わりだ。今に米英ロシアが押し寄せて、この国の旧い在り方を打ち壊す。美しいものも醜いものも好ましいものもおぞましいものも区別はない。今やろくろく思い出せんが、貴様もたぶん旧い在り方のひとつだろう。であれば貴様も打ち壊しの対象だ。暴力的に蹂躙され滅しつくされるのだ」

 歯ぐきまでむいてやせた雄はわめきつづけた。

「俺はな、いったんは貴様などどうでもいいと思った。そんなことより皇国のおんため身命を賭さんと、俺なりのやりかたで戦った。だがその願いは潰えた。日本は滅ぶ。俺も貴様も滅ぶ。ヌシよどうせ滅ぶなら、今ここで俺と滅べ。地獄で共に裁きの待ち列に並べ!」

 雄の顔があかく染まってきた。吐く息吸う息もヒュウヒュウとおかしな音をたてだした。白目が腫れあがり、顔の皮まであかぐろくかわりはじめた。

「貴様が何者か、俺のこの憎しみが何に由来するのか、もう思い出せん。それでいい。もはや俺には貴様しかない。他に残った物がない。死ねい、俺とともに死ねい!」

 雄はたおれた。びくびく身をふるわせ、口から白いあわをふいてうごかなくなった。ヌシはすこしばかりの頭のいたみですんだ。

 一万だか二万だかそこら日が昇り沈んで、次のかのヒトはまるまる太った雌としてやってきた。

「この山はね、あたしが買い上げたのよ」

 いやらしいほど赤くぬった口で、雌はにやりと笑った。

「いくらだったと思う? わからないでしょうね言っても。とってもお安いのよ、笑っちゃうくらい。世の中空前の好景気でどこもかしこも値上がりしてるのに、山奥のど田舎って悲しいわねえ」

 甲高い雌の鳴き声を聴きながら、ヌシは感覚をとがらせていた。

 山が崩されていた。花のようにあざやかな色の車がいくつも入ってきて、ぶかっこうな長い首で木を伐り土を切り崩していた。

「こんな所どうにも使いようがないけど、せっかくだから利用してあげるわ。今はやりのゴルフ場にしてあげる。あんたの死に様拝むついでだし、お金はうなるほどあるし、多少損したって構やしないけどね。それにしても、あんたって蛇だったのね。どれだけ気持ち悪いバケモノかと思ってたら、大きいだけで案外普通でガッカリ」

 木々が瞬く間になぎたおされていった。ウサギやキツネが声をあげ逃げまどった。

 ヌシが永くまもりつづけてきたものが踏みにじられようとしていた。

「あんた自身を殺すより、山を潰したほうが絶対ラクよね。だからそうするわ。あんたが神様だか妖怪だかなんだかなら、治めてる山がなくなったら消えていなくなるのが相場でしょ、水木しげるでよくあるやつよ。悪いけど時間はかけないわ。あんたの相手するよりもっとやるべきこと山ほどあるんだから。じゃあね、バイバイ。あたしこれから取引先に顔出ししなきゃ、」

 雌が最後まで鳴くまえに、ヌシはいかづちを落とした。今まででもっとも熱くはげしいいかづちは、瞬きひとつで鳴き声もあげさせず雌を炭にかえた。

 ヌシは車にもすべていかづちを落とし、ひとまず山は平らかさをとりもどした。

 かに見えた。




 太った雌にいかづちを落としたあとも、山を伐りくずす車はやってきた。

 雌が買った山が別のヒトの手にわたったのだ。それもとくにあきらめの悪いヒトの手にわたったのだ。どれだけはげしく罰しても、しばらく間があきはせど止まらなかった。

 切りくずされては追いかえす。追いかえしてはまたくる。また切りされてまた追いかえす。

 いたちごっこをつづけ山はえぐれていった。木々は少しずつ伐られてはこびだされ、土もどこぞへともっていかれた。そして山がえぐれるとともに、ヌシのちからもよわっていった。太った雌が死のまぎわ鳴いたとおりになった。

 数千かそこら日がしずんだころ、山の伐りくずしの攻勢がました。車にのってきたヒトの一匹が鳴いていたのによれば、ダムとやらをつくる気だった。

 よわったヌシのちからではあらがいきれなかった。まれビトは木を伐り土を削り、岩盤をむきだしにした。さらにあちこちに深い穴をほり、熱くどろどろとした灰色の粘土を流しこみ固めた。そこここに、同じ灰色の粘土であれこれ建てた。あるものは四角くあるものは長細く、あるものは開け閉めできるようになっていた。

 ケモノはへり草木もへり、よわったヌシにはまれビトに罰をあたえるちからもなかった。太い蛇体をささえるだけでもむずかしく、ほらの奥深くで身をよこたえ目をとじるばかりであった。

 もはや山を平らかにたもつ役目をはたすどころではない。それでも生きながらえているのは、待っているからにほかならなかった。

 ヌシが生きてここにある限り、必ずまたくるであろう者を。

 高く細い声がひびいたのは、そんなときのことである。

「ヘビ?」

 ヌシは目をあけた。

 ヒトの雌がいた。

 どれだけ時がたっても、ヌシにはヒトの年がわからなかった。ヒトの寿命がのびたので、頭の毛が白く尻あたりが折れまがれば区別はつくが、そこが限度だった。

 それでも、目の前の雌がごく若いのはわかった。体がちいさく、凹凸がない。二本の後足で歩くようになって十年と少しか。黒曜石より黒い目をまるくみひらき、ヌシをみあげている。目の上に二本ある毛束は弧を描いてもちあがり、ヌシの記憶がただしければ、これはヒトの驚きの表現であった。

「ヘビ。ヘビだ。大きなヘビ」

 ヌシはたえだえの息のした幼い雌をみつめた。

 あいかわらず、ヒトの表情はよくわからない。ただこれまでヌシをみてきたヒトたちの尊びや畏れとも、『かのヒト』の両の眼にやどっていた憎悪ともちがうようにみえた。

 ――其方は。

「しゃべった。……ごめんなさい、ごあいさつしないで。きっと起こしちゃったんだね」

 かのヒトではない。

 かのヒトがヌシの前に立って、こうもやわらかくおだやかにいられるわけがない。

 ならばどうでもよいとふたたび目をとじたとき、ふふ、と笑う声がひびいた。

「ああ、今わかった。わたしきっと、あなたに会いにここにきたんだ。わたしね、生まれたときからずっと、ここにきたい、って思ってたの。どうしてかぜんぜんわからないけど、ここにきて、誰かに会わなきゃ、って。お父さんとお母さんに何度も話して、つれてってって頼んだんだけどきいてくれなくて」

 ヌシは目をとじたままでいた。

 目をとじたままきいていた。

「そしたらね、昨日お父さんが、ここに来て誰かと会うなら今しかない、って、車でつれてきてくれたの。六時間もかけて。なんで今しかないのかよくわからなかったけど。そしたら、あなたに会えた。おかしいね、こんなに大きなしゃべるヘビなのにぜんぜん怖くないの。ずっと前から知ってる人みたいな気がするの。なんでかなあ」

 ささやくような声音で、雌が鳴いた。

「ねえ。ちょっとだけ、さわっても、いい?」

 ヌシはがえんじる気も拒む気もなかった。ただ身じろいだとき頭が縦にゆれたのを、幼い雌はゆるしと思ったらしかった。白くやわらかい前足がヌシの下あぎとにふれた。

 ヌシはあらがいはしなかった。前足が下あぎとを二、三回なでまわし、そっとはなれるまで身じろぎひとつせずにいた。

「ありがとう。お昼寝の邪魔しちゃだめだよね」

 また笑う声がした。

「もう行くね。ごめんね」

 ヌシは目をあけた。

 幼い雌は、あかるく日のさすほらの外にあるいていくところだった。

 ヌシの目があいたのをみて、幼い雌は細い首をかたむけた。

「なあに? ヘビさん」

 ヘビはこたえなかった。こたえることなどなにもなかった。

 この身にこのような心を植えておいて、こうもあっさりと先にいくのか。黒いひとみに煮えていた憎しみを、どこに置きさってきたというのか。ヒトのたましいはやわらかくもろすぎ、悠久の時にはたえられぬのか。

 いえるはずもなかった。

「なにもないの? そう」

 ヌシはまたゆっくりと目をとじた。

 幼い雌はまたあるきだした。

「さよなら」

 ヌシは目をとじたまま、幼い雌の後足の音をきいていた。

 かのヒトはもうここにはくるまい。

 その確信だけがあった。




 十度の日の出日の入りをへて、削りとられた山に水が放たれた。

 クマのすみかもキツネのねぐらも、かつての山ビトの里もヌシのほらも水底にしずんだ。

 ヌシの言いつたえは今なおのこるが、ヌシをみたものはどこにもいない。

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輪廻、それから 柊キョウコ @hiiragikyou

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