承
日が昇って沈むこと何十万か何百万回、山の下のヒトの世はなおも流転した。
山ビトの雌とつがい棲みついたとある
ヌシはおもった。西は実りすくない不毛の土なのだ。乏しい食物をうばいあいそのようなことになったのだ。ヌシが平らかにおさめている、実りおおきこの山ではありえぬ話だ。
またやってきた別の
「侍め。吼えて噛むばかりが能の使い走りのイヌめらが、畏れも知らず鎌倉から京の帝にあれやこれや。この国は最早ほろぶばかりよ。ああ憎い憎い憎い憎い、侍め」
背に矢をうけていた。赤黒い血をだらだらながし、月が二度のぼったあと死んだ。
戦で傷をおった
いかづちをまぬがれたものも中にはいた。たとえば、細くひょろ長い体の雌である。
奇妙なふうていであった。前足後足の先にいくほどひろがる白い衣も、頭に乗せた長細い飾りもヌシがかつて見たものににていた。その後いくどか
山ビトの手当で傷がいえた雌は、トリより美しいさえずりと、チョウのはばたきよりあでやかな動きを礼に披露した。山ビトのオサがこの『白拍子』の『
ひょろ長い雌はコを三匹産んだ。何千回か日がしずんで一匹が長じ、二匹が死んだ。長じた一匹がコをつくって次のオサになるころ、雌の頭の毛は半ばが白くなり、ひょろ長い雌はひょろ長い老いた雌になった。
ある日、ヌシの棲まう
しかし、このときの祀りはちがっていた。
代替わりした今のオサのとなりに、ひょろ長い老いた雌がいたのである。
「山のヌシよ」
雌は山をはじめておとずれたとき身につけていた、『白拍子』の衣をまとっていた。毛は白く、尻から上は曲がりだし、しかしかつてと変わりないぴんと張った声で、雌は鳴いた。
――ほう。
「山のヌシよ。数々貢物を捧げてまいりましたが、我が舞は未だ捧げておらなんだと存じます。老い先短いこの身、ここらで舞い納めと致したく、是非にもヌシの御前でと思い立ち、息子に無理を言って此処までまいりました」
ひょろ長い老いた雌はひれふし、となりで今のオサが口の端を下へゆがめていた。ヌシはこれが嬉しからざるときのヒトの感情の表現と知っていた。さんざん反対したのに押し切られたのであろう。
――好きにせよ。
老いたひょろ長い雌は後足をふみだした。硬い岩肌のうえで音はひびかなかった。左前足をゆらし、右前足にいつのまにかあった赤い扇をひろげた。白い衣と赤い扇がひらりとゆれ動いた。
「月更け 風おさまって後 心のおくを 尋ぬれば――」
しわのよった喉がのびやかな
「仏も昔は凡夫なり われらも おもへば仏なり――」
余命いくばくもない雌が、重さのないかのようにおのれの身をあやつるのを、その場の一匹とて声をださずに見ていた。
雌の動きがはげしくなった。じきに
そのときであった。
「いづれも仏性 具せる身を 隔つるのみこそ おろかなれ――」
赤い扇が、さっと投げ捨てられた。
あざやかな赤に目をうばわれた隙、白い光がほとばしった。
ヌシの腹に、ずぐり、と何かがめりこんだ。
刃であった。
雌が、ふところに仕込んだ刃をひきぬき、突き刺したのだ。
「母上! 何を」
「大奥さま!」
オサはじめ、その場にいたものの悲鳴があがった。
ヌシの裂けた腹から血があふれていた。クマにくわれたウサギや、ワナにかかったキツネや、西の戦できずをおってのがれてきた
己がコの悲鳴を意にかいさず、かえり血もぬぐわず老いた雌は笑った。
「山のヌシよ。やはり貴様、その身
――其方か。
「そうだとも」
「母上!」
オサがわめいた。
かつて陰陽の道を修めた雄、あるいは仏の力を借りし雄、また幼くかよわき雌であった老いた雌は、ヌシの身にさしいれた刃のさきを更に奥深く押しこんだ。
「三十年、待った。貴様にひと太刀浴びせる瞬間を、待って待って待ちつづけた。力無き女の身に生まれ、今生では貴様を殺せぬと悟りなお思い捨てきれずこの山へやってきた。そうして今、初めて貴様の血を浴びるが叶った」
「母上! ヌシにお縋りください、
己がコの願いに、またも老いた雌は笑った。
「これに勝る喜びなし。もはや今生に未練なし」
「母上!」
「ヌシよ。この我はここで終わりだが、次の我がまた貴様を殺しに来よう。貴様が幾度我を殺しても、そのたび別の姿で貴様の前に現れよう。いかなる手管を用いてでも、幾度でも幾度でも幾度でも。貴様の息の根が止まるまで」
ヌシは長い尾をしならせた。雌の老いさらばえた身をたやすく弾きとばした。雌は岩肌にたたきつけられ、熟れすぎた柿がつぶれる音をたて肉と血のかたまりになった。
オサが腹の底から噴きあがるような声をあげた。他の山ビトたちは前足で顔をおおい伏せた。
ヌシは血に塗れた岩肌をしばし見つめたあと、
千や万では数えられぬほど、多くの日が昇りそして沈んだ。
ヌシを
――其方、飽かぬか。
あるときヌシがこう聞いた。
かのヒトはこのとき若い雄であった。いつだか西の地に立った室町殿とやらが『都を追われた』と、
雄は天下統一とやらをこころざす大名を主に持っていた。おそらくヒトのものさしでは麗しいのだと、主や周りの兵のだす声音でわかった。そう、若い雄は主をそそのかし、百に余る兵を山の
さすがのヌシもこれには参った。ヌシがみえるものもみえぬものも、みな命じられるままヌシにむかってきた。いかづちひとつで斃れる兵は十や二十、すべてかたづけるには幾度もいかづちを落とさねばならぬ。
若く麗しい雄もヌシのいかづちで、爪の先までくろぐろやかれた。それでもまだ息があったので、ヌシはたわむれにたずねてみたのだ。
――其方がくるのも、もう十度にとどく。山のクマもシシもオオカミもキツネも、ほかのどんなケモノもここまでの辛抱はない。日も幾度昇り沈んだかわからぬ。なにゆえいっこう飽かぬのか。
若く麗しかった雄は、笑ったのだろう、口の間から息をもらした。
なにをいっているか、ヒトならわからなかったろう。ヌシにはわかった。
「飽かぬとも。貴様を殺すその日まで、おれは決して飽かぬ。貴様の死こそ我が求め、我が
――では、なにゆえ我が死を求め、
若く麗しかった雄は、黒いさけめにしかみえぬ口の、両端をぐっともちあげた。
「貴様を殺せば、山は解きはなたれる。クマにシシにオオカミにキツネ、そしてかつておれであった娘と同じ血を引く山ビトたちが、忌まわしき貴様の
――くだらぬ
「くだるくだらぬではない。そういうものだ
雄は咳きこんで、笑った。
「くだらぬ
――聞こう。
「貴様の死に様が見たい。貴様が嘆き、苦しみ、悶え、まだ生きたいと叫んで死んでゆく様をこの目で見たい」
――見てなんとする。
「なんともせん。見るだけだ。見て、そこで終りだ。おれも我も
若く麗しかった雄はうごかなくなった。
その後も何が変わるでもなく、かのヒトはまた幾度もやってきた。
あちこちで戦がおこり、血がながれ、火があがった。戦の中でヒトがうみだしたわざのかずかずで、かのヒトもヌシを
やがて戦がやみ、西の地の太閤とやらのうわさを
傷をおった
公儀とやらがさしむけた鉄よろいの雄たちを、毒の雨でとかしたのがさいごだった。山におだやかで平らかな日々がやってきた。静かな月日は半ばヌシがのぞんだとおりで、半ばそのとおりではなかった。
山の外からやってくるものがなくば、山をおりたいとのぞむものもない。これはよかった。しかし山ビトの血は濃さをました。生まれつき目のみえぬコに耳のきこえぬコ、育っても二本の足で立てぬコが生まれはじめた。
「ヌシよ、ヌシよ。なにゆえ斯様な仕打ちをわれらになさいますのか」
山ビトたちは
ヌシのせいではなかったが、ヌシはなにもいわなかった。
来る日も来る日も
幾万の日が昇って沈んだころ、ようやく一匹の
ヌシは海も船も知らぬが、山をおりたその先のさらなる外からなにものか来たとはわかった。また戦がおこっているのもわかった。
――で、あれば、また
あれはてた山の外に
ヌシの予感はあたった。
ほどなく
「山のヌシよ。おまえを殺しにきた」
ヌシはおのれの口がおのずと開くのを感じた。先が二つに分かれた舌がちろちろとうごめいた。
「西欧列強の手になる凶悪無比の兵器の威力、その身に受けるが良い。へんりい殿も弟御のえどあるど殿も、無駄に死ぬなと止めてくださったが、僕はどうにも我慢ができない。貴様を一日も早くこの世から消し去りたくて堪らない」
がらがらと、
車なら、山ビトがウシにひかせている。が、これはちがった。細い鉄の筒を幾本かよりあわせ、そのまま車にのせていた。筒の一本一本は、太閤とやらが西の地に立つまえ、ヌシをねらった火をふく筒に似ていた。
「ガトリングガンというのだ。さあ、無様に叫びながら死ぬがいい!」
よりあわさった筒の一本が火をふいた。
一本ではおわらなかった。筒のよりあわせははげしく回りながら、止まることなく火をふきつづけた。
筒のさきからうまれた火はヌシのうろこにはじかれた。次から次へ火はふきだされ、当たってははじかれ当たってははじかれた。山ビトたちがたまに口にする馬鹿のひとつおぼえそのもので、ヌシはいままで味わったことのない感覚におそわれた。オオカミが獲物のウサギに牙をたてるすんぜん、ウサギをあわれみその毛なみをなめるのはこのような心もちだろう。
だがかのヒトはひるまず、かっと両目をみひらきヌシをにらんでいる。
「ようやく何もかも終りだ、ヌシ!」
かのヒトが前足をふりあげ、ふりおろした。
ズドンと音がした。
ガトリングガンとやらではなかった。
筒のよりあわせがむいた先とは、まるで別のところに生えたうろこが、無残にもつらぬかれていた。
一瞬おくれて熱さがやってきた。
深くヌシの体を突きとおしたのは、たった一本の鉄筒がふいた火だった。
ヌシはもんどりうってたおれこんだ。大きな体が岩肌にくずれる音がどうっとひびいた。
「見たか、ヌシよ!」
かのヒトが笑った。
「これで僕は、わしは、
別の
ヌシの、尾であった。
岩肌にふした体のかわりに、尾はしたたかにしなり、
つぎにガトリングガンを操っていた
さっきまで高笑いをあげていたかのヒトは、さっきまでよりいっそう目をみひらいて、
「ああ……」
とうめき、それがさいごになった。
三匹のヒトが岩肌の上の血のしみになったころ、ヌシは重だるい体をおこした。
鉄筒のふいた火はヌシの身をすっかりつらぬき、小さく風穴をあけていた。空いた穴からはいった風に身がきしんでいた。
なのに心の臓ばかりがかるくあつく、はずむように脈をうつ。
ヌシにははじめての感覚であった。
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