日が昇って沈むこと何十万か何百万回、山の下のヒトの世はなおも流転した。

 山ビトの雌とつがい棲みついたとあるまれビトによると、西でおおきな『戦』があったという。鉄の刃や木の弓矢で、何百、何千のヒトが殺しあった。赤い炎がもえあがり、多くが白い灰になった。

 ヌシはおもった。西は実りすくない不毛の土なのだ。乏しい食物をうばいあいそのようなことになったのだ。ヌシが平らかにおさめている、実りおおきこの山ではありえぬ話だ。

 またやってきた別のまれビトは、『侍』についてこういった。

「侍め。吼えて噛むばかりが能の使い走りのイヌめらが、畏れも知らず鎌倉から京の帝にあれやこれや。この国は最早ほろぶばかりよ。ああ憎い憎い憎い憎い、侍め」

 背に矢をうけていた。赤黒い血をだらだらながし、月が二度のぼったあと死んだ。

 戦で傷をおったまれビトはいくらでもやってきた。すぐ死ぬものもあれば命をひろうものもあった。命をひろったものは、ヌシは傷がいえて日が三度しずむまで生かしておいた。日が三度しずんでも山をおりぬまれビトはいかづちでうった。

 いかづちをまぬがれたものも中にはいた。たとえば、細くひょろ長い体の雌である。

 奇妙なふうていであった。前足後足の先にいくほどひろがる白い衣も、頭に乗せた長細い飾りもヌシがかつて見たものににていた。その後いくどかまれビトが纏うているのを見もした。ただヌシの憶えがただしければ、これなる衣を身につけていたは雄ばかりであった。尻わきには鞘にはいった鉄の刃までさしていた。

 山ビトの手当で傷がいえた雌は、トリより美しいさえずりと、チョウのはばたきよりあでやかな動きを礼に披露した。山ビトのオサがこの『白拍子』の『うた』と『舞』を気に入った。そうしてひょろ長い雌はオサのコをはらみ、山にすみついた。

 ひょろ長い雌はコを三匹産んだ。何千回か日がしずんで一匹が長じ、二匹が死んだ。長じた一匹がコをつくって次のオサになるころ、雌の頭の毛は半ばが白くなり、ひょろ長い雌はひょろ長い老いた雌になった。

 ある日、ヌシの棲まうほらで、山ビトの祀りがおこなわれた。米だの酒だの肉だのをヌシにささげるもので、かつてはすべてのイエから一匹ずつ山ビトが出たが、いまはオサのイエほか二、三のイエの雄が顔を出すばかりであった。

 しかし、このときの祀りはちがっていた。

 代替わりした今のオサのとなりに、ひょろ長い老いた雌がいたのである。ほらにくるのはこれがはじめてであった。

「山のヌシよ」

 雌は山をはじめておとずれたとき身につけていた、『白拍子』の衣をまとっていた。毛は白く、尻から上は曲がりだし、しかしかつてと変わりないぴんと張った声で、雌は鳴いた。

 ――ほう。

 まれビトにはヌシのすがたがみえぬものもおり、どれだけ長く山に棲んでもかわらない。この雌はそうではなかった。

「山のヌシよ。数々貢物を捧げてまいりましたが、我が舞は未だ捧げておらなんだと存じます。老い先短いこの身、ここらで舞い納めと致したく、是非にもヌシの御前でと思い立ち、息子に無理を言って此処までまいりました」

 ひょろ長い老いた雌はひれふし、となりで今のオサが口の端を下へゆがめていた。ヌシはこれが嬉しからざるときのヒトの感情の表現と知っていた。さんざん反対したのに押し切られたのであろう。

 ――好きにせよ。

 老いたひょろ長い雌は後足をふみだした。硬い岩肌のうえで音はひびかなかった。左前足をゆらし、右前足にいつのまにかあった赤い扇をひろげた。白い衣と赤い扇がひらりとゆれ動いた。

「月更け 風おさまって後 心のおくを 尋ぬれば――」

 しわのよった喉がのびやかなうたをかなでた。

「仏も昔は凡夫なり われらも おもへば仏なり――」

 余命いくばくもない雌が、重さのないかのようにおのれの身をあやつるのを、その場の一匹とて声をださずに見ていた。

 雌の動きがはげしくなった。じきにうたも終わりと思われた。

 そのときであった。

「いづれも仏性 具せる身を 隔つるのみこそ おろかなれ――」

 赤い扇が、さっと投げ捨てられた。

 あざやかな赤に目をうばわれた隙、白い光がほとばしった。

 ヌシの腹に、ずぐり、と何かがめりこんだ。

 刃であった。

 雌が、ふところに仕込んだ刃をひきぬき、突き刺したのだ。

「母上! 何を」

「大奥さま!」

 オサはじめ、その場にいたものの悲鳴があがった。

 ヌシの裂けた腹から血があふれていた。クマにくわれたウサギや、ワナにかかったキツネや、西の戦できずをおってのがれてきたまれビトからながれていたのと同じ赤であった。

 己がコの悲鳴を意にかいさず、かえり血もぬぐわず老いた雌は笑った。

「山のヌシよ。やはり貴様、その身常鋼とこはがねとはいかんようだな。これぞ敵とみてあらかじめ己が鱗を硬めねば身を守れぬとみえる」

 ――其方か。

「そうだとも」

「母上!」

 オサがわめいた。

 かつて陰陽の道を修めた雄、あるいは仏の力を借りし雄、また幼くかよわき雌であった老いた雌は、ヌシの身にさしいれた刃のさきを更に奥深く押しこんだ。

「三十年、待った。貴様にひと太刀浴びせる瞬間を、待って待って待ちつづけた。力無き女の身に生まれ、今生では貴様を殺せぬと悟りなお思い捨てきれずこの山へやってきた。そうして今、初めて貴様の血を浴びるが叶った」

「母上! ヌシにお縋りください、ぬかづいてお赦しを乞うのです!」

 己がコの願いに、またも老いた雌は笑った。

「これに勝る喜びなし。もはや今生に未練なし」

「母上!」

「ヌシよ。この我はここで終わりだが、次の我がまた貴様を殺しに来よう。貴様が幾度我を殺しても、そのたび別の姿で貴様の前に現れよう。いかなる手管を用いてでも、幾度でも幾度でも幾度でも。貴様の息の根が止まるまで」

 ヌシは長い尾をしならせた。雌の老いさらばえた身をたやすく弾きとばした。雌は岩肌にたたきつけられ、熟れすぎた柿がつぶれる音をたて肉と血のかたまりになった。

 オサが腹の底から噴きあがるような声をあげた。他の山ビトたちは前足で顔をおおい伏せた。

 ヌシは血に塗れた岩肌をしばし見つめたあと、ほらに散った血肉を清めるよう命じた。




 千や万では数えられぬほど、多くの日が昇りそして沈んだ。

 ヌシをしいさんとするヒトは、己が言葉どおり幾度もあらわれた。あるときは一帯をおさめる地頭であった。またあるときは大名に仕える水破すっぱであった。かと思えばめしいた物乞いになったり、雄に春をひさぐ夜鷹としてやってきた。

 ――其方、飽かぬか。

 あるときヌシがこう聞いた。

 かのヒトはこのとき若い雄であった。いつだか西の地に立った室町殿とやらが『都を追われた』と、まれビトたちがささやきだしたころであった。

 雄は天下統一とやらをこころざす大名を主に持っていた。おそらくヒトのものさしでは麗しいのだと、主や周りの兵のだす声音でわかった。そう、若い雄は主をそそのかし、百に余る兵を山のほらまで連れて参ったのであった。

 さすがのヌシもこれには参った。ヌシがみえるものもみえぬものも、みな命じられるままヌシにむかってきた。いかづちひとつで斃れる兵は十や二十、すべてかたづけるには幾度もいかづちを落とさねばならぬ。

 若く麗しい雄もヌシのいかづちで、爪の先までくろぐろやかれた。それでもまだ息があったので、ヌシはたわむれにたずねてみたのだ。

 ――其方がくるのも、もう十度にとどく。山のクマもシシもオオカミもキツネも、ほかのどんなケモノもここまでの辛抱はない。日も幾度昇り沈んだかわからぬ。なにゆえいっこう飽かぬのか。

 若く麗しかった雄は、笑ったのだろう、口の間から息をもらした。

 なにをいっているか、ヒトならわからなかったろう。ヌシにはわかった。

「飽かぬとも。貴様を殺すその日まで、おれは決して飽かぬ。貴様の死こそ我が求め、我がのぞみ」

 ――では、なにゆえ我が死を求め、のぞむのか。

 若く麗しかった雄は、黒いさけめにしかみえぬ口の、両端をぐっともちあげた。

「貴様を殺せば、山は解きはなたれる。クマにシシにオオカミにキツネ、そしてかつておれであった娘と同じ血を引く山ビトたちが、忌まわしき貴様のくびきからのがれる。好きに山のものをり、好きに山を下り、好きに生き、好きに死ぬ。他の地でそうしているようにな」

 ――くだらぬ理由わけだ。

「くだるくだらぬではない。そういうものだのぞみとは」

 雄は咳きこんで、笑った。

「くだらぬ理由わけなら、もう一つある」

 ――聞こう。

「貴様の死に様が見たい。貴様が嘆き、苦しみ、悶え、まだ生きたいと叫んで死んでゆく様をこの目で見たい」

 ――見てなんとする。

「なんともせん。見るだけだ。見て、そこで終りだ。おれも我もも拙僧もわたしも、その終りこそを欲していた。そして、」

 若く麗しかった雄はうごかなくなった。

 その後も何が変わるでもなく、かのヒトはまた幾度もやってきた。

 あちこちで戦がおこり、血がながれ、火があがった。戦の中でヒトがうみだしたわざのかずかずで、かのヒトもヌシをしいさんとした。ほらに水をひきこみ溺れさせんとするのは笑止であったが、太い鉄の筒から火をはかせ、ほらを外から突き崩されかけたのにはヌシもおどろいた。

 やがて戦がやみ、西の地の太閤とやらのうわさをまれビトたちが口にしだした。その太閤とやらもそのうち死に、また戦でしかばねがつみあがって、やがて東の地に公儀というものが立ち、おちついた。

 傷をおったまれビトが、山に逃れてこなくなった。そもそもまれビトが山をおとずれなくなった。鉄の刃をとりあげにきたまれビトも、年貢とやらのとりたてのため山をしらべにきたまれビトも、ヌシが骨まで炭にしてしまったからであった。

 公儀とやらがさしむけた鉄よろいの雄たちを、毒の雨でとかしたのがさいごだった。山におだやかで平らかな日々がやってきた。静かな月日は半ばヌシがのぞんだとおりで、半ばそのとおりではなかった。

 山の外からやってくるものがなくば、山をおりたいとのぞむものもない。これはよかった。しかし山ビトの血は濃さをました。生まれつき目のみえぬコに耳のきこえぬコ、育っても二本の足で立てぬコが生まれはじめた。

「ヌシよ、ヌシよ。なにゆえ斯様な仕打ちをわれらになさいますのか」

 山ビトたちは不具かたわのコらを抱いて嘆いた。

 ヌシのせいではなかったが、ヌシはなにもいわなかった。

 来る日も来る日もまれビトはこない。あれだけ幾度もほらをおとずれ、ヌシをしいさんとしたかのヒトも、また、こない。




 幾万の日が昇って沈んだころ、ようやく一匹のまれビトがやってきた。海のむこうから黒い『船』がやってきたと伝え、口から血をふいてうごかなくなった。

 ヌシは海も船も知らぬが、山をおりたその先のさらなる外からなにものか来たとはわかった。また戦がおこっているのもわかった。

 ――で、あれば、またまれビトがくる。

 あれはてた山の外にんだものたちが、ヌシをのぞいてなにものにもまつろわぬこの山に、救いをもとめておとずれる。それにまじってかのヒトもやってくる。

 ヌシの予感はあたった。

 ほどなくほらにあらわれたまれビトの雄は、みたことのないかっこうだった。前足と後足の一本ずつをぴたりとおおう衣をまとい、頭の毛をザンと短く切った雄は、ヌシが幾十回ときいてきたとおり、こう鳴いた。

「山のヌシよ。おまえを殺しにきた」

 ヌシはおのれの口がおのずと開くのを感じた。先が二つに分かれた舌がちろちろとうごめいた。

「西欧列強の手になる凶悪無比の兵器の威力、その身に受けるが良い。へんりい殿も弟御のえどあるど殿も、無駄に死ぬなと止めてくださったが、僕はどうにも我慢ができない。貴様を一日も早くこの世から消し去りたくて堪らない」

 がらがらと、ほらの外から音がきこえた。若い別のまれビトの雄が車を押してやってきた。

 車なら、山ビトがウシにひかせている。が、これはちがった。細い鉄の筒を幾本かよりあわせ、そのまま車にのせていた。筒の一本一本は、太閤とやらが西の地に立つまえ、ヌシをねらった火をふく筒に似ていた。

「ガトリングガンというのだ。さあ、無様に叫びながら死ぬがいい!」

 よりあわさった筒の一本が火をふいた。

 一本ではおわらなかった。筒のよりあわせははげしく回りながら、止まることなく火をふきつづけた。

 筒のさきからうまれた火はヌシのうろこにはじかれた。次から次へ火はふきだされ、当たってははじかれ当たってははじかれた。山ビトたちがたまに口にする馬鹿のひとつおぼえそのもので、ヌシはいままで味わったことのない感覚におそわれた。オオカミが獲物のウサギに牙をたてるすんぜん、ウサギをあわれみその毛なみをなめるのはこのような心もちだろう。

 だがかのヒトはひるまず、かっと両目をみひらきヌシをにらんでいる。

「ようやく何もかも終りだ、ヌシ!」

 かのヒトが前足をふりあげ、ふりおろした。

 ズドンと音がした。

 ガトリングガンとやらではなかった。

 筒のよりあわせがむいた先とは、まるで別のところに生えたうろこが、無残にもつらぬかれていた。

 一瞬おくれて熱さがやってきた。

 深くヌシの体を突きとおしたのは、たった一本の鉄筒がふいた火だった。ほらのすみに身をひくめかくれていた、別のまれビトが筒をかまえていたのだ。ヌシの用心がガトリングガンとやらへむいたすきに、かのヒトが合図で放たせたのだ。ヌシのすがたがみえずとも撃てるように、前足のさきでさししめして。

 ヌシはもんどりうってたおれこんだ。大きな体が岩肌にくずれる音がどうっとひびいた。

「見たか、ヌシよ!」

 かのヒトが笑った。

「これで僕は、わしは、わらわは、拙者は、おれは、我は、あたいは、は拙僧はわたしは――」

 別のまれビトがあっと声をあげた。

 ヌシの、尾であった。

 岩肌にふした体のかわりに、尾はしたたかにしなり、ほらのいただきをはげしくうった。バラバラと上から岩がふってきた。うわぁっと声をあげ身じろいだのはヌシのうろこをつらぬいたまれビトで、瞬きひとつあとおちてきた岩でつぶれた。

 つぎにガトリングガンを操っていたまれビトが血だまりになった。

 さっきまで高笑いをあげていたかのヒトは、さっきまでよりいっそう目をみひらいて、

「ああ……」

 とうめき、それがさいごになった。

 三匹のヒトが岩肌の上の血のしみになったころ、ヌシは重だるい体をおこした。

 鉄筒のふいた火はヌシの身をすっかりつらぬき、小さく風穴をあけていた。空いた穴からはいった風に身がきしんでいた。

 なのに心の臓ばかりがかるくあつく、はずむように脈をうつ。

 ヌシにははじめての感覚であった。


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