輪廻、それから
柊キョウコ
起
「山のヌシよ。おまえを殺しにきた」
と、ヒトの雌は言った。
ヌシにはヒトの年がわからなかった。ヌシはクマを十頭あわせたよりおおきなヘビであった。ゆえにたとえば十と七、八の若い雄も、寿命まぢかの三十五、六の雄もヒトならみなおなじにみえた。
それでも、目の前の雌がごく若いのはわかった。体がちいさく、凹凸がない。二本の後足で歩くようになって十年と少しか。黒曜石の刃をにぎりしめ、黒曜石より黒い目でヌシをにらんでいる。目の上に二本ある毛束はつりあがり、ヌシの記憶がただしければ、これはヒトの怒りの表現であった。
この怒りのためほそい前足後足をせわしくうごかし、沢をわたり草むらに分けいり、山の奥底に横たわるこの
「おまえはわたしたち山ビトをしいたげる。毎日毎日、おまえのせいで泣いているヒトをみる。ゆうべはふたつ隣のイエのキナが泣いていた。オットのサホをおまえのいかづちで焼かれたのだ」
――確かに、いま天にある日がのぼるまえ、ヒトの雄を一匹罰した。
ヌシは二又にわかれた舌をしゅるしゅるならしながら答えた。
――あの雄は出入りを禁じた藪にはいり、とるなと命じたたまごをキジの巣から三つ盗んだ。罰だ。
「キナの腹には子がいる、近頃せり出てきたからそろそろ生まれる。キナは体が弱い。サホはツマに精をつけさせようとしただけだ」
――ヒトに春先たまごをとるのを許せば、キジの数が減りすぎる。山は平らかにたもたれねばならぬ。
「だとしても、いかづちで打つことはないだろう! サホは炭になった、頭も胴も爪のさきも真っ黒な!」
雌は声を張り上げた。
「おとつい向かいのイエのイヨがクマに食われた。イヨのチチが仇をとりたいといったがおまえは許さず、イヨのハハはずっと泣きっぱなしだ。三日前うしろのイエのスオは、コの熱が下がらぬからと禁をやぶって山をおりまじない師をよぼうとしたが、おまえが降らせた毒の雨をあびて死んだ」
――山のおきては守らねばならぬゆえな。
「おきてが何だ! もうたくさんだ、こんなことは!」
おさない雌は足を踏みならした。
「おまえの許しなどもういらぬ! 藪にはいるのもたまごをとるのも、
――ヒトの雌よ、いまだ育ちきらぬものよ。
目の上の毛束二本をますますつりあげる雌に、ヌシは語りかけた。
――おきてには、
おさない雌の目のかがやきがました。
「山などどうでもいい。サルだのクマだのキジだのカラスだのタヌキだのオオカミだの、増えようが減ろうがわたしたちにはなんでもない。狩りの獲物が減るのはうれしくないがそのくらいだ。何度でもいうぞこんなのはもうたくさんだ。わたしはおまえを殺す。ヌシのおまえを殺せば、みんな好きなようにケモノを狩れる。木の実だって山菜だって禁を気にせずとれるし、火であぶって食べやすくすることもできる。山をおりてとったものを他のものとかえたり、病になったコやオヤにまじない師だって好きによんでやれる!」
雌は後足で
ヌシのふとい蛇体にとりつき、前足ににぎりしめた刃をふりあげ、ほえた。
「死んでしまえ、ヌシ!」
ふりおろされた黒い刃先は鈍い音でうろこにはじかれ、おさない雌の前足からはなれておちた。
ヌシに痛みはなかった。何か硬いものがふれたのだけわかった。ヌシは体をふるわせた。おさないヒトの雌のちいさなからだは、なすすべなく放りだされ
目のまえにころがってきた雌の胴から上を、ヌシは顎のひとかみでくだいた。残った尻と後足はびくんとふるえ、それきり二度と動かなくなった。
ちいさき生きもの一匹のあらがいなど、ヌシには東の風のひと吹きより些々たることであった。
それから幾万回日が昇って沈んだ。あるいは幾十万回かもしれぬがヌシには同じだった。
ヌシはかわらず山を守っていた。山を下りることを禁じ、食うため以外の殺生も禁じ、山の生きものの減りすぎや増えすぎをまねく行いも禁じていた。山の外からはいってくるものは許したが、棲みつかんとするものはみないかづちで焼いた。ただ山の生きものとつがうのであればゆるした。
ヌシは
ヒトは身につけていたケモノの皮の代わりに木や草のすじをよって編んだものを纏い、これを『布』『衣』とよんだ。石をけずってつくっていた刃が、いつのまにか『鉄』とやらいう黒光りするものになった。
鉄で土をほりかえしてやわらかくし、沢からひいてきた水でみたし、『田』とよんだ。そのような田を一段つくってはまた一段上につくり、あわせて『棚田』とよんだ。外からやってきたものがもたらした『種モミ』とやらを苗まで育てて田に植え、金の穂が頭をもたげるまで世話をした。
すべて、山の外からきてまた出ていった
ヌシは山ビトのこの変化を好まず、だがさしたる害はないとみて捨ておいた。
そうしてさらに幾万回日が昇って沈むと、ヒトの雌をかたどって焼いた土のかたまりだとか、きらきらと輝く青銅とやらでできた『剣』だとか、こまかな文様がほられた『鏡』とよばれる
ヌシはこの変化も捨ておいた。ヌシの役目は山を平らかにおさめることで、あがめたてまつられ尊ばれることではない。山の生きものが何をうやまおうが、おきてが守られていればよい。
また幾万回と日が昇り沈んだ。外からの
そんな折のことである、ヌシの
「山のヌシよ。おまえを殺しにきた」
何十万回日の出日の入りを経てもヌシにはヒトの年がわからなかった。わかったのは雄であること、頭を守る毛が一本もないこと、前足後足の長さ胴のふとさからとうに育ちきっていること、長い衣を何枚も重ねて身につけていることだった。
「幾百年が流れても相変わらず、山ビトたちを掟で縛り虐げるか。あまりに罪深い。御仏とてもお許しになるまい」
――去るがよい、
「ほう、
ぶつぶつと唱え、手にした木の棒で
光にうかぶはごく若いヒトの雌である。衣ではなく毛皮を身につけている。
ヌシがいま少しヒトの顔の区別がつけば気づいたであろう。目の上の毛束をつりあげてにらむ顔が、毛のない
「覚えておらぬも無理もない。お主がこれまで何百、いや何千と虫けらのように殺してきた命の
また岩肌を突くと光がきえた。光とともに幼い雌のまぼろしも溶けた。
「お主に噛みくだかれ息絶えてから、仏道にいう輪廻なる輪に呑まれた。いや、はじめから輪の中におったのであろう。この世がそもそも輪の中なのであろう。シカになってもウサギになってもアブになっても
「御仏の尊き力によりて、今、拙僧がお主に鉄槌を下す。
しゃしゃんと環が振られ玉が鳴り、
炎はとどろき、渦を巻き、ヌシの蛇体を焦がさんと迫った。しかし蛇体をつつむ硬いうろこは、炎の熱にくすぶり一つたてず冷えきっていた。
「馬鹿な」
毛束といっしょにつりあがっていた、
ヌシは細長いひとみで
また何十万か何百万回、日が昇って沈んだ。
ヌシはやはり山を守っていた。クマもシシもオオカミもキツネもタヌキもカラスもキジもウズラもスズメも変わらず暮らす一方、ヒトの暮らしにはしばしばさざ波が立った。
たとえば、『国』とやらいうところから
「帝の
ヌシの動きははやかった。国からきた
国からの
山にやってくる
ヌシは山の下より来る
それでも、棲みつくものがもってきたり、山ビトが見よう見まねでつくってみたり、あたらしいものははいってきた。棚田をたがやすのにウシをつかうようになり、雄は頭に烏帽子とやらいう長細いものをかぶるようになった。この位ならよいとヌシはゆるした。
さて、その頃あらたに
「山のヌシよ。おまえを殺しにきた」
雄であった。頭にかぶった長細いものは山ビトの烏帽子と形がちがい、身につけた衣も前足後足の先にいくほどおおきくひろがり、ヌシの見なれぬ風体であった(ヌシは立烏帽子も狩衣もしらなかった)。
しかし、目の上の二本の毛束のつりあがりにおぼえがあった。
――三度めとなるな。
ヌシが舌をうごめかすと、狩衣の
「覚えておったかヌシよ」
――忘れておった。が、思い出した。
狩衣の
「なら話ははやい。仏の力では不足とみて、
陰陽とやらをヌシはしらぬ。ただ山あるきに向かぬかっこうなのに泥のけがれがないのは、きっとそのせいであろう。
――ヒトよ。ひとつ聞かせよ。
狩衣の
――かつて頭に毛なき雄、また幼くかよわき雌であったヒトよ。其方がきたのは三度目だ。獲物を奪われたクマとて、二度追い払われれば戻ってはこぬ。だのにクマとちがうサガを持つヒトの其方が、三度目までも戻ってきたのはどうしたわけだ。
「
板のはしから、どろりと黒いものがわきでた。夕立を降らせる雲をよせあつめもっと黒ずませたような塊は、ヌシのあいた口へと飛びこみ、ヌシの腹のなかではげしくあばれた。
「うろこが硬いなら、内から破るのみよ! やってしまえ、我が
ヌシの腹が上から下になみうった。ヌシは生まれてはじめての感覚に目をほそめた。体のなかが張りつめて今にも裂けんとしていた。
「さあ
ヌシはくっと体を上にそらせた。式鬼とやらのあばれくるう場所をぴんとのばし、腹をじぶんから、こんどは下から上へなみうたせた。口をひらいてひらいて、裂けんばかりにして、みのほどしらずの式鬼をはきだした。
ヌシのなかから追い出された黒いものは、声もあげずにちりぢりになって失せた。
「なんと」
狩衣の
ヌシは血のたまりをしばし見つめ、やがて目をとじた。
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