第2話 それは前哨戦のように

 クレモアの王宮が血で洗われているその時、遠く南方のクックハン領内。


 さらにその南方に位置するジレル伯爵領。大きさとしてはさほどではないのだが、ある理由によって伯爵領とされていた。

 トルハランとも国境を接しており、ここのところ何かと騒がしい地方でもある。


 その領主、ジレル伯ラライとその娘リリィは屋敷の中、陽の光が差し込むテラスでお茶を楽しんでいた。

 屋敷は領内でも南部、気候が穏やかで一見郊外とも思えるような自然の中に佇んでいる。


 しかし実のところは最寄りの大きな都市、ナルドラから馬車でわずかばかりの距離にあるという、なかなか贅沢な立地条件であった。


 北には新緑の息吹が眩しい木々が立ち並び、南には人工的とはいえ、色とりどりな姿を見せる田園風景が広がっている。

 南側に面したテラスから見渡せるのも、この田園風景であった。


 そんな穏やかな風景を厳しい表情で見つめるリリィ。

 自分の屋敷、それもくつろげる場所にいるにしては不釣り合いな表情だ。


 その出で立ちも会議の時のような軍服姿ではない。薄い緑色のドレス姿で貴族の令嬢としての体裁を整えている。細かな刺繍が施された、清楚さを漂わせた逸品だ。


 リリィは春には好んでこのドレスを着ることにしていた。

 見る限りに置いては、彼女が不機嫌になるような事柄はどこにもない。

 しかしそれでも、彼女の菫色の瞳は厳しいままだった。


 無理もない。


 何しろその光景の向こう側にはトルハランがあるのだ。リコウトのことも含めて、ここ最近心穏やかならざるリリィには、自然の景色を楽しむ余裕はない。


 若い、あるいは幼いとも言えるが、伯爵はそんな娘の姿を眩しそうに眺めていた。

 美貌を誇る娘の父親はといえば、完全に老境へと達している。


 髪も、長くまっすぐに伸ばされた髭も真っ白で、ティーカップを持つ手は節くれ立ち血管が浮き出ていた。細面の顔立ちの中、時折強く光る眼光は“老獪”と表現する以外にはない。


 このところは長いローブを身につけることが多く、それは童話の中に出てくる魔法使いそのままの姿だった。


 その“魔法使い”の前に「よい」と説明されるか「悪い」と注意されてしまうかは微妙なところであろう。


 リリィは伯爵五十の齢を数えた時に授かった、一粒種なのである。彼女の母親は先年の流行病であっさりと逝ってしまった。魔族の侵攻がなければ、薬も十分に行き渡りあるいは助かったかも知れない。


 ――それでも、やはり自分のような老人が生き残るのは間違っている。


 伯爵はここ数年、そんな思いに捕らわれていたが、母親譲りの美貌を誇り、かつ国政の重鎮としてクックハンを支えてきた自分の知性を受け継いだリリィの成長を見守るに連れて、この娘が一人前になるまでは、と思い直していた。


 そして、そんな娘の様子がショウでの会議以降おかしくなってきていることにも、伯爵は当然気付いていた。


 しかし、それをすぐに指摘するほどに伯爵は政治に対して素人ではない。

 伯爵はたっぷりと時間を空けてから、娘をこのお茶の席に誘った。

 ここで不意打ちを掛けようという試みである。


「失礼致します」


 そんな陰謀渦巻くテラスに、家令のハンスが現れた。


「ハンス。何用か?」


 伯爵は短く尋ね、それによってハンスが近付くことを許した。ハンスも心得たもので頭を下げながら伯爵へと近付くと、耳元で一言二言口にする。

 伯爵の表情の変化は、額に一本深い皺が刻まれただけ。


「リリィ」

「はい、お父様」


 父の呼びかけにリリィは即座に反応した。それに満足したかのように伯爵は頷くと、


「シャング達がまたやりおったぞ。今度はクレモアじゃ」


 何しろ移動呪文というものがある。その使い手は各国に存在しており、あらゆる情報が一瞬にして大陸中に広がっていくのだ。


 特に伯爵は人の使い方が上手く、おそらくはクレモアの災厄を一番最初に知った外国人の一人であろう。そしてリリィもその恩恵にあずかることとなったのだが……


 その表情に変化は訪れない。ただ、こう呟くだけだった。


「原因はローシャッハですわね。予測の範疇でした」

「そうかい」


 すねたように答える伯爵を無視して、リリィはハンスに呼びかける。


「例の報告はまだ?」

「はい、お待たせいたしました。書類にて届いておりますので後ほどお部屋の方に。何しろかなりの量がありますから」

「そうね。助かるわ、ハンス」


 自分の娘と自分の家令の会話内容がわからない伯爵は、焦ったように口を挟んだ。


「いったい何の報告かね? リリィ」

「トルハランのリコウト様についての調査ですわ。お父様」

「何? リコウト?」


 伯爵がその名を知らぬはずがない。何しろ、ここ最近では一番気に掛けねばならない相手の名前だ。隣国トルハラン躍進の立役者、王弟リコウト。


「今は国家間の争いなどしている場合ではなかろう。あの男もそこまで愚かでは……」

「ですから、私の結婚相手としての調査ですわ」


 その娘の言葉に目を剥く伯爵。完全に寝耳に水だ。

 そんな父の姿に思わず笑みを浮かべてしまうリリィだったが、慌てて表情を引き締めた。


「冗談ですわ、お父様」

「じょ……冗談じゃと?」


 未だあっけにとられたままの父親に、リリィは今度こそ真実を告げる。


「先日の会議でお会いした時に、いささか興味を引かれまして。その裏付けとでも申しましょうか。確認をお願いしてあったのです」

「そ、そうか冗談か」


 伯爵は安堵したのか、大きく息をついた。しかし娘であるリリィは、父親の瞳の奥で閃いた光を見逃さなかった。


「――そういう方法もある、と考えましたわね」

「そういう方法とは?」


 政治家の顔を取り戻し、伯爵は娘に問い返す。


「厄介な相手を身内に引き込むのは常套手段でしょう。その方法として婚姻も一つの手段ですわ」


 その娘の言葉に、今の伯爵は動じることはなかった。むしろ熱心に身を乗り出してくる。


「その通り。いままでお主は誰が相手でも結婚に乗り気ではなかったが、そういう冗談が出るようなら……」

「お父様、ご存じですか? リコウト様はそれほど見目麗しいというわけではございませんのよ」


 伯爵は眉をひそめる。容姿の良さが能力として機能するほど甘い世界の話をしているのではなかったからだ。娘の突然の言葉は、完全に伯爵の意表を突いていた。


「だから、なんじゃ?」

「浮気の心配はあまりなさそうだと思いません? あまりもてそうにありませんから」

「リリィ!」


 思わず伯爵は叫んでいた。娘の心中を計りかねる。結婚の話は冗談ではなかったのか? これが先日まで手玉に取っていた、あの可愛い娘とはにわかに信じられない。


「もうすぐリコウト様がおいでになりますから、ご自身の目でお確かめあそばせお父様。私はそれまでに報告書を読んでおきたいので失礼させていただきます。お茶、美味しかったですわ」


 一息に言い残すと、リリィはテラスを後にした。

 その後にハンスが続く。


「……よろしいのですか、お嬢様?」


 控えめにハンスがリリィに尋ねてくる。


「いいのよ。いつもやりこめられてるんだもの。これぐらいいい薬よ。それにしても、少しばかりリコウト様の真似をしてみただけで、こんなに効果があるなんて……」


 リリィは振り返りもせずに自分の部屋へと向かう。


 彼女は「海の水は甘い」と十二年間自分をだましていた父親に復讐する機会をずっと狙っていたのだ。

 それもリコウトのおかげで、果たすことが出来た。


「リコウト様がおいでになることは昨日言っておいたわよね。後はお父様をお願い」


 リリィは声に喜色が混ざるのを抑えられないでいた。

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