第7話
一歩、路地から体を出した瞬間、今までただ前だけを見ていた妖怪たちが一斉にこちらを向いた。生気を全く感じられない無数の虚ろな目に見つめられ、恐怖が込み上げてきたが、ここで引くわけにはいかない。
「走って!」
江藤の声を合図にして、町田は一気に駆け出した。妖怪たちは数は多いが、スピードはゾンビの様に遅い。そこが、この通りを抜けるポイントだ。いかにスピードを維持できるか。
全力で走りながら、伸びてくる妖怪の手をなんとか避ける。背後から追ってくる奴らはあまり問題ではない。問題なのは前から襲ってくる奴らだ。しっかりと動きを見極めて避けて行かないと捕まってしまう。
「町田君、大丈夫?」
少し先を走ってる江藤が背を向けたまま尋ねてくる。彼女は手慣れた動きで妖怪の群れをすり抜けていく。軽やかなその動きはどこか優雅で、舞でも見ているかのようだ。
流れるように進む江藤の後を必死に追いかけるが、無数の妖怪の手に視界が度々遮られる。気を抜けばすぐに見失ってしまいそうだ。
「……くそ、邪魔だな」
町田は一つ舌打ちをする。気付けば妖怪に対する恐怖は消えていた。ただ、避けるべき障害物という認識に変わっている。おかげで、臆することなく先に進めそうだ。
「町田君! 見えてきたよ!」
伸びてくる手を体を捻って避けながら走り続けて数分。江藤が声を上げた。ようやく目的の場所が見えてきたらしい。この数分間の全力疾走で、体力は既に尽きかけている。そこまでたどり着ければいいが。
痛むわき腹をおさえながら町田は最後の力を振り絞りスピードを上げる。何とか境内に入り込んだと同時に足がつっかえて、町田は顔から盛大に地面に滑り込んだ。
「だ、大丈夫?」
不思議なことに息一つ切らした様子のない江藤がしゃがみ込んで町田に声をかける。なかなか激しい痛みに顔を歪めながら町田は起き上がり、掠れた声で「大丈夫」と江藤に顔を向けると、江藤は目を見開いた。
「あちゃ、擦りむいてるね」
「え、マジで?」
「うん。鼻とか頬とか、血が出てる」
江藤に言われて、自分の鼻に触れると鋭い痛みが走り、指先に血が付いた。どうやら本当らしい。よく見れば、服は汚れ、膝の所には穴も開いていた。彼女は息も乱していないというのに、情けない限りだ。町田は頭を振って、話を切り替えた。
「それよりも、ここに鐘があるんだな?」
「そうだよ。ほら、あそこ」
江藤は大きく頷いて指差した先には、小さな鐘楼のような物があった。だが、現世で見た送り鐘とは違い、四方が壁に囲まれていて鐘本体の姿は見えなかった。ただ、壁の穴から綱が一本垂れている。あの綱で鳴らすのだろうか。
「さてと、じゃあ手順を教えるから、ちゃんと聞いてね」
ぱんっ、と江藤が手を叩く。
「まず、町田君はあの奥にある本堂へ向かって」
江藤が本堂の方を指差す。だが、いまいちピンとこない。鐘を鳴らすんじゃないのか。
「何で本堂に?」
「あの本堂の庭には井戸があるんだ。現世に繋がる井戸がね」
「は?」
「現世でもそれなりに有名な逸話を持つ井戸だね。そして井戸の中に入って、目を閉じる。その後、私がこの鐘を鳴らす。それが合図みたいなものだからね。そして、現世の方でも鐘が鳴らされれば、君は現世へと帰れる」
江藤は軽い口調で説明を終えた。だが、簡単に納得できるような内容ではない。
「本当にそれで帰れるのか?」
「帰れるよ。ちゃんと元の世界にね」
江藤は微笑みながら頷く。
「君が帰ったら皆の記憶も戻る。全部元通りだよ」
そこまで言って、江藤は不意に背を向けた。小さく肩が震えているのが見えて、泣いているのかと心配になる。なんて声をかけようか迷っていると、再び江藤はこちらを振り向いた。その瞳に涙は見えなかった。
「……じゃあ、そろそろお別れだね」
静かにそう言う。その瞬間、心の中に穴が開いたような感覚が襲ってくる。そうだ、現世に帰る事しか考えてなかったから、彼女と別れる事は何も考えていなかった。確かに彼女はもう死んでしまっているのだから現世に帰ったらもう会えなくなるかもしれない。
「……そうだね」
町田はそんな言葉しか返せなかった。
「少しだけど、また町田君に会えてよかったよ」
少し寂しそうな表情で江藤が呟く。これで会うのが最後なら、やっぱりちゃんと言った方がいいかもしれない。町田はぐっと手を握り、言葉を紡ぐ。
「……俺も、一つ言ってなかったことがあるんだ」
「え?」
「俺、本当は江藤さんに会えるかもしれないと思って鐘を鳴らしたんだ」
町田が言うと、江藤は驚いたように口元に手を当てた。
「友達に鐘を鳴らしたらあの世に行けるって言われてさ。流石に信じてはいなかったけど、せめて想いだけでも送れたらいいと思いながら鐘を鳴らした」
「……想いって?」
一歩、江藤がこちらに歩み寄った。町田は意を決する。
「江藤さんが好きだ」
町田が言った直後、彼女が思い切り抱きついてきた。その勢いで倒れそうになったが、何とか耐える。
「嬉しい」
絞り出すように江藤が言った。それから、彼女は少し体を離して、吐息の聞こえる距離でこちらを見上げる。この状況で彼女が求めているものに気付けないほど鈍感ではないつもりだ。町田は、そっと顔を近づけ江藤と最初で最後のキスをした。
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