第2話
──どこか森を走っていた。ただひたすらに、まるで何かに追われているように全力で走っていた。木の枝で頬が切れても、わき腹が痛くなっても、足を止める事は出来なかった。だが、いつまでも全速力で走り続けることは叶わなかった。不意に飛び出た木の幹に足を取られ、顔から地面にぶつかってしまった。慌てて起きようとして、何者かに体を押さえつけられた。
「──」
何かを耳元で囁かれたが、うまく聞き取れなかった。直後、腰の辺りに冷たい何かが入り込んできた。その冷たさは、激痛と共に燃える様な熱さに変わり、血液が流れ出る感覚と共に、意識は暗い闇の底へと沈んでいった。
目を開けると、青い空が見えた。背中に固い感触がある。どうやら仰向けに倒れているらしい。何やら夢を見ていた気がするが、どんな夢かは覚えてはいない。気を失っていたのだろうか。
鐘の残響が頭の中を支配している。勢いよく撞き過ぎだ、と反省しつつ、町田は起き上がる。
「……あれ?」
町田は目の前の光景のある異変に気付いた。目の前には変わらず鐘が存在している。だが、そこにあるのは鐘だけだった。その奥にあった建物も、鐘の周りに沢山あった地蔵や絵馬も何も無かった。ただ、高い壁に囲まれた空き地のような何も無い狭いだけの空間に、不釣り合いな梵鐘だけが鎮座している。明らかにさっきまでいた場所じゃない。
「おい、水野。ここは……ど……こ」
町田は慌てて振り向く。水野が一緒にいた筈だが、自分の周りには誰もいなかった。目を閉じている間にいなくなったのだろうか。いや、場所が変わっているのだから、移動したのは自分の方だと考えるべきだ。まさか本当に送り鐘を鳴らしたらあの世にでも送られたとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい。
「手の込んだドッキリだな」
町田はこの現象にそう結論付けた。どうせ水野が仕掛けたドッキリだろう。全く困ったやつだ。
ひとまず、この場でじっとしていても仕方ないので、町田は鐘のある空き地から外へ出る。外は先ほどまでいた商店街と遜色ない町並みが続いていた。だが、不気味なほど人の気配はない。
少し不信感を抱きながらも、そのまま人気のない商店街を歩いていると、もう一つ、気になる点を見つけた。それは文字だ。商店街の所々で文字が書かれた建物や垂れ幕を見るのだが、読めないのだ。元々外国語には詳しくないので、英語ですらあまり読めないが、そういった感じじゃない。何というか、この世の文字ではないような、全く読める気がしない。
「どこでこんな文字見つけたんだ」
町田は呆れを含ませて言う。わざわざ俺を驚かせるためだけに大層な仕掛けを施したもんだ。町から人の姿をなくして、謎の文字まで用意するとは。そうまでして俺を驚かせたいのか。
商店街を抜けると大通りへ出た。だが、やはり人は全くいない。それどころか、道路を走る車も存在しない。音も、風も、温度も何も感じない。自分だけが世界に取り残された気分だ。
「……いや、世界には元から取り残されてたな」
江藤の事を覚えているのは自分だけ。他の誰も彼女の事を知らない。自分だけが彼女の幻影に囚われ続けている。その時点で既に自分だけ世界から弾かれているのだ。
「……あれ?」
ふと、遠くの方で何か動く影が見えた。もしや、水野か──と思い、町田はその影を追いかける。大通りから少し逸れた路地の奥のさらに奥へと進むと、何者かの背中が見えた。不自然に固まったぼさぼさの髪で、泥だらけの服を着た自分よりも頭一つ分大きいその背中は、どうやら水野ではなさそうだ。おぼつかない足取りで歩いている。どう見ても普通ではない。
「……あの、大丈夫ですか?」
町田は思わず声をかける。今この辺りには何故だか人が全くいない。だとすると、助けられるのは自分しかいない。
「──」
泥だらけの男はぼそりと何かを呟いた。だが、なんて言ったのかは全く聞き取れなかった。町田はしっかり聞き取ろうと顔を寄せて、息を呑んだ。泥だらけの男の顔には、右頬から顎にかけてばっくりと裂けた大きな傷があった。その他にもいくつか傷がある。よく見ると、ぼさぼさの髪の毛も赤黒く変色している。どうやら血液が彼の髪を固めたらしい。
「だ、大丈夫ですか? 病院とか行かないと」
慌てて町田が言う。どう考えても重症だ。すぐ病院に連れて行かないと危険だ。というより、もう歩いている事自体奇跡なのでは、と思う。
男の顔がさび付いたブリキの人形のような動きでこちらを振り向いた。顔全体が泥と血で汚れ、こっちを見下ろす濁った双眸に生気は全く感じられない。まるでゾンビのようだ。
「これは……ドッキリ。そうに違いない」
町田は絞り出すような声で自分に言い聞かせる。こんな状態で生きてる人間なんているわけがない。これは作り物、そうに違いないのだ。
「──!」
男は口を大きく開けて、声にならない声で叫ぶ。それからこちらに向かって手を伸ばしてくる。身の危険を感じた町田は、それを避けるとそのまま路地から逃げ出した。大通りに出ても、とにかく走って途中で見つけた地下鉄の階段を下りて身を潜める。
全力疾走したせいで息が切れ、わき腹が痛い。じわりと汗が滲む。だが、暑さは全く感じなかった。それどころか、体の芯が冷え切っている。さっきのあれは作り物だ、と何度思い込んでも体の震えは止まらなかった。あの時感じた恐怖は尋常じゃないものだった。
「何なんだよ……。水野は何の為にこんな事を」
町田はいまだに姿を現さない水野に疑問を抱く。一個人が仕掛けるドッキリにしては規模がでかすぎる。何の為に水野はこんな事をしているのだろうか。
人気のない状態になってどれくらい時間が経ったのだろう。気が付けば、空はオレンジ色に染まり始めていた。相変わらず人気は感じられない。修学旅行中に生徒が長い時間いないのだから誰か探しに来てもいいと思うが、その気配もない。たまたまここへ来ていないだけか、それとも彼女と同じように俺も忘れられたのだろうか。
「……あれ?」
ふと、外を見ると、いくつかの人影が見えた。先ほどまで全くいなかった人が、普通に町の中を歩いている。ようやくドッキリが終わったかと思ったが、すぐにそうではないと分かった。町を歩いている人は、さっきの男と同じように、傷だらけだったり、手足が不自然に折れ曲がっていたり、体の一部が欠損していたりと、到底普通ではなかった。まるでハロウィンの仮装行列の様に、生きているはずの無い怪我を負った人ばかりが歩いている。
あまりの光景に町田は吐き気を催して、目を強く瞑った。もう嫌だ、普通の日常に戻ってくれ、と強く願う。だが、再び目を開けても光景は変わらない。
これは本当にドッキリなのだろうか。それとも、水野が言っていたように、本当にあの世に来てしまったのだろうか。いや、そんな事はあり得ない。何故なら俺はまだ死んでいない。死んでいないのにどうしてあの世に来れるのだ。
「──やっと見つけた!」
突然、背後から声が聞こえた。少しハスキーな、高い声だった。やっと、探しに来てくれたか、と町田は安堵して振り返り、階段の下からこちらを見上げる人物の顔を見て、言葉を失った。
「……え、江藤、さん?」
「また会えたね。町田君」
そこにいたのは、二週間前に事故で死んだはずの江藤若菜だった。
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