妖精キット

灰崎千尋

妖精キット

「妖精キット」というものを買ってしまった。

 

 明らかに怪しげな商品だが、売っている奴も当然怪しかった。夜遅く、バイト帰りにコンビニの前で煙草を吸っていたところへ、そいつは話しかけてきた。

「妖精、いりませんか」

 きちんとしたスーツを着たどこにでもいそうなサラリーマンに見えた。しかしどうも顔がよく見えない。何かで隠しているわけでもないのに、そいつの顔だけもやがかかったように見えないのだ。疲れているせいかと思って目を擦ってみたが変わらない。

「あなただけの妖精、欲しくありませんか」

 そいつは男とも女ともとれる声でそう言いながら、ビジネスバッグの中から瓶を一本取り出した。煙草の箱を縦に二つ重ねたくらいの大きさの透明な瓶には、何かキラキラした砂と、葉っぱの山と、ぶよぶよと揺れるスライム状の赤い塊が入っている。

「あなただけを見て、あなただけに笑いかける、あなただけの妖精です。なに、作り方は簡単。これは簡単な作成キットになっていて、ここへあなたの精液を混ぜて振るだけ」

「せ……っ」

 思わず周囲を見渡したが、深夜のコンビニ前には俺とサラリーマン以外に誰もいない。店員さえもバックヤードに入ってしまったようだ。

「ああ、誤解のないように。いやらしい目的では使えませんよ。妖精はこの瓶の中でしか生きられない。ただあなたの印が必要なのです」

 そいつの言葉が頭に響いてくらくらしてくる。空腹で煙草を吸ったせいだろうか。エロいものではないということはわかった。

「でも俺、金ないし」

 いわゆるフリーターでふらふらしている自分には、貯金なんてないし手持ちも少ない。給料日はまだ先だ。

「ご心配には及びません。そうですね、その煙草一本と交換でどうです」

「え」

 安い。安過ぎて拍子抜けしてしまった。これが詐欺にしても儲けがない。

「いえね、これは実験みたいなものなんです。一週間後、またここに来ますので、お気に召さなければ返品も受け付けますよ」

 俺はぼうっとした頭で考えた。吸うために取り出したはずの二本目の煙草を見る。こいつと交換で、俺だけの何かが手に入るらしい。妖精、妖精とはなんだろう。わからないがきっとキレイなんじゃないか。俺なんかの精液だとあんまりキレイにならないかもしれないけど。でも妖精だし。俺だけのものなんて、いま他に手に入らないし。

 俺は手にしていた煙草をサラリーマンに差し出した。

「お買い上げ、ありがとうございます」

 そう聞こえたかと思うと、サラリーマンはもう姿を消していて、俺は煙草の代わりに瓶を手にしていた。見た目よりもずしりと重い。

 その重さに戸惑いながら歩いているうちに、いつの間にか自宅に着いていた。


 六畳一間のワンルーム。

 万年床の横に置いた小さなテーブルに、瓶を置く。ざっとシャワーを浴びてしまってから、パンツ一丁でテーブルの前に腰を下ろした。瓶の口には「ようせいキット」と書かれた二つ折りの紙がくくりつけられていて、開くと説明書のようになっていた。



『ようせい の つくりかた (男性用)


1.ふた を あけて びん の なか に あなた の せいえき を いれよう


2.ふた を しめて びん を よく ふろう


3.ひとばん まったら できあがり !


※びん には ようせい が いきる ため の まじゅつ が かけられ て います

ふた を あけられる のは 1ど きり です

ちゅうい してね


※ふた を 2ど あける と ようせい は しんで しまい ます


※お受け取りから8日以内であればクーリング・オフをすることができます 』



 最後の文章だけコピペしたのだろうか。いくら俺に学がないからといって、ひらがなばかりだとかえって読みづらい。

「精液っつったって……」

 俺は瓶の前で力なく呟いた。この妙ちきりんな瓶に向かって射精するのはひどく滑稽だろう。笑えてきてしまって出ないかもしれない。かといって別の容器なんて、うちにはマグカップと茶碗くらいしかないし、それを使うのは流石にナシだ。買い替えなきゃいけなくなる。

 そもそも本当に、こんなことで妖精ができるのだろうか。「まじゅつ」なんてものが、俺の手元に?

 疑問は尽きないが、俺はもう煙草一本と瓶を引き換えてしまっている。ここはあのサラリーマンに乗ってやろう。ほとんど日課みたいなオナニーの始末がティッシュから瓶になるだけだ。

 まずは瓶をあけてみる。金メッキされた蓋は、ほとんど抵抗なくするすると回った。驚くほどあっけない。口に鼻を近づけてみた。ほんのりと生臭いような、傷口を舐めたときのような匂いだ。決意が揺らぎそうになるのをどうにかこらえる。

「よし」

 俺はなんとなくかけ声までかけてしまってから、布団に寝転がった。腰のあたりにティッシュと瓶を置いて、スマホのブックマークからなじみの無料動画サイトを開く。壁の厚さに不安があるので、イヤホンもセットする。

 これもなんとなくだが、いつもよりもじっくりとオカズを吟味した。妖精が少しでもキレイになるように、願掛けみたいなものだ。そもそも「まじゅつ」なんて、願掛けとそう変わらないような気もする。


 清楚系の女優が画面の中で喘ぐ。いつもは飛ばしてしまうインタビューや長い前戯も、今日はそのまま流している。ねっとりと唾液のしたたるキス。乳輪の大きな乳房が白いブラジャーから解き放たれて揺れる。手の中のモノが固く膨らんでくる。清楚系なんて久しぶりに見ているが、これはこれで良いな、なんてことを頭の隅で考えている。彼女がいたら、こんな感じだろうか。彼女がいたら、俺は妖精なんかに手を出しはしなかったろうか。白くなめらかな肌の奥に挿入され、ピストン運動が徐々に激しさを増してくる。ほとんど惰性で上下させている自分の手も力を込める。手首が痺れてくる。フィニッシュは近い。画面の中も盛り上がっている。イヤホンからはリズミカルに水音と男女の喘ぎが流れ込んでくる。

『あ……っ、あ、いく、いっちゃうっ』

「……っ」

 俺はスマホを持っていた方の手を放して、股間に瓶を構えた。得体のしれないものの上に白濁液がかかる。俺は射精した倦怠感と妙に冴え渡った気分がせめぎあう頭で、その冒涜的な瓶を眺めた。イヤホンからはまだ嬌声が流れている。ひどい匂いだ。瓶からモノを抜いてティッシュで軽く拭き取ってから下着をはき、瓶の蓋をしっかりと締めた。

 俺は動画をストップして、イヤホンを外した。瓶の中はあまり見ないようにしながら、蓋と底を手で押さえて、これを力任せに振った。最初のうちはぺちゃぺちゃと妙な音がしていたが、だんだん水っぽい音に変わってきた。

 そろそろいいだろう、と恐る恐る瓶を見てみると、中身はいちごミルクのようになっていた。完全に液体と化していて、振る前にはあったはずの葉っぱや砂はどういうわけか見当たらない。ピンク色の液体は、個体だったときよりも何故か少し安心感があった。これが果たして正解なのかどうかはわからないが、俺は最善を尽くした。あとは寝て待つしかない。

 俺はまた瓶をテーブルに置いてから電気を消し、下着姿のまま布団をかぶった。よくわからない夜だった。でもいつもティッシュの上で死なせていた精子を、多少生産的に使えた気がして、俺は不思議な満足感を覚えながら眠りについた。


 翌日の目覚めはひどくぼんやりとしていた。射精した翌日にはよくあることだ。枕元のスマホで時間を確認すると、ほとんど昼だった。腹が減っている。でも頭も体もけだるさで覆われている。しばらく布団の上でごろごろとしていたが、ふと目の端にキラキラとした光が入ってきた。そして昨夜のことを一気に思い出し、がばりと起き上がった。

 テーブルの上の瓶の中に、何か眩しいものがいる。何度かしぱしぱと瞬きをするうちに目が慣れてきて、それが小さな人型であることがわかる。背には蝉やトンボのように筋の透けた羽根が四枚はえていて、ゆったりと開閉を繰り返している。その羽根を含めた身体全体が、青白く光っている。細長い手足をたどった先にはくびれた腰、胸や尻の膨らみ。それにやや対抗するように幼さの残る丸い顔には、口や鼻などがバランスよく乗っていて、精巧なフィギュアのように整っている。そうしてそのくりっと大きな瞳が、ただ真っ直ぐに俺を見ていた。

 俺はその目を見つめ返していた。こんなに真正面から人に見られることも、見ることも、久しくなかったと思う。それでもあんまり真っ直ぐな視線なので、俺は目を反らせずにいた。そうしているうちに、肩に波打つ髪からのぞく耳が人間のそれよりも尖っているのが見えて、俺はようやく「妖精」という言葉を思い出した。

 すると目の前の「妖精」はパッとその羽根を瓶いっぱいに広げ、両手を俺の方へ差し伸べて、弧を描いた唇を二度開いた。

『ぱ ぱ』

 声はしなかったが、そう言われた気がした。



 俺はそのまま、しばらく瓶の中の妖精を眺めていた。妖精は得意げに羽根を羽ばたかせてみたり、くるくると踊ってみたり、ただ俺の顔を見つめてみたりと色々楽しませてくれて、一向に見飽きることがなかった。そのどれもが今までみた何よりもキレイで、ただみとれていた。そして不思議なのだが、そうした妖精の行動すべてが俺のためのものだと確信していた。俺は普段ナルシストとは真逆な方で、人に対してこんなに自信を持てたことなどない。それなのに、この妖精は俺だけのものだと確かに思えた。


『あなただけを見て、あなただけに笑いかける、あなただけの妖精です』


 あのサラリーマンの言葉をふと思い出した。これも魔術の内なのだろうか。それでも良い。俺はこんなにも心が満たされたことはない。このじんわり温かい気持ちが得られるのなら、実験でも何でも良いと思った。

 そのとき、スマホの無機質なバイブ音が鳴った。いつの間にか、バイトの時間が迫っていた。

「やっべ」

 まだパンツ一枚だった俺は適当にひっつかんだ服を着て、昨夜床に転がしたままの鞄とスマホを手に出かけようとしたそのとき、妖精と目が合った。

 妖精は瓶の側面にその小さな手をぴたりと付けて、少し不思議そうに俺を見ていた。

 俺はすぅっと息を吸い込んでから、

「行ってきます」

と小さく声をかけた。

 それが果たして届いたかはわからないが、妖精は俺ににっこりと微笑んだ。

 俺はいつになく晴れやかな気持ちで、家を後にした。


 その日のバイトは今までで一番はかどった、と思う。

 菓子工場のラインで和菓子にプラスチックの蓋を被せるだけの仕事だが、ベルトコンベアで流れてくる餡ころ餅に妖精の丸い顔を思い出して、顔がにやけてしまう。マスク必須の職場で本当に良かった。でなければ気持ち悪がられてひどい目にあっていたかもしれない。もともと単純作業は苦でない方だが、家であの子が待っていると思えば一層がんばれた。誰とも喋らない休憩時間も、その後のシール貼り作業も、あの子のキレイなところを一つ一つ思い出すうちにいつの間にか終わってしまった。こんなことは初めてだった。

 バイトからの帰り道、妖精キットをもらったコンビニの前を通りかかった。例のサラリーマンはいなかった。搬入のトラックが一台停まっているだけで、他に人影はない。いつもならここで一本タバコを吸って帰るところだが、今日は一刻も早く妖精の顔を見たかった。俺は家路を急いだ。


 玄関の戸を開けると、真っ暗な中に青白い光がぼうっと浮かんでいた。それは自分の家ではないみたいにキレイで、俺は夏の虫のようにその光に近づいていった。

 妖精は、全身から淡い光を放ちながら瓶の中に座り込んでいた。顔は全くの無表情で一瞬ぎょっとしたのだが、俺の気配を感じたのか、その羽根と耳がぴくりと動いて、朝俺を送り出したときのような笑顔を俺に向けてくれる。

「ただいま」

 俺は自然とそう口にしていた。もう何年も言っていない言葉なのに、この子は今朝現れたばかりなのに、毎日ずっとこの子に「ただいま」と言っていたような、不思議な感覚だった。

 ペットを飼うというのは、こんな感じなのだろうか。俺は実家も借家なのでペットを飼ったことは一度もないのだけれど、こんなにいいものなのか。瓶に軽く押し当てた指にじゃれつくようにはしゃぐ妖精を見ながら、俺は幸せを噛み締めていた。

 部屋の電気をつけてからまた妖精の前に座って、名前を付けなくちゃな、と思った。なんかこう、おしゃれなやつを、カタカナっぽいやつがいい。とりあえず俺はスマホの検索窓に「妖精 名前」と入れてみた。そうやって出てきたのは「ピクシー」だとか「ドワーフ」だとかで、これはたぶん種族名っぽいやつだ。RPGで見たような名前だから。

 うーん、と唸りながら俺は瓶を手にとった。俺の頭じゃ大した名前は出てこない。瓶の中の妖精は小首をかしげて微笑んでいる。可愛い。まるで親バカみたいだが、可愛いものは可愛いのだ。

「アイ」

 なんとなく口をついて出た、どこにでもある名前。なんのひねりもなくて恥ずかしくなってしまうが、妖精は反応するように羽根をふるわせた。

「……アイ」

 ためらいがちにもう一度呼んでみると、また羽根がふるえた。そうして何やら嬉しそうに、瓶の中を飛び跳ねだした。

「アイ」

 あんまりセンスのない名前で申し訳ないのだけど、この子の名前はこうして決まってしまったのだった。


 シャワーを浴びて寝床につく。電気を消したが、やはりテーブル周りがぼんやりと明るい。狭い部屋なのでちょっと気になってしまう。俺はタンスからバスタオルを引っ張り出して、「ごめんな」と謝りながら瓶を覆ってみた。豆電球くらいには抑えられた気がする。割とどこでも寝られるつもりでいたが、明るいのはどうも駄目らしい。

「おやすみ、アイ」

 少し申し訳なく思いながらも、俺は目を閉じた。



 それからの生活は、何もかもが少しずつキレイになった気がした。バイトと家を往復するだけの暮らしが、初めてちょっと良いものに思えた。

 目が覚めると、瓶にかけていたバスタオルを取ってやる。そのときのアイはたいてい瓶の側面に上半身をあずけるように眠っていて、長いまつげの落とす影がよく見える。そのうちにつぼみが開くようにまぶたが開いて、俺に向かってにっこりと微笑む。「おはよう」と言うと、何か応えるように小さな口が開く。そんなことだけで朝起きるのが苦でなくなってしまうのだから、自分は本当に単純な人間だと思う。

 アイはときどき口をぱくぱくとしているので、何か喋っているはずだ。しかしその声は聞こえない。瓶にぴったりと耳をつけてみたこともあるが振動すら伝わってこないので、妖精の声は人間に聞こえないようになっているのかもしれない。それでも反応が返ってくるのが嬉しくて、つい声をかけてしまう。

 といっても、元々人と喋るのが苦手な方なので、相手が妖精になっても挨拶くらいしかしてやれない。バイト先も会話しなくていい工場を選んだので、一人のときは一言も喋らないで終わった日もあるくらいだった。だからアイがやってきて、自然と「おはよう」なんて言う自分に驚いたし、挨拶ってこんなにハードルの低いものだったのか、とも思った。それから「っす」で済ませていたバイト先でも、少しずつ「お疲れさまです」と言ってみるようになった。よく遭遇する社員さんは最初「お前喋れたのか」みたいな目で見てきたけれど、当たりが少し優しくなった気がする。


 アイは何も食べない。食べないし、排泄もしない。瓶を開けると死んでしまうというので俺にできることは実際ないのだけど、不安ではある。動物のペットよりは楽なのだろうが、わからないことが多すぎる。

 アイはただ笑っている。何もない小さな瓶の中で、跳ねるように踊ったり、瓶の口のあたりを眺めてみたり、羽根をつくろうように撫でてみたり、色々な姿を見せてくれるがいつも微笑を浮かべている。ちょっと瓶を小突いてみても、怒ったり泣いたりはしない。まるで笑うことしか知らないようだった。不思議ではあるが、その笑顔が俺は何より好きだった。俺が声をかけると、うっすら微笑んでいたのが、ぱあっと輝くような笑顔になる。これは、俺だけの笑顔なのだ。


 そうして一週間ほどが過ぎた頃だった。

「妖精は、お気に召しましたか?」

 突然そう声をかけられて、俺はびくりとして立ち止まった。そこは例のコンビニの前だった。灰皿の横のベンチに、いつかのサラリーマンが座っていた。

「クーリング・オフ期間も終わりますのでね」

 相変わらず顔はぼんやりとしている。そういえば説明書にそんなことも書いてあったか。

「返品は、しない」

 俺ははっきりと言った。サラリーマンは満足気に「そうですか、そうですか」とうなずくと、自分の隣へ促すように腕を広げた。俺は少し迷ったが、そいつの隣に座って久しぶりに煙草に火を点けた。

「お気に召したようで何より。ご質問があればお答えしますよ」

 こころなしかサラリーマンはウキウキとしているようだった。何から何まで奇妙なやつだ。

「妖精って、食べないのか?」

 俺はずっと気になっていたことを尋ねた。今のところは無事だが、食べずに弱っていくのを見るのは嫌だ。

「ああ、食べたり飲んだりはしません。少しずつあなたからもらっているので」

「俺から?」

「ええ、印のあるあなたが妖精のそばにいるとき、必要な分だけエネルギーを分けてもらっているのです。だからあなたが元気でいさえすればいい。あの大きさですし、主を弱らせるほど吸い取ったりはしないのでご心配なく」

 心配というか、そういうことは最初に言っておいてほしい。魔術も妖精も初めてなのだから。

「あ、長期旅行とかされます? その場合はできれば一緒に連れて行っていただいた方が」

「いや、別にないけど」

「あー、そうかそういうことも説明書に入れた方がいいんですね。なるほどなるほど」

 俺の話を聞いているのかいないのか、サラリーマンは何やら手帳にメモを取っている。

「アレはどんな様子です?」

 手帳を開いたまま、興味深そうに尋ねられた。

「どうって……ずっと、笑ってくれてる」

「そりゃまぁそういう作りにしたので」

「作り?」

「あんな簡単なキットですからね、あんまり複雑な存在にはできないんですよ。つまるところ大した知性はない。認識しているのは瓶の中の空間とあなたの存在くらいかな。いやぁ大変だったんですよ、あれだけ装置をシンプルにするの」

 俺をほったらかしにしてサラリーマンはべらべらと喋る。よくはわからないが、とても大掛かりな魔術を大変な苦労をしてあのキットにしたのだと熱弁された。しかしそんな大層なものを、なぜ俺なんかに売ったのだろう。

「人間の方は笑顔のものには優しくしてくれるんじゃないかと思いましてね。思い切ってそれ以外を削ぎ落としたんですよ。その方が装置も軽くなりますしね。まぁだから、ちょっと意志のある人形くらいに思っていただければ」

「でもアイは、俺が何か言うと、応えてくれるんだ」

 人形、と言われて少しムッとしてしまった俺が口を挟むと、サラリーマンは少し困ったように首をかしげた。

「おや、あなたに話しかけられているのはわかっても、言葉を理解しているわけではないはずですが」

「いやその、挨拶とかだけど」

「内容の問題ではなく、瓶の中と外では環境が全く違いましてね、声が届いていないはずなのです。そもそも人間の幼児よりも単純な知能ですし……まぁでも犬が飼い主に反応するように、あなたに構われているのがわかって何か言ってるのかもしれませんねぇ」

 サラリーマンはそう言ってまた手帳に書き込みだした。それを眺めながら、俺は瓶の中でぱくぱくと口を開くアイを思い出していた。俺に何か喋りかけてくれているのだ、絶対に。あの笑顔で。俺に向けられたあの笑顔は、人形なんかじゃない。

「さて、随分可愛がっていただいているようで安心しました。またしばらくしたらレビューを聞かせてくださいね」

「あ、あの」

 すっかり満足して帰ろうとする様子のサラリーマンを、俺は引き止めた。

「どうしました?」

「声が、聞きたいんだ」

 言葉になっていなくても良い。罵倒なんかじゃない、もっと優しい、もっと純粋な。アイの声が聞きたい。

「聞けるように、ならないかな」

「ふむ……」

 サラリーマンはしばらく考え込むように腕を組んでじっとしていた。俺はただ待っていた。煙草はとっくに灰になっていて、煙も出ていない。二本目に火を点ける気にもなれず、俺は上着のポケットに両手を突っ込んでいた。やがてサラリーマンは、「不可能ではありません」と口を開いた。

「可能ではありますが、 聞こえるのがあなたの望む声でなくとも後悔しませんか?」

 含みのある言い方だと思ったが、俺はうなずいた。俺はアイのことなら、受け入れられる。

「かしこまりました。それではこれは、アフター・サービスといたしましょう」

 そう言うと、サラリーマンは俺には聞き取れない言葉を唱えはじめた。途端に視界がぐらっと揺らいだ。猛烈に頭が痛い。喉がきゅっと閉まって呻くこともできない。うずくまって頭を抱える俺の耳に、サラリーマンの声が響いた。

「楽しみにしています」

 次の瞬間、俺は一人でベンチに座っていた。サラリーマンの姿は跡形もない。頭痛も余韻すら無い。特に自分に変わったところはないようだが、あれは一体なんだったのか。魔術ってやつはわからない。


 帰宅して部屋の灯りをつける。

「ただいま」

 テーブルの上のアイに声をかける。するとぼんやりとしていたアイが、スイッチが入るようにぱちりとまばたきをする。そこまではいつもどおりだった。


『パパ』


 頭に直接聞こえたような気がした。声、というよりももっと柔らかな何かが、脳に滑り込んでくる。鼓膜が震えているわけでもないのに、鈴のように響く。


『パパ』


 キレイで、あまったるくて、まぶしくて、なめらかで。

 これが、アイの「声」なのだ。


「ただいま、アイ」

『パパ スキ ウレシイ』


 子供のようにたどたどしく、しかしまっすぐな「声」が俺を満たしてくれる。ほら、アイはこんなに素敵な言葉をくれる。何を後悔するっていうんだ。



 それからしばらく、アイの声を聞いていた。それはとても心地よくて、頭の奥からとろけてしまいそうだった。俺のことを「パパ」と呼び、「スキ」だと言う。俺の声も聞こえないのに。俺は何もしてやれないのに。俺から生まれたというだけで。

 そうしているうちに、アイは瓶の口の方を見上げて黙ってしまった。

「アイ?」

 思わず呼びかけると、俺の方を見て微笑みながら、アイは言った。

『パパ ダシテ』

 俺は一瞬固まった。エロいことを考えてしまった。しかし普通に考えて、瓶の外に自分を出してほしい、という意味だろう。

「お前は、外に出ると、死んじゃうんだよ」

 聞こえないとわかっているが語りかけてしまう。そうか、アイは自分のこともよくわかっていないんだな。不純なことを考えてしまった自分が心底いやになる。

『パパ スキ ダシテ』

 直接は無理だがせめて、と瓶を撫でていた手にじゃれつきながら、アイは続ける。一度浮かんでしまったエロい発想を振り払うことができない。そのうち勝手に股間が膨らんできてしまう。

 咄嗟にアイに背を向けた。そういえば、キットを使うのに出した以来、オナニーをしていない。それまでなんとなく毎日やっていたせいなのか、抑えつけていたつもりもないのに、急にエロいことで頭がいっぱいになる。あの日オカズにした清楚系の女優の顔が浮かぶ。そこにアイの顔がオーバーラップする。最低だ。

『パパ スキ ダイスキ』

 ジーンズが苦しくなってしまって、やけくそに脱ぎ捨てる。もうどうせならさっさと済ませてしまおうと右手で扱く。今までエロい目で見た覚えはないのに、アイの細い腰のくびれや乳房の揺れを思い出す。そうだ、アイはエロくなんかないのに。美術館の像を見るような、可愛い子供を見るような、そういう風に見てきたはずなのに。右手は止まらない。

『パパ ダイスキ ダシテ ダシテ』

 ねだるような声が響いたそのとき、俺は射精してしまった。独特の生臭い匂いが、俺の意識を引きずり戻す。ぎりぎりのところで掴んだティッシュがべっとりと濡れている。汚い。俺は、汚い。


 アイは、何もわからないのだ。

 瓶を開けたら自分が死んでしまうことも、俺がどんなに汚いかも、自分が笑うことしかできないことも、俺が愛していることも。

 わからないからずっと俺に笑いかけてくれるのだ。俺に「スキ」と言うのだ。

 それでもなお「ダシテ」と、アイは言う。

 もしかしたらアイは、死にたいのかもしれない。

 でも俺は、アイを手放すこともできない。アイがいることの温かさも、喜びも、知ってしまったから。

 最低だ。


 それから俺は、アイを眺めることが減った。

 相変わらずアイはキレイで、甘い声で「スキ」と言ってくれる。でもしばらく経つとやっぱり「ダシテ」と言い始めるのだ。その度に俺は罪悪感ともどかしさで死にたくなるのだが、眠るときのようにバスタオルをかぶせてしまうと声も聞こえなくなることがわかったので、そうやってアイを隠してしまう。例のサラリーマンは俺がそばにいるだけでエネルギーを分けられると言っていたので、これに問題は無いだろう。現にタオルを外しさえすれば、文句も言わず、泣きも怒りもせず、変わらない笑顔を俺に見せてくれるのだ。アイにはそれしかできないとしても。

 俺は夜あまり眠れなくなった。

 サラリーマンにやっぱり声を聞こえないように戻してもらおうとも思ったが、あれ以来会えていない。俺が欲張ったのがいけないのだ。アイがいてくれるだけで良かったのに。後悔しないかと、言われていたのに。

 それでもやっぱり、アイの声を聞くのもやめられなかった。アイに「スキ」と言われる快感は、何ものにも変え難かった。麻薬みたいだ、と思った。「スキ」という言葉も、あの脳をぐにゃりと揺らすような甘い声も。



 その日、バイトは休みだった。

 俺は昼過ぎに起きて、アイに「おはよう」と言って、そのままぼうっとしていた。寝起きで髭は伸びているし、顔もぺたぺたと脂が浮いているのがわかる。寝癖もひどいのだろう。鏡を見る気も起きない。

『パパ ミテ パパ スキ』

 アイは瓶の中心でバレリーナのようにくるくると踊っていた。初めて会った日にも、アイはこうして踊っていた。そういうふうにできているからなのだろう。俺だけを見て、俺だけに笑いかける、俺だけの妖精。だからアイが「ダシテ」というのも、決まっていたことなのだ。

 俺はアイの入っている瓶を両手で抱えた。つるりとした表面を撫でると、アイは不思議そうに微笑む。

『パパ ダシテ』

 子供が抱っこをねだるように、アイは俺の方へ腕を伸ばした。

 俺はそれを聞いて、瓶の蓋に手をかける。蓋は初めて開けたときと同じように、するすると回った。アイはそれを、きらきらとした笑顔で見つめている。

「おいで、アイ」

 俺はかぱりと蓋を開けた。アイは瓶の口へと羽根を羽ばたかせた。

 縁から手首がのぞいたその瞬間、アイは笑顔のまま動きを止めた。

 まるで石像のように固まった身体は、指先から塵へと変わっていった。手首、腕、肩と、順に容赦なく消え去っていく。最後にアイが見たのはきっと、俺でも空でもなく、この家のすすけた天井だったろう。その笑顔は今まで見たどのアイよりもキレイだと思った。その顔もすぐに吹き消すように消えていく。数秒と経たないうちにつま先まで崩れ落ち、アイは跡形もなく消えた。

 何も、何も残らなかった。

 触れることすらできなかった。

 俺は見ていることしかできなかった。

「うぅ……うっ……あ、ああ……」

 俺は空っぽの瓶をきつく抱きしめながら、何の涙かわからないまま、ただ泣いた。




 その時、妖精の死を感じ取った者がもう一人いた。

 彼は紡いだ魔術の糸がぷつりと切れてしまったのを、ほんの少し惜しんだ。

「良い餌になると思ったのですが」

 そう呟くと、また次の客を探しに闇の奥深くへ消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖精キット 灰崎千尋 @chat_gris

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ