אדם וחוה-失楽園-

 研究室にノックだけして鼻歌交じりに入ると共同研究者の早瀬はやせ君が私に向けて「しーっ」と人差し指を立てていた。その片手には受話器があり、漏れ聞こえる「三井さん」、「先月のディナー」という言葉からして彼女の婚約者フィアンセからのラブコールらしい。

 妊娠し、臨月を迎えてなお研究を続ける彼女の熱意には脱帽する。特に彼女と私が探求する分野は人類という種の謎の解明、神の御技みわざの再現なのだからその敬意は一入ひとしお


「すみません、立川教授。彼から急に連絡が来まして」

「いや、いいんだ。愛しの彼との交流で精神を安らかにさせるのも研究には必要な時間だからね」


‪ 恥ずかしい限りです、と彼女は恐縮すると何やら紙の束を取り出して私に差し出してくる。それはとある報告書。我々が国にもバレないように密かに続けるとある研究だ。


「アダム計画は順調に、イヴ計画もアダム計画の内容をいくらか流用してできそうです」

「そうか、それはご苦労だった。それにしてもアダム計画の被験者なぞよく用意できたね。あの実験は妊娠を伴うから被験者を募るのも大変になるという予測だっただろう?」

「体外受精の要領で私のゲノムから作り出した卵子に人工的に塩基配列を作り出し生成した精子を受精させ、予後の一番いいものを胎内に、それ以外を人工子宮で育ててます。データとしては十分数揃っているかと」


 その発言に私はパチクリと目をしばたたかせた。それはつまり、


「君の、その、お腹の子は、」

「ええ、そうですよ?」


 知らなかったんですか? そう言うように彼女は首をかしげる。その彼女は幸せそうににっこりと満面の笑みを浮かべている。

 確かに実験のその性質上内部者を被験者にするのは機密管理の上では合理的な判断ではあるが、私の人工子宮で十分代用可能なはずだ。


「他の女性に頼ることができないんですから、自分の体で試さないと。ラット実験で成功したとはいえ、人間でもちゃんと成功するかわかりませんし。人工子宮以外での成功例というのも必要でしょう? 実際、イヴ計画の方では人工卵子と人工精子による受精卵の培養段階に入ってますがうまく内臓を構築できていないケースが相次いでいます。教授の人工子宮ザイゴートはうまく機能しているみたいなのでうちの研究室側のエラーですね。既に六百件の標本を破棄していますから、もうそろそろ成功例の出る遺伝子配列を見つけないといけないですね。配列パターンは大量にあるのでどれがどう作用して個体が出来ていくのかをAIに学習させていけばもっと効率よく行くはずです。そうだ、教授。新しい研究員を引き込みましょうよ。プログラムも専門の人がいればさらに効率のいいアルゴリズムを見つけてくれるはずですよ!」


 おお、神よ。

 なぜだか知らないが天を仰ぎ、神に許しを乞いたい気分にかられてしまう。罪悪がどこから来たのやら。そんなもの研究に対して

持ったことがなかったと言うのに。

 早口で捲したてる彼女に感じるのはある種の狂気。例えるならば、火事が起きてパニックになる友人を傍目に冷静な思考を取り戻すような心持ちが私の曇った目をクリアにする。思わず、口の端が引きつっていく。

 そんな私を見て、彼女はどう思ったのやら。満面の笑顔のままでこう告げた。


「立川教授、実はアダム計画とイヴ計画の成功例一号につける名前を考えてたんですよ!」


 満面の笑みで未来絵図を描く少女のように屈託無く笑う彼女に目眩がする。ここは本当に正気の世界なのか?

 彼女の楽しげな狂貌を見れば見るほど今までの自分の所業に対して吐き気を催す。


「アダム計画の方はあたる! すくすく大きい大人にちゃんと育ってくれるようにです! それにちょっとアダムっていう名前にも近いですし!」


 可愛らしくそう言う彼女はいつの間に正気を失っていたと言うのか。彼女のことを学生の頃から私は知っている。学生の頃の彼女はこんな笑みで笑わなかった。笑っているはずがないのだ。

 今の彼女に変えた原因はわかりきっている。彼女をこんなところに導いたのは私だ。これは私の責任なのだ。そんなこと今まで思いもしなかった。私も科学というものに飲まれて狂気に染まっていたに違いない。


「そして、イヴ計画の子の名前はヘウアって名前にしようかなって思ってます! せっかく、人類で初めて何もないタンパク質の海から生まれてくる新しい人類ですから、イヴって名前の語源である『生きる』っていうのすごいいいなって思って、」


 私は大変なことをしている。そんな気が彼女が私に話しかけるたびにしてしまう。取り返しのつかないところにもう辿り着いている。わかっていた、こんな研究してはならないことくらい。神と同等の所業なんて目指すべきではなかったのだ。

 濁っていた目が鮮明になり、戸棚に並ぶ狂気へと目が、向いてしまう。


「ただ、呼吸をずっとしていて欲しいから、その子にはイヴからとってヘウアってつけようかな、って」


 戸棚にはホルマリン漬けにされた大量の赤ん坊が並び、それは解剖途中のものであったり、片足が足りないものであったり、頭がいくつもあったりする。研究室の奥にはまさに解剖途中の赤ん坊が放置されており、目の前で朗らかに笑う彼女は血にまみれていた。


 ——嗚呼、神よ。罪深き我らを許したまえ。


 ◆


 面会室で息子とガラス越しに面会する。前にあったのが半年前だからずいぶん久々に感じる。


「久しぶりだな。迷惑をかけている」


 息子の弘樹ひろき憮然ぶぜんとした顔で天井を見上げ私の言葉を受け止める。私のやったことを尻拭いさせてしまっていることが私はただただ心苦しかった。


「いいよ。悪いと思ってるなら、それで。別に罰金云々も親父の貯金でなんとかなったし」


 その言葉に少し安心する。息子夫婦に迷惑をかけたとあっては亡き妻に申し訳が立たない。


「ただ、だ。あの子はどうしたらいい。あいつ、あー、深雪みゆきの奴と話し合ってうちで引き取ってもいいって話にはなってる。それでも、親父たちの娘だろ? どう導いてあげたいのかくらい自分でケツを持てよ」

「ああ、そうだな。だが、彼女をこの世に産み落とした私たち生みの親の気持ちは一つだよ」


 弘樹は目を瞬かせると顔をこちらに向ける。


「彼女が、ただ生きられれば。それだけさ」


 それを聞くと弘樹は腹を抱えて笑いだした。何がおかしいのか分からず思わず聞くと、


「そんなの、どんな親だって願うことだろ?」


 その言葉に私も少しおかしく思えて知らぬ間に笑いだしてしまっていた。どんな生き物でも、私たちが作り出した子がヒトと言える出自でなかったとしても、私たちが願うべきことは間違っていなかった。だが、間違っていなかったのだが、そんなこと誰にでもわかっている当たり前のことだったようだ。こんな笑えることがあるだろうか。

 こんな親として当たり前のことを息子から教えてもらうとは思わなかった。


「それもそうだな。うん、そうだ」


 生きてくれれば、それ以上は望まない。なら、どう生きるかは彼女が自分で掴むのだろう。そのサポートこそを願うべきなのだろう。


「なら、どこまでも自由にさせてあげてくれ。私は、彼女がどう生きるのかを見てみたい。見ていたくなったんだ」


 חוה。ヘウヴァ。イヴ。

 彼女に付けられたその名前の通り彼女がただ生きてくれればそう祈って、私は泣いて笑った。

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彯婀 深恵 遊子 @toubun76

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