婀
「立川さん、どうしたの。こんなところまで来て」
不思議そうな顔でこちらを見る三井くん。まだ夏服期間ではないが学ランは脱いでいて長袖のワイシャツ姿になっている。その右手にはスマホが握られていた。
液晶にはカメラのアプリが開かれているのが映っており、影に
「いや、グラウンドを誰かが携帯で撮ってたら盗撮かなって思うじゃない。部のほうで今日そういう活動があるっていう連絡があったわけじゃないし」
三井くんはパチクリと目を瞬かせると、やがて納得したように私の顔を見た。その表情は苦虫でもかみつぶしたかのような
「別に悪気があったわけじゃないんだ。撮ってたのも一人の練習風景だけで、それも本人に頼まれてのことだよ」
「だったらいいけど。女子も練習してるところに男子が一人でこそこそカメラを向けるのは外聞的に褒められた話じゃないよ」
「ごめんごめん、撮り終わったらすぐに自然・応用科学研究部の部室に戻るつもりだったんだよ」
まさか誰かに見咎められるとは、なんてぼそりとつぶやく。私がそれにじっとりとした目線を向けると彼は「あはは」と困ったように笑って頬を掻いた。
何やら事情があるらしい。
彼の見ていた方向を追って私もグラウンドのほうへと視線を向ける。そこでは陸上部が隅に追いやられながらもラダーやミニハードルを使った練習をしていたり、サッカー部がグラウンドの半分を使ってボールを蹴りあってパスの基礎練習をしていたり、残りの半分で野球部がノック練習をしていたりした。奥のほうにあるテニスコートでは軟式テニス部と硬式テニス部が男女分かれて試合をしている姿も見える。
彼が何を撮影していたかはわからないがきっとこの光景の中にあるものなんだろう。
「立川さんは、どうして陸上部に入ろうと思ったの?」
何の前触れもなく三井くんは私に聞いた。
「脚が速くなりたかったから、かな」
そう望まれたから、という言葉は胸の中に隠してなんということはないように答える。三井くんはというと食べ物をよく噛まずに飲み込んだ人みたいな顔をして、
「妹もそう言ってた」
でも、それがよくわかんないんだよな、と続けた。
その一方で私は彼の話とは無関係の奇妙な納得に包まれていた。
妹。三井千里、三井浩一。どこかで聞いたような苗字だと思っていた。なんてことはない、私の直接の後輩がその苗字を持っていたのだ。てっきり同姓の他人かと。
よくよく見ていれば眉のあたりとか目元とかが似ている気もしなくもない。
「脚が速くなったって何かいいことがあるわけじゃない。遠くに移動したければ走るよりも自転車や車を使えばいいし、特に短距離選手なんてコンマ以下の秒数を小さくしていくのに命を燃やしてる。そんなのがなんの役に立つっていうんだ」
変に納得してしまっていた私を置いて彼は独白のようにそう続ける。
あいにく、私はその疑問に対する回答は持ち合わせていなかった。何のためになんて考えたこともなかった。それをしなければならない、そうあるべきだと考えるばかりでなんで速くならないといけないかなんて、一片も浮かばなかったのだ。
「別に人間のみんながみんな、ほかの誰かにとって意味のある生き方をする必要はないと思うけど」
「それはそう。でも、うちの妹を見れば見るほどそんなことをして何の意味があるんだって気持ちになる」
「妹って、千里ちゃんのことでしょ。あの子くらい強かったら家族は誇らしい気持ちになったりするものじゃないの?」
三井くんは少し考えこんで首を横に振る。
「もしかしたら僕がおかしいのかもしれないけど、家族が何か褒められるようなことしても自分が誇らしい気分になるわけじゃない。むしろ、苦しいんじゃないかって心配になる。僕が何も期待を背負ってないから余計にね」
「期待を背負ってないってそれはないんじゃない?」
「あるさ。今、うちの家はシングルファーザーなんだけど、僕は父さんの子じゃないから」
三井君はシニカルに笑うと私のほうを見る。馬鹿げた話さ、なんて自分に言い聞かせるように言って、
「うちの母親は父さんと婚約していたのに誰とも知れない男の種で子供を
「なんか、よくわからないけど……それって人に話していい類の話じゃないよね?」
「立川さん、そういうの
まあ、それはそうなのだが。いきなりこんな重たい話をこんなところでされると思ってなかったからびっくりだ。身内が無期懲役だとか、そんな話。
目をぱちくりとさせ黙っていると私が聞く態勢であると思ったのか彼はさらに続ける。
「話を戻すと、誰とも知れない男の種と母親の胎で生まれたのが僕ってわけ。そんなんだから父さんも僕にはどう触れていいのかわからないみたい。今は変な距離感で落ち着いてる。それに今は優秀な妹がいるから特に僕に対して期待をかけることはしないって方針に落ち着いたみたい」
そんなんだから、僕に期待も何もないの。そんな風に彼は言うけれど私なんて実母とのつながりもないのだ。期待している人なんていないのに私はどうしてこんな走ることに固執しているのか、少しだけわからなくなってしまっていた。
そんな私を取り残して三井くんはスマホで動画を起動する。そこには千里ちゃんのタイムをとる姿が映っている。彼女の走りはいつ見てもとても綺麗だった。
「それ、千里ちゃんを撮った動画はあの子にそのまま見せるの?」
「いや、動画を解析してフォームや着地のタイミングから無駄なエネルギーを使ってるところがないかとかをこっちであぶりだすんだよ。父さんが福祉工学の専門家だから実験用に大学の施設を借りて足の着地点を調べる実験とか千里の筋肉の構造を電磁波で調べる実験とかしてるんだよね。そのデータと併せて何か変化してるかとかタイムとかを見ながらどうやったら無駄なく速く走れるのかっていうのを父さんと僕で研究を、……って、ごめん、つまんないよね」
私がぽかんとするのを見ると彼はそういって片手で口を押えた。その姿は、表現が正しいか自信はないが、かわいいなと思えた。
彼は期待はされていないと言っていたが、きっと頼りにされているのだろう。どういう風に接したらいいのかはわからなかったが、同じものを考える人として対等に扱うことはできたということなのかもしれない。私にはそんな人誰もいないから強くそう思った。
「なんか三井君って女子の間で言われている以上に、なんというか変な人だね」
彼は魚が陸でのたうち回ってるのを見たときみたいな顔で私を見る。私はついついクスリと笑ってしまう。
男の子っぽく短く刈られた髪、高い鼻、キリリと切れ長の眉、対象に少し垂れた目。それらが全体的にシャープな印象を与えてくる。意識していなかったが意外と整った顔をしているのかもしれない。
「それは立川さんにだけは言われたくない。立川さんも十分に変だ」
「気が合うってこと?」
「もうそれでいいよ」
手をひらひらと振って左目をゆがめる。左眉が下がり、右眉が上がる様子はアメリカ映画の俳優のようですらあった。今までまともに顔を見たことなんてなかったから気づかなかったけど、三井くんって表情がすごい豊かだ。
「さっきの話だけど、」
「さっき?」
「私が何で走るかって話。私にそうして欲しいって願った人がいるみたいなの。わかんないけど、そう願われたんだったらそうなったほうがいいのかなって。全然、芽は出てくれないけど」
さっきとは一転して、心配げな顔をする三井くん。コロコロと変わる表情になんだか楽しくなってきて自然と口角が上がってしまう。こんな気分になったのはいつぶりだろうか。しばらくはない。もしかしたら、生まれて初めてなのかもしれない。
「走ることにずっと時間を費やしてきて、改めてなんでそうならないといけないのかって言われて、わかんなくなっちゃった」
「なるほどね。誰かにそう願われたっていうのはすごい重要なファクターかも。僕も父さんみたいな科学者じゃなくて政治の道を進みたいって思ったのはある人の言葉が大きいし。そう願われて、そうなりたいと思えたっていうんだったらそういう生き方もいいのかもね」
「三井くんはすごいね。いろんなことがわかるんだ」
私は私のこともあんまりわからないのに。そんな卑屈なことは言わない。彼にそんな後ろ暗いことはなぜか言いたくなかった。これはある種の憧れというやつなのかもしれない。
「そんなことないよ。自分の父親だってわからないんだ。……ああ、でも今度の時にでも、母さんに聞いてみるかな」
「それがいいよ」
私も、次の大会までに何で走るのかってこともうちょっと考えてみようかな。聞かれたことに結局自分で理由をつけることができなかったし。
もう少しだけ考えれば何かわかるかもしれない。
「颯美ィ! そろそろミーティングだよぉ!」
遠くから私を瑞樹が呼ぶ声がする。
大きな声で返事をして、手を振り親指を立てる。これで意思は通じるだろう。
「ごめん、呼ばれちゃったから」
「うん、いってらっしゃい。ごめんね、変なこと聞いたり、話したりして」
「いいよ。私、変な人好きだから」
そんなやりとりを交わして私は三井くんに背を向けてグラウンドへ走り出した。その足取りは、タイムのことを悩みながらやたらに走っていた時よりも少し軽かった。
◆
七月。雨が増えて練習がしづらくてイライラすることも多い朝。
朝会を終えて教室に戻ると、かつてより話す機会が増え、呼び捨てするようにすらなった彼、
「全国決まったんだ。おめでとう」
「ありがとう」
「うちの妹も全国決まったからついでと言ったら失礼かもしれないけど応援には行かせてもらうよ」
そう言って彼はよくわからない本を広げだす。その本には人の足跡が何種類もかかれていたり、人間の足を模した絵やよくわからない数式が書かれていた。
「走りながら考えてみたんだけど、私は走ることが好きだから走るんだよ」
一瞬、こちらを見て何を言ってるんだみたいに顔をゆがめてから納得したように口と眉間を緩める。満足したように本に目を向けながら
「好きだから?」
「そう。走ることは好きだし、私より足の速い人がいるってことが嫌だから、それだけ」
「そっか。
彼はそういってくすくす笑うと、
「私より速いやつがいるってことが気に食わねえ、ってすごいかっこいい理由だね」
「うるさい! からかうな」
「そんなことより、今日の一限目、当たってるけどちゃんとやってきた?」
「もちろん」
机の上にノートをめくって数学の課題を探す。ページを繰り返し行ったり来たりする間に、頭を横からトスっとたたかれる。
首を向けると目の高さに細い線が見える。
「相変わらずだね」
「ありがと」
彯婀。
風のように速く駆け抜けて、女らしく美しくある。そんな人間であれるかなんてわからない。でも、少しでも自分がそのように願われて生まれたなら、そう近づきたい。
走ることは、だんだん目標に近づいている。次は、女らしく美しくあることを目指すべきだ。
そう考えかけてクスリと笑う。多くの人に好かれる人はないのかもしれないと気づいたからだ。女らしく、美しく、そう思ってくれる人が一人いてくれればそれでいいのかもしれない、と。そう思えたから。
「颯美、急がないと先生くるぞ?」
まだ、何も終わっていない。やるべきことは何一つとして終わらせられていない。だから、この秘めた気持ちを誰かに伝えるとするならば、私の行くべき道を走り終えた後に。
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