彯婀

深恵 遊子

 走る、走る、走る。

 息を止めて大地を何度も何度も蹴っていく。朝露で湿りを帯びたグラウンドの土はいつもの乾いた状態よりも踏ん張りが効いている。蹴るたび体が加速していくのを風に流れる髪で感じられた。


「十二秒……〇三ぜろさん!」


 私のタイムをとっていた一年生のマネージャーが声を上げる。本調子ではないとはいえ距離にしてたった一〇〇メートルを走っただけだというのに倒れこんでしまいそうな自分を抑え、肩で息をしながらとぼとぼ前へと足を動かす。

 また、ダメだった。そんな思いが胸に滲んでいる。

 どうしても十二秒の壁が越えられない。今だって前の記録会よりコンマイチゼロもタイムが落ちてしまった。朝で本調子じゃないとはいえ少しも成長していないどころか前より悪くなっているのは頂けない。


颯美はやみ、お疲れさん」


 ばさり、といきなり肩にタオルが乱暴にかけられて、顔を上げるとそこには女子陸上部キャプテンの篠原瑞樹しのはら みずきが立っていた。


「やっぱ、速いね。何食ったらそんなに速くなるのさ」

「速くないよ。短距離専門だったら十二秒は切れないと遅い部類なんだから」

「そうなの? 私、長距離しか知らないからなぁ」


 十二秒とかめちゃくちゃ速いと思ってたんだけど、なんて瑞樹は言う。でも、こんな記録では県代表にすら選ばれない。

 じゅういちとコンマにななびょう。言葉にしてもなんて遠い壁なんだろう。十一秒の世界に入れても日本という世界で見たらもっともっと速い世界があるんだ。そう知ってるだけに自分の現状が悲惨に感じてしまう。もっと速くならないと。


「でも、颯美は髪切ったら絶対速くなるよね」


 汗で蒸れて重さを増した私の髪を瑞樹が指でなぞる。それは根元で縛ってなお腰まで伸びていて、髪を下ろすと太ももの付け根までになる長さだ。

 そんなだからたまにコーチや友達に度々そう言われる。その髪さえ切れば颯美はもっと速くなるのに、と。

 それにたいして私はいつも曖昧に笑った。私にとって、速くあることも長い髪をなびかせることも大きな意味を持つことだったから。

 当たり前だ。私は速く、美しい女であれ、そう願われ造られた人間なのだから。

 そもそも私は立川颯美たちかわ はやみという名前を名乗っているけれど、それは戸籍に乗せられた本当の名前ではない。戸籍には立川彯婀たちかわ へうあなんて小難しい名前が書かれてる。立川という苗字は書類上は私の両親となってくれている立川夫妻両人のものだ。

 遠回しな言い方をしたが要するに彼らと私は遺伝的な繋がりは全く存在せず、本当の家族ではないのだ。だから、というわけではないが私には立川という苗字を借り物にすぎないと感じている節がある。家族も姓も持たず他に何も持って生まれられなかったのだから私が生まれた時に持っていたのは彯婀へうあなんていうヘンテコな名前だけなのだろう、と。そして、こうも思っている。ならば、その名前に刻まれた願いを体現するのが私にとって一番正しいことのはずだと。

 私が自分の名前の意味に従いたいと思うのには理由がある。というのも立川のおじさん達が私を引き取らなかったら私にヒトの親なんてもの存在したことがないからだ。

 こんなことを誰かに言っても何でそれが理由になるのだ、生みの親御さんに失礼だろうなどと非難されてしまうかもしれない。でも、これは比喩でもなんでもなく、私は人間から生ま・・・・・・れてこなかった・・・・・・・という事実でしかないから。

 私はとある大学の研究室で生まれたらしい。その研究室は生命科学を専門としていて秘密裏に人工子宮ひいてはクローン人間の作成、量産についても研究をしていたらしい。ヒト科の動物のゲノムを解析し、ゼロからひとつの生命を作り上げる悪魔のような研究。そこには何度も失敗があった。父からは私には本来千人という人数はくだらないほどの兄姉がいるのだと聞いている。

 実際、研究室には参考資料としてゲノム操作で創り出した未熟児と目される幾つものの遺体が保管されており、それを偶然見つけた初老の清掃員が恐慌しながら通報したほどの惨状だったとか。おかげさまで私を創り出した母とでもいうべき人は幾多の命を踏みにじりながら私を生み出したというその罪を世間から糾弾され、今も高い塀の内側の中から出られないでいる。

 その人が、私にこの名前をつけたんだと聞いている。

 彯は風が吹き抜ける様子を表し、婀は女性らしい美しさなんてものを表してるのだと知ったのは小学校の道徳の授業。颯美という名前の元となった彯婀の名前はそれ以来、私を縛ってしまった。

 こんな風に名付けられているのだから、私はきっとそういう風に遺伝子操作デザインされている。何よりも速くこの体を動かし、誰よりも美しくなるように。

 だから、私は走り続けるのだ。速く疾く在る様に。そして、私をより女らしくより美しく変えていくのだ。それこそが私の使命なのだ。


「…………やみ! 聞いてる?」


 ぼんやりとした意識の外側から私を呼ぶ声が聞こえる。ハッとして見回すと心配する様な表情の瑞樹が私を見ていた。


「朝練、そろそろ終わる、って言ったのにまだ着替えてないじゃん。クラスルーム始まるってば」

「ごめん、ぼんやりしてた。すぐ着替えるね」

「はいはい、三分でね。待っとくから」


 部室にいそいそと向かい、私のロッカーを開けて素早くユニフォームを脱ぐ。そして、横目でチラリと鏡を見た。

 強気な眉目にすらりとした首、華奢な肩、スレンダーの体躯、くびれた胴の先には筋肉がついて太くなった脚がある。……女らしいとは少し遠いからだかもしれない。スポーツブラの着脱が容易い胸に手を置いて思わず溜息をつく。

 速さを求める度に女性らしさは遠のいて、女性らしさを求めれば今度は足が衰えてしまう。なんて矛盾した望みなのだろう。そんな望みを託すなら、女性らしさを求めても速さが損なわれないように設計したらよかったのに。

 そういえば、と隣のロッカーに目を向ける。そこには三井みついの二文字が並んでいた。

 三井千里みつい ちさと。一個下の後輩で私と同じ短距離選手スプリンター。県の国体強化選手に選ばれているほどの強豪で、この前も県のベストタイムを更新していた。それでいてずるいのはその愛らしい顔立ちと小柄な体躯、ちょっと天然の入った性格だ。彼女を嫌える人はほとんどいないし、男女問わず好かれてる。練習中でも男子がわざわざ呼び出して告白しようとするほどに人気があるみたいだ。もっとも、彼女はそれに興味がなさそうだけど。

 選手としての彼女は素直に尊敬できる子だ。毎日フォームの確認は入念にしているし、食事制限や専門のトレーナーに相談してのトレーニングなどストイックに競技と向き合っている。男子からの人気をうらやましいとは思ったことはないが、きっと彼女のほうが魅力的な女性なのだろうなと何とはなしに思っている。あと、前に聞いたら千里ちゃんのほうがカップが大きかったからちょっとだけ、ちょっぴりだけども、まあ、へこんだ。

 ため息をついても変わらない事実を後目しりめに私は制服を身に着ける。今時になってまだこんな習慣を残してるなんて変な学校だ。制服なんて着ていても何の役にもたちやしないのに。

 ここより偏差値の高い公立の高校では今や私服での登校が普通になっているんだとか。例えば、県下一の偏差値である緋桜ひざくら高校の友達は化粧を軽く施し、ふわふわとした服でなんだかとても女の子らしい恰好だった。高校受験に失敗していなければ彼女らのように女の子らしくあれたのだろうか。

 思わず、また一つため息。と、気の抜けた瞬間だった。

 ガタン、と大きな音。


「――おっそいよ! 颯美は何分待たせるのさ!」


 音を立てて部室の扉は開いて瑞樹が中に入ってくる。そんなに考え込んだつもりはなかったけれどだいぶ待たせてしまっていたらしい。

 ごめんごめん、と口にしながら汗だらけのユニフォームをロッカーに投げ込み、ばたりと閉める。グラウンドにある時計はあと三分でホームルームが始まることを告げていた。これはいけない。

 二人で正門へと駆け出して何とか担任が来る前に自分の席に着席するのであった。


 ◆


 六限の古典が終わり、次の数学のためカバンを漁る。文系の中でもできないほうに位置するためか私のクラスでは既に就寝の準備をしている同級生も多い。

 理系でもないのにまだ数学とサヨナラできないのはエセ進学校のさがといったところだろうか。センターまでは何としてでも理系の科目もやらせたいらしい。私文しぶん狙いの子も多いんだから、とっとと文系科目だけに絞らせてくれればいいのに。

 そんなことを思っているとちょいちょいと私を後ろから誰かがつついてくる。後ろの席は確か、三年で文転ぶんてんしてきた理系の男子だったか。オタクっぽいって女子には評判だ。振り向くと、案の定思い出していたその彼で。私は記憶の片隅にある彼の名前は未だに引き出せずにいた。


「立川さん、次の授業の問題当たってたと思うけど」

「へ?」


 参加する意欲なんてとっくの昔に失っていたので忘れていたけれど、そういえばこの授業ってそんなシステムもあったね。授業の終わりに課題を出して、いくつかの問題を出席番号順で当てていき次の授業で解いてきた内容を黒板へ書かせる。これがまた生徒から大変に不評で。

 そもそも黒板にチョークなんていうのが古臭すぎて生徒からはブーイングが出てるっていうのに、それを生徒にもやらせるって。中学校ですら黒板からスクリーンに切り替わった時代にホント何を望んでいるんだか。

 課題をやっていると思わしきノートをパラパラめくってみてもそれらしき問題が見当たらない。あちゃあ、もしややり忘れてたか。

 頬杖をついて教科書をパラパラ開いていく。課題になった場所に印がついているが、


「ちょっと、これを残りの休憩時間は厳しくないかなぁ」


 から笑いをしながら、頭をひねる。

 どうせこのクラスのことだ、自分の当たっていないところの数学なんてやっているわけあるまい。


「――ふむ」


 軽く、詰んでいる。設楽したら先生は課題を忘れるとうざいことで有名だし、みんなの睡眠時間を叱られる時間に変えてしまいそうだ。

 心の中でこっそりみんなに詫びて、これから起きることを諦める。そして、心を決めて自分の席に座りなおす。すると、またちょんちょんと後ろからつつかれる。

 またなの? と思い軽く振り向くと、顔の横に何かがあった。後ろの彼が差し出しているノートだ。


「やってきてないなら、これ見ていいから」


 それだけ言って私がノートを受け取ったのを確認すると、彼は机の上に広げた細かい字がびっしり書かれた本を捲るのだった。ホント、オタクっぽいんだね、三井って。

 ノートをパラパラとめくると思ったよりも整った字で数式やら記号やら、あるいは証明やらが書き連ねられていた。左手でサンキュと手のひらを見せ黒板へと向かう。ノートの表紙をちらりと見ると、達筆な字で三井充みつい あたると書かれていた。そんな名前だったんだ、とちょっと感動する。二か月近く同じクラスにいたのに名前なんて知らないときは知らないものだ。

 黒板に三井くんの解答をうつして、少し行儀が悪いが背もたれに向かってまたがるように座る。

 三井くんは相も変わらずぺらり、ぺらりとページをめくっている。


「ありがと、助かった」

「別に。困ってたみたいだし、授業が進まないのも困るから」


 顔色一つ変えず、本から目すら離さず。短く刈り揃えられたスポーティな髪の毛とは裏腹に色白で男子にしては細い腕が何度も何度も行き来する。

 そんなに夢中になれるものだろうか、本って。

 生憎、と言っていいのか。私はそんなの読む習慣なんてなかったからどこがいいのかわからない。


「ねえ、三井くん。それ面白いの?」

「いや、面白いわけじゃないよ」


 その返答を不思議に思って覗き込んでみれば、わけのわかんない丸っこい図とぐしゃぐしゃとした数学の式みたいなのがたくさん並んでいた。文字ばっかりの中に数学みたいなことが書かれているこれを休み時間にも読んでいる三井くんは相当に変だ。


「面白くないのに自分の時間で読むの?」

「趣味みたいなものだから。立川さんが走るのと似たようなものだと思うよ」

「いや、走ることってそんなきついことだとは思わないけど。やっぱり、三井くんって変なの」


 楽しくないことが趣味なんて、ホントに変な人だ。私ならあの本を見ているだけで寝てしまう。

 それにしても運動部でグラウンドを使ってるってわけでもなければ、ずっと同じクラスってわけでもないのによく私の部活を知っていたね。三井くんって意外とクラスの様子を見ているのだろうか。

 前向きに座り直し教科書を開く。するとカラカラ音が鳴って設楽先生が入ってきて、チャイムが音色を刻む。

 授業が始まり、後ろからはあいも変わらずページのめくられる音が聞こえていた。


 ◆


 走る、走る、走る。

 一歩ごとの進む距離は長く、一歩一歩を踏み出す時間の間隔は短く。いわゆる徒競走と呼ばれる競技に求められる技術は単純に言えばその二つだ。だから、選手たちは関節を伸ばして可動域を増やし、足を動かすという行動の反復練習をすることで筋肉を鍛える。足の筋肉を鍛えるときにはおもりなどをつけて加重してのトレーニングや坂道を全速力で走るなどのヒルトレーニングは欠かせない。足の長さが身長のわりにあまりない私は一歩一歩を踏み出すスピードを上げていくほかに選択肢はなかった。

 遠くで千里ちゃんが走っているのが見えた。彼女の小柄の体型のわりにすらりと長い脚をしている。モデルをやっているといわれても、実は欧州とのハーフだといわれても違和感がないほどだ。

 正直、走るために、愛されるために生まれてきたような彼女が妬ましい。そういう風に作られているはずの私は一向に速くなれず、女性らしい美しさなんて言うものも手に入れられない。私には、彼女はまぶしすぎる。

 クールダウンがてらグラウンドの隅を歩いていると、校舎の影ができているあたりで誰かがスマートフォンをグラウンドに向けているのが見えた。制服を着ているから運動部ではないらしい。広がった陰ではないあたり男子生徒といったところだろうか。

 すわ、盗撮か?

 そんな考えが脳裏に浮かび、眉間にしわを寄せてしまう。そうしてみていると、

 ふと、目が合った。

 影しか見えないが何とはなしにそう思った。小さな影はこちらに手を小さく振ってグラウンドに向き直った。余計に頭が混乱する。

 男子のほうの陸上部の誰かとかだろうか。それとももっと別の、

 体をクールダウンさせるために歩いていた脚はいつの間にか校舎に向かい、その彼に近づいていく。逆光は消え、校舎の影に入り今までの施行は間違っていたことが分かった。

 近づいた私に真顔で片手をあげるのは、同じクラスの三井・・くんだった。

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