第3話
空を仰げばお天道様と眼があって、手を伸ばせば花びらはわっちの掌の中。
金剛石の鳥籠に別れを告げたあの夏を、わっちは枕の上で思い出しんした。
時は大江戸、加賀国。花の都を抜け出して、移り住みたる金の土地。海に向かった桜並木、わっちと同じ名前の樹の下に、その茶屋はありんした。
わっちたちがこの国に移り住んでから、もう正月を二回も迎えていんした。今じゃすっかり田舎娘も板につき、椿の花は枯れんした。
「桜ちゃーん!お久しぶり!お茶と団子おくれ!」
「はいはい。そんな急がなくても、わっちもお茶も逃げんせんよ、平介さん」
無一文だったわっちたちを拾ってくれたのが、この茶屋の主、桃花ばあさまでありんした。
床に伏したばあさまの代わりに、今はわっちがこの店を切り盛りしていんす。
兄様とくれば、あの身体じゃ力仕事もできんせん。おまけに店に顔を出せば、わっちのことを心配して言いよるお客さんに冷たい眼を飛ばす始末。
元来起用であった兄様は、絵を描いては街へ売りに行っていんした。
日が傾けば、わっちは一人の若娘。紅を引くことも、香を焚くこともしんせん。腹を空かして帰ってくる兄のため、魚と風呂に火をくべんした。
「おーい、帰ったぞー!ん?なんでい、今日はやけに豪勢じゃねぇか」
「忘れたんでありんすか?明日は町のお祭りでありんすよ。人が増えんしょうから、力をこしらえなければなりんせん」
「そういやそうだったな。いやぁ、聡い妹を持つと箸がすすむぜ。桜、お前さん城の飯炊きになれるんじゃねぇか」
「戯れを、兄様。この海と桜がわっちの世界でありんす。春はお酒に桜を浮かべ、冬は囲炉裏に銀の道。それ以上はいりんせん」
吉原と違い、この町は夜が来んす。好きな星を拝んで、それを結んで絵を描くのが何よりの娯楽。
幾人もの遊女が夢に見た、自由に空を泳ぐ鳥。比翼なわっちたちは、やっとそれを手に入れんした。
今更どうして、せっかく会えた兄と離れんしょう。
「ん?そこの紙の束はなんでい?字が書けるやつなんざ、この辺じゃ少ないだろ?」
「……恋文でありんす。今日は城下町から五人のお方が。それと、乾物屋の平介さんに、漬物屋の有吉さん、魚売りのおじさんも」
「はぁ……。さすが、オイラの妹だ。けど見ろ、今日はオイラの勝ちだ」
兄様はそう言って、藤の一張羅から淡い桃色の文をいくつも出しんした。
西洋由来の乳香が漂うその文を、兄様は口を上げわっちに見せつけておりんした。
「オイラは字が読めねぇからよ。これをもらってもどうしようもねぇ。絵でも添えて明日もってってやろうと思うんだが……ちょいと頼みたいことがあってな」
「はいはい。どうせまた、わっちを断るダシに使うでありんしょう?明日お祭りに行くついでなら、仕方なく手伝ってあげんす」
「人気者はつらいぜ。町へ上りゃあどこぞの娘らが、店番ほっぽり出して来ちまう。おかげで茶ぁしばくには困らねぇがな」
「ほいじゃ人気絵師様、当座の売り上げをいただけんしょうか?十枚も持っていけば、この秋くらいは超えられんしょう?」
「それが思ったより画廊のやつがケチな野郎でな、こんだけだ」
兄様は銭を財布にも入れず、じゃらじゃら袖から出しんした。わっちの勘定の半ばほどでありんしたが、世の回りを知らないわっちたちからすれば仕方のないこと。
風呂に向かった兄様を見送って、わっちは食器を水に浸けんした。こうして女中の真似事をするのも、なかなか胸が踊る次第。
脱ぎ捨てられた藤色の一張羅を拾い上げ、型木にそっとかけんした。
「……白梅香……?」
その香りは、いつかの楼店に覚えがありんした。
お日様のような眩しい笑顔。いつまで経っても廓言葉を覚えない、けれども惹かれる減らず口。
「なんで兄様が日暮と同じ香水を使っているか知りんせんけど、やはり、これは落ち着くでありんすね……」
わっちも明日、香袋を買ってきんしょうか。兄様が風呂の火を炊けと騒ぐまで、わっちは昔を懐かしみんした。
その日は、やけに夜空で星が騒いでいんした。すっかり散った桜の木も、こうして空を仰ぐ分には不便じゃありんせん。
「……兄様は、どこかの娘方と逢瀬をなさらないでありんすね。契りを結び、子の顔を見せい人もおりんしょう?」
お客のいない縁側で、わっちたちはお茶をすすっていんした。登る灯りは月一つ。はっきり見えない顔が、今はかえって都合がよござんした。
「そりゃオイラにも好みってもんがあるからよ。なかなかいい出会いってのは巡ってこねぇのさ。嫁にしたいやつなんざ、今生で一人いりゃいいのさ」
「そうざんすか……。わっちとしては、兄様に早く色の気が出ることを祈っていんすよ」
「なんでい?今日はやけにせっつくな。……まさかお前さん、もう腹に誰かの子が……!?」
わっちが茶碗を振り上げると、兄様は急いで手を合わせるふりをしんした。
枕の上でも、梢の夜凪でも、わっちの心は不安になりんした。わっちがいることが、兄様の恋慕の妨げになっているんじゃないかと。
「どこぞにいるとも知れねぇ相手と赤い糸探すよか、ここで藤の仕立てしてくれる妹一人がいりゃ十分なのさ。オイラには」
日が昇るまで、わっちはずっと、波の音を聞いていんした。
祭囃子に華太鼓、法螺貝が海の嘶きを告げながら、街は灯りにつつまれておりんした。
今宵は年に一度の大祭り。城下の御人も、山の向こうの大名様も、外様一の喧騒を味わおうと、馬を走らせ笑噺に溶けてゆく。
前の年はばあさまの看病でいけんせんでしたわっちは、生まれて初めて吉原の夜より明るい夜を見ておりんした。
「ほらな、早めに店閉めてきて良かったろ?オイラも一度来て見たくてな。噂にゃ聞いてたが、コイツは華があるぜ」
「兄様のことも、たまには信じてみるもんでありんすね」
「うるせぇやい。桜団子買ってやんねぇぞ?」
「今夜財布を握っているのはわっちでありんすよ?兄様が賭けで負けたこと、わっちはしかと覚えておりんすよ」
「ぬぐっ……!お前さん、随分とオイラを甘く見てやがるな……!」
なにかと付けては構ってほしがりの兄様を人混みにおき、わっちは一人で屋台を回りんした。
わっちが少し結った髪を上げれば、店の主人は団子を二串も多くくれんした。笑顔を作れば味噌が増え、去り際手を振れば煎餅がもう一枚。
そろそろ兄様を探しに行こうと腰を上げれば、向こうから藤色の一張羅が下駄を鳴らして近づいて来んした。
「おう、桜。随分と腹も膨れたし、そろそろ帰るかい?」
その兄様の姿に、わっちは唇を噛みんした。
「……帰るのは、その姐さん方と一緒でありんすか?」
兄様の周りには、幾人もの可憐な乙女がおりんした。みな幾十両もの着物を羽織り紅を引き、白い肌を兄様にぴったりくっつけておりんした。
兄様はちゃんと断ったんでありんしょう。それでもいいと、あの姐様方は往来を恥じもなくああしておりんしょう。
ですがわっちは、どこか頭の中に火種が起こってしまいんした。
「この子が藤介の妹さん?えらいべっぴんさんじゃねぇ」
「うちも桜ちゃんと同じくらいええ肌しとれば、藤介も振り向いたんじゃけどねぇ」
「触ってもええ?冷んやりして気持ちえぇわぁ」
わっちも昔は客商売。話を合わせて兄様の評判をあげりゃ、絵ももっとよく売れんしたでしょう。ですが、その姐様方からは、伽羅の香りが漂っておりんした。
気づけばわっちは、手提げ袋を兄様に投げつけておりんした。
「おいっ!どこ行くんでい!待ってくれ桜!」
それからは、夜の導くままに右へ左へ、帳を駆けんした。
脚が動きを止めたとき、わっちはようやく自分が迷い子になったことに気づきんした。見慣れぬ家に薄灯り。
じっとり濡れた着物を崩して、月の方角へ足を向けんした。そうして、一歩を踏んだ時でありんした。
「あらっ」
土ぼこりが上がる音と、何かが足元に転がって来た感覚にわっちは戸惑いんした。
「あら?かぼすが一個足りん。困ったわね……」
「これでありんすか?」
その人は、背の高い女の人でありんした。ですが、どこか足元がおぼついておりんせん。
何かに捕まろうと彼女が伸ばす手を、わっちはゆっくり握りんした。
「ありがとうね。それじゃ、ここら辺暗いから、気をつけなさいよ」
手を振った姐様は、三度足を動かし柱にぶつかりんした。
今度はそれに捕まって、ゆっくり家から家を伝っていんした。
「手伝いんしょうか?」
「ええの?わたし、ちょっと目が悪くてね。助かるわ」
「昔はそういう人もお相手にしておりんしたから、慣れておりんすよ。その代わり、道を教えてもらいたいでありんすけど……」
か細い声なわっちに、姐様は笑い出しんした。
姐様の住む長屋は、そこからすぐの細い裏道にありんした。わっちが名乗ると、姐さんも牡丹と名乗りんした。
灯りの元で見た牡丹さんは、どこか懐かしい顔をしておりんした。わっちより二つ上の彼女は、生きていれば日暮にそっくりでありんしたでしょう。
言葉遣いが優雅な分、日暮より女らしさも兼ねておりんすし。
「それで、兄様と喧嘩してしまったと。なるほどね」
「わっちは、ずっと兄様に感謝しておりんした。身を捧げても返せない恩を、わっちは貰っておりんす。それなのに……」
歯をくいしばるわっちに、牡丹さんは笑顔を向けんした。
「あんたそりゃ、嫉妬だよ。兄様を他の女に取られて、ちょいとばかし妬いちゃったのさ」
「嫉妬……?わっちが?そんなことは」
涙で情けを引き、嘘を吐いて殿方を溺れさせる。主様が他の遊女と戯れようと、わっちは一度として嫉んだことはありんせん。
牡丹さんは少し目を細めると、裏の箪笥を開け、白濁の液体を取り出しんした。
「これあげるよ。わたしを送ってくれたお礼。うち、香屋だからさ、自分で作ったやつだけど。落ち着くいい香りだし、最近は殿方も香水をつけるから、お詫びとして渡せばきっと仲も治るさ」
「ありがとうござりんす。今度、うちの茶屋で団子でもご馳走しんす」
ありがとうね。そう笑った牡丹さんのお天道様の笑顔は、本当に、日暮に似ていんした。あの髪も、香りも、日向の笑顔ももう無いのに。
牡丹さんの家は、一人にしてはやけに物が揃っていんした。城下に女の一人暮らし、とうてい揃えられる家財じゃありんせん。
わっちは少しばかり、彼女の目に泥が溜まっているのに気づきんした。
一度人里から離れ、人では無いものを相手に、人ならざる者になってしまった荊の姫。わっちと同じ影を、牡丹さんは持っておりんした。
「……桜ちゃんだっけ?言葉遣いでわかるよ。吉原の人でしょ?」
吉原は喉に絡む納豆のようなもの。ましてやわっちは元突出し禿。
花魁がわっちのような小娘の星を見るとは思えんせんが、この暮らしから足を外れるかもしれないなら、答えるは偽りが吉。
「私もね、小さい頃少しだけ遊郭にいたのよ。まぁ、京の方の、小さな所だけどね」
障子から洩れる月明かりが、星の姫を照らしんす。日暮が香るのは容姿だけで、雰囲気は全く別でありんした。
お天道様よりは、それを受けて輝く月。日暮よりも、わっちのような。
「目の見えない娘は大名様から裾を引かれてね。何しても顔覚えられないから、向こうからすりゃ都合がいい。
私は自分の顔見たことないんだけど、どう?そんなに耽美かな?」
これはまた、日暮のようなことを……。
「そうでありんすね。あんた様のそのお顔は、わっちに負けじと劣らずでありんすよ」
「それは……、わかんないよー。触らせて?そうすれば少しは分かるから。ついでに身体も……」
「なっ!?何をしているでありんすか??その手つきをやめなんし!」
わっちより少し冷えた肌の牡丹さんの手が、這うように身体中を蝕んでいきんした。
その髪から漂う白梅香で、わっちは星を見んした。
「あんた、こりゃだいぶべっぴんさんじゃないかい。鼻立ちもよし。輪郭、唇のハリ、そして肌の柔らかさ。こりゃむしろ、あんたの兄様の周りの女子が不憫だよ」
指が全身を這う覚えが、わっちを身震いさせんした。
それから月が真上に昇るまで、わっちたちは昔の話をしんした。母に聞かされた御伽噺のように、二人の物語はとても脚が浮くようでありんした。
それは昔々、一人の遊女が、一人のヤクザ者と出会ったお話。血の繋がらない妹を探していたヤクザ者は、遊女と足抜けを企みんした。
数えられぬ犠牲の果てに、比翼の鳥は空を飛びんした。兄は右腕を、遊女は鳥籠の中の栄光と、代えられぬ友を失って。
それは、もっと昔のお話。目の見えぬ田舎の楼店で、同じく遊女が一人の男と出会ったお話。
姿も知らない女を探している男は、日ノ本の遊郭を回っては、身体も重ねず飯と酒を喰らうだけだったそうな。
まだ十五と語った男は、最後まで名を名乗らなかったとか。
光のない遊女のため、男は光になることを空に告げんした。
たった一人で古き都の闇を敵に回した男は、女と二人、山を越えては川の果て、地の続く限り旅をしんした。
そうして女は、香りの術を身につけんした。男から金をもらい、女は店を起こしんした。男は人を探すため、女を置いてまたどこかへ去りんした。
女は今も、男の好いた香り袋を作り続け、いつか障子が開かれる日を待っていんした。
目の見えない女でありんしたが、その男といる時だけは、たった一つだけの色が見えたそうでありんす。
どこまでも、天までも伸びるような、金色が。
「わっちたち、物書きになれんしょうか」
「あら、女の物書きなんて素敵じゃない。ずっと昔にはいたそうよ。はかない恋の物語ってのも、なかなか筆が進みそうね。あんた、字は書けるんでしょ?お客さんがいない時、ちょっと綴ってみてよ。私読むから」
二人してほおを崩せば、もうそこに疑いだなんだの入る隙間なんかありんせん。
雲が流れ、晴れ間が出るように、わっちたちは裾を上げんした。
時は芒も眠る丑三つ時。わっちと牡丹さんは、枕を並べていんした。
「私の今生でもね、二度も私を助けてくれた殿方がいるってだけで十分さ」
「二度も、でありんすか?」
「そうさね。近ごろ来るお客が、ちょいと素敵なお方でさ。女手一つで香屋なんて営んでても、あんまり身入りが良くなくてね。それでそろそろ店を畳もうかって考えてた時に、やけに声の大きな殿方が戸を叩きなさったのさ。
たくさんの香水を買ってくれたまでは良いんだけど、その人がどうもお金を多く置いて行くもんでね。三度目にきたときに、お釣りだって言って返したら、『お前さんに要るもんだ。拙者はこれくらいしか出来ないから、これで美味い飯でも着物でも買うでこざるでい』なんて言ってたんだ」
「そりゃまた、随分と地方のお侍さんでありんすね」
「無理して言葉使ってるのが可笑しくてね。来るたんび、長いこと話し相手になってもらったもんさ。
お金は大丈夫なんですか?って聞いたら、『前の時は同じ家のやつに怒られて、晩飯がたくあんだけになりやがったでござる』とか」
牡丹さんは、笑うと本当に美しい人でありんした。
わっちは兄の話を、牡丹さんは遊郭時代に自分を引き取ってくれた人と、最近来るかぶき者の客のことを。
日が昇り、雀が囀るまで、わっちたちは女同士の話に花を咲かせておりんした。
「お前さん、祭りの夜どこに行ってたんでい?」
「だから、何度も言っておりんしょう?祭りで出会ったお友達の家に泊めてもらったでありんす。兄様はさぞ、あの姐様方とお楽しみでしたでありんしょうし」
「お前……まさか男か?兄様に紹介しろよい。オイラが見極めてやる」
心配性なのは、もういっそ鐘で頭でも突けば治りんしょうか。
牡丹さんと出会ってからはや十日と少し。わっちは街に出たときに、会いに行くようになっておりんした。
元遊女の仲間と言うのに加え、わっちはきっと、あの顔に惹かれておりんした。牡丹様の笑顔が、日暮に思えて。
その日も、わっちは晩ご飯の共を買いに草履を履いておりんした。
「町へ行くのかい?気ィつけろよ?最近、芒火が増えてるって話だからな。なにかあったらオイラに知らせろよ?矢よりも早く飛んで行くぜ」
左手でどんと胸を叩く兄様が、本当にいつもお天道様が二つあるように見えんした。
「頼りにしていんすよ、兄様。それじゃ裏の戸はきちんと閉めて、お客さんが来たら笑顔で迎えるでありんすよ?女の子でも、団子のおまけは一つまででありんすよ?」
「わかってらい。最近体が鈍ってるからな、出来れば呼んでほしいぜ」
不穏なことを。この兄様は。
散ってしまった桜の花も、実りをつけりゃ立派な母の木。いつかわっちも、この道を誰かと三人で歩く日が来んしょうか。
祭りの名残りを惜しみつつ、それでも町は活気に包まれておりんした。表を駆けるハナタレ小僧も、それを追いかける麗な女子も、瞳に星を宿していんした。
わっちの瞳にも、少しづつでありんすが、星が芽生えていんしょうか。
それは、四日に一度の魚を買った時でありんした。
町中を駆け巡るような大きな声で、指物屋の唔兵さんが走って来んした。火事だ火事だと嘶く方を見れば、天へ向かって黒煙が上がっていんした。
兄様の言葉が頭をよぎり、少し帯をきつく握りんした。久方ぶりに、わっちは自分の生まれた星を思い出しんした。
それは、牡丹さんの住む長屋の方から上がっていんした。わっちは魚屋さんに荷物を押し付け、急いで駆けつけんした。
わっちが着いた時には、もう火が踊り狂い、不気味な顔をしながら家を飲み込み続けていんした。
「火消し番のやつらまだかよ!」「だめだ!他にも三手火が上がってやがる!しばらくは来れないぞ!」
ぱちぱちと木が墨を吐き、藁が陽に向かって縮こまる。吉原とは違う、焔の地獄がありんした。
「おい!一人足りねぇぞ!香屋の牡丹だ!」「アイツ、この火で入口がどこかわかんねぇんだ!」
わっちの身体は、勝手に動いていんした。
着物を脱いで甕に浸け、どっしり濡れたそれを身に巻いて、全力で炎の壁を突き抜けんした。
立っているだけで身体が焼け焦げそうな灼熱の中、わっちは叫びんした。
「牡丹さん!ここにおりんしょう!!お返事を!」
纏わりつく火を目の端に、わっちは耳を尖らせんした。こんな時でも、わっちの鼻は、白梅香を嗅ぎ分けんした。
牡丹さんの部屋だったところは、特に火の回りが一層ひどく、新しく買った家具も何も、紅蓮の中に包まれておりんした。
そんな中、肝心の牡丹さんは、部屋の隅で猫のように縮こまっておりんした。
「牡丹さん!わっちに捕まるでありんす!逃げんしょう!」
いつ何時も、逃げる者は腰がすくむ。その事をっちは痛いほど知っていんす。だから、無理やり手を引っ張って、わっちは牡丹さんの腰を浮かせんした。
二人の遊女が揃えば、穢れの呪いも倍になりんしょうか。水の衣が熱を帯びると同時に、天井の柱が一本耳を裂くように落ちんした。
「……っ!出口が……!」
四方を火に塞がれたわっちたちができるのは、ただ祈る事のみ。二人抱き合って、ただ天に願いを請いんした。
どうか、牡丹さんだけでも。わっちと違って、ようやく人の恋に生きられる彼女に、ただ一度の救いを。
目を閉じ、暗闇の中、わっちの口は、勝手に走っておりんした。
「…………兄様…………!!」
その時、天囲いの梁が、わっちたちの真上で音を立てんした。
「寝てろ桜ぁぁぁぁーーーーっ!!」
そのお方は、戸ではなく燃えた木を叩いて、優しい瞳でなく、黄金の腕を振りかざしーーーー。
除夜の鐘でも打ったかの音が、わっちの耳を劈きんした。
目を開けると、そこには藤色の一張羅を着た、お天道様のようなお人が立っておりんした。
「まだまだ『金の腕』は錆びちゃいねぇな。安心したぜ」
わっちを左手に、牡丹さんを背中にしょって、兄様は壁を蹴り破りんした。
カラスが鳴く赤い路を、わっちと兄様、牡丹さんは歩いておりんした。火が消し止められたのはつい半刻前。炭になったあの家では、桐箪笥の一つも買えやしんでしょう。
加賀国を騒がせた芒火犯は兄様と火付盗賊改に捕らえられたものの、お伽話のようにめでたしとは締められやしんせん。
「……さて、明日からどうしようかねー。もう一度どこかの香屋に世話になろうかね」
火傷をした手をさすりながら、牡丹さんはわっちの手をしっかり握っていんした。
わっちが負ったのは軽い擦り傷と喉が枯れた程度。一番の驚きは、材木を殴り飛ばしても薄皮が向ける程度の兄様の拳でありんすけど。
伸びる影を見つめ、わっちは足を止めんした。
「兄様、先の夜は、わっちの嫉妬で憤ってしまい、申し訳ありんせん。明日日が昇ってからは、お天道様が消えるまで、もうあんな子供じみたことはしんせん」
「……そうかい。そりゃありがたい。できればオイラの小遣いも増やして欲しいぜ」
兄様はそう言って、乱暴に頭を撫でんした。こういうところも、またひとつ。わっちが兄様を慕っているところの一つなのでありんすが、きっと兄様は気づいていないでありんしょう。
今のわっちは、ただの桜。遊女でもなければ、過去を背負う茶屋の娘でもなし。
だからわっちは、ただ兄と、兄を慕う人の明日を祈る、健気な妹でありんす。
「兄様と牡丹さんさえ宜しければ、三人で住んではどうでありんすか」
「おまえっ……!ま、まぁ、オイラは別にいいけどよ。初対面の人だしな」
がぁっはっはと豪快に笑い飛ばす兄様に、牡丹さんは気づいておりんしたでしょう。
あの金色のお天道様の光は、見えない世界も明るく照らしてくれんす。暗かったわっちの鳥籠も、牡丹さんの深い海にも、その手は届きんした。
「い、いいのかい?桜ちゃん。それに桜ちゃんのお兄さんも……?」
「お、おうよっ!拙者……、じゃねぇ!オイラも大歓迎だぜ!」
朱い光が世界を映し、先に伸びるは金色街道。
明日の色と香りに胸を寄せ、わっちは草履を擦りんした。
「兄様、帰るのが暗くなるなら誰かに一報を。それと、あんまり女の子を勘違いさせてはいけんせんよ?」
「そんなことしないわよね?なんたって、そろそろ養う人が増えるんだから。あんまり筆とお酒ばっかりじゃ、先に桜ちゃんの名前呼ばれちゃうわよ?」
「うるせぇのが二人に増えやがった……。わかってるよ。日が暮れる前には戻るから、そんな詰めないでくれやい」
「ほらほら、藤介の好きな白梅香だよ。仕事行く前に、たっぷり堪能しときな」
桜が咲き、また散って。それを繰り返して、わっちたちは一歩づつ過去を背負って生きんす。
春の息吹に耳をすませ、夏の香りに胸を抱き、秋の暮れに君想い、冬の空に息を吐く。
さぁ、これから語られますは、江戸に生き、闇夜を抜けたお人たちの紡ぐ、誰も知らない桜の奇譚。
桜源郷記譚 天地創造 @Amathihajime
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