第2話

「ほぉ〜、やっぱ外の話は面白いわ。うちも行きたいな、茶屋とか」

「あんた様の主様に頼んでみなんし。盗賊改ならお金もありんしょう」

「こんど頼んでみるわ〜。楽しみやねぇ」

 少し時間に遅れんしたから叱られたものの、椋介様の口利きのおかげでわっちはお咎めなしでありんした。

 あの鬼のおっかさまを説得できるとありゃ、あの人はやはり相当なやくざもんなんでしょう。

「……今日はやけに食べなんすね。太りんすよ?」

「ええの。うちは今食べなあかんの。食欲の秋やよ、椿姫」

 いつもは小食な日暮が、今日は御膳を二つも平らげていんした。それどころか、わっちの魚まで狙って来る始末。

 晩になりゃ主様と酌を共にすると言えど、やはり体力が入り用ということでありんしょう。日暮の相手がどんな方かは存じてないんすが。

「これ、約束の土産でありんす。あんまり高価いもんじゃないんすけど」

「あぁ……。ありがとう椿姫。うちの宝物にするわ!」

 わっちの身銭で買えるようなちんけな釵なのに。日暮はそっぽを向いてそれを刺しんした。

「あ、ほいじゃこれうちの釵、あげるね」

「いいでありんすか?相当な値打ちでありんしょう……?」

 日暮が差し出したのは、漆と金粉が散りばめられた花の一品でありんした。売れば一月は暮らせんしょう。

「ええんよ。うちやと思って、大事にしんね」

「…………ありがとうござりんす」

 その晩も、わっちと椋介様は座敷にいんした。昼もこん人に会えたのに、また晩もとなると、わっちの心は溶くばかり。

 ほんに、こん人はわかりんせん。わっちはほんに遊女失格でありんす。

「……なぁ、お前さん、本気でここを抜け出す気はねぇかい?」

 大きく千切れた雲のせい。月の光は影になる。

 行燈を吹いた椋介様のお顔は、確かに本意を告げんした。

「……わっちらは繋がれてしまった鳥なんす。この天牢を飛びだせば、たちまち陽に焼けんしょう。……そうでなくとも、わっちがいなくなれば日暮が困りんすよ」

「花の太夫か……。オイラもオヤジに言われるよ。お前の金の腕が誇りだってな」

「わっちらは共に常世の外の人。……この籠の中で、誰とも知れぬ椿の花の如く散りんしょう」

 手持ちぶたさに煙管をいじり、わっちは天を仰ぎんした。灯のない部屋の中、わっちの頭を椋介様が撫でんした。

 ちょうどそんな時だったでしょうか。遊郭の中を鳴子が奔り、呼び笛が鳴ったのは。

「足抜けだ!遊女が一人逃げたぞ!」

「追え!まだそう遠くは行けまい!」

 もう丑三つ時にもなりんしょう。ですが、吉原はいっそう喧しく、慌ただしくなりんした。蒲公英の綿毛が、走る人の波に潰されんした。

 次々上がる行燈が、鬼火のように吉原中を駆け巡っていんす。わっちらの部屋にもその波がやってきんした。

「失礼します椋介様、椿姫」

 二、三度戸が叩かれて、入ってきたのはおっか様でありんした。濡れ髪を釵でまとめ上げ、白粉は妖怪のように剥がれていんした。

「どうしたんでい、おばば。足抜け一つで大袈裟じゃねぇかい!」

「そ、それが椋介様!その遊女を逢引した男が盗賊改だったのです!それにその遊女は、その、少し特別でありんして……!」

 なんてことない吉原の夜に、その波紋は大きく広がりんした。

 偽りの空を仰ぎ、歩けるはずのないお天道様を希う。そんな遊女を、わっちはごまんと見てきんした。

 ですが今なら、そんな遊女たちの気持ちもわかる気がしんした。

 だからでありんしょうか。人が飛び立ち、また堕とされる度。わっちは世の道というものを見なくなっていた気がしんす。

「泉様、女之助の遊女が捕らえられました。これで心配はないかと。ですがその遊女……」

「……わかった。失礼しました、椋介様。引き続き、夢の夜をお楽しみ下さい。椿姫も、失礼のないようにね」

「…………おぅ。騒がしいのは嫌いじゃねぇからよ、そんな頭下げんじゃねぇやい」

 どうしてでありんしょうか。遊女が主様と足抜けを企てるなんて現世の地獄吉原じゃ珍しい話じゃありんせん。

 わっちたち遊女も、そうした話を仲間内でする事はよくありんした。大したことのない中流遊女の足抜けなら、こんな大ごとにはなりんせん。

 遊郭一つでなく、吉原をあげた大捕物。そんなの、花魁が逃げたか、太夫が男衆を率いたか。

 あとは、将来の花魁候補が逃げたか…………。

「ん?お前、その釵壊れてねぇか?」

「…………そうでありんすか?」

 わっちが釵に触れた瞬間、それは根元から崩れるように折れんした。

 金属の片で、わっちの指から紅い液体が漏れでんす。わっちはそれが折れた釵に滴るのを、ただ眺めていんした。

「椋介様、わっちはもうだめかもしれんせん…………」

「なんでい、藪から棒に」

 わっちの血で、釵の金粉が隠れんした。わっちの血で、釵の漆が剥がれんした。



 涼介様が去った暁方、吉原はすっかり賑わいを取り戻していんした。昨晩の事など、まるでみんな忘れてでもいいるかのように。

 ですが、わっちの部屋は実に静かでありんした。

 晩のうちに棄てられた鏡台、散らかった化粧箱。わっちのとは違う、薄桃色の紅の蓋が開いていんした。

 わっちは一人、筆を取る手を止めんした。

 もう外は、秋も暮れの寒さでありんした。暖のある着物を羽織っていても、細雪の腕は冷えんしょう。

 おっか様には止められていんした。ですが、わっちは目で見たものしか信じない女。

 遊郭からは遠く離れた森の中、その鳥屋はひっそりと建っていんした。つんざくような腐乱臭が、わっちの鼻を壊しんす。

「…………起きていんすか?日暮」

 自由に飛ぶ鳥。生きるために飛ぶ蝿。わっちの目は隠れたお天道様を追っていんした。

「……止められていんすけど、わっちは知りたいでありんす。あんたの気持ちを」

「…………こんなとこ、来たらいけんよ。椿姫」

 それは、わっちの知っている日暮の声じゃありんせんでした。

「うちはもう飛べんけど、あんたはまだ羽が残っておんね。比翼じゃけど、ほいでも、まだ」

「……わかっておりんしたでしょう。この吉原が、遊女が、どんなものかは」

 その時、日暮が中でもぞもぞと動きんした。荒れた畳と着物の擦れる音が、なんとも耳に苦しいものでありんした。

「……うちね、暮らしてみたかったんよ。誰もうちらを知らんところで、三人で」

 饅頭でも食っているかのような日暮の声。壊せない格子の外に夢を見て、自分で飛ぼうとした日暮。

 わっちはもう何も言えんせんでした。陽に落ちる影を見ながら、白粉が崩れていくのを、ただただ眺めているだけしか。

 昨日は甘いもので、今日はしょっぱいもの。わっちの口はわっちに似合わず贅沢になっていんすね。

 日が傾いた頃に、わっちは草履をそっと擦りんした。せっかく繕ってもらった派手な着物の袖は、しっとりと濡れていんした。

 そうして離れていく音を聞いたんでありんしょう。もうほとんど聞こえないような、蚊の鳴く声で日暮は言いんした。

「…………あんたは生きねよ。自由に」

 その一言で、わっちの腹は決まりんした。


「椋介様、今宵はこの椿姫、主様にお頼み申し上げたい事がありんす。どうかお聞きくんなまし」

 いつも通りの御膳とお酒。整った屏風の前で、わっちは頭を下げんした。

「……準備は整ってる。オイラの覚悟はできてる。いいんだな?お前さんも」

 はい、とわっちは低く答えんした。

 それから三晩、わっちと椋介様はいつも通りの夜を演じておりんした。おっかさまにも、忘八にも知られてはいけぬこと。

 足抜けなんぞ企もうものなら、その遊女は楼店のみならず、吉原中から影を追われんす。

 嘘と涙は遊女の華。そう教えてくれたおっかさんや遣手婆を出し抜けるのが、わっちには何より少気味いい仕返しでござりんした。

 暁に椋介様が去った後、わっちは日暮のところへ通いんした。せめて、彼女にだけは告げておこうと。

 わっちたちは、どこまで行っても江戸の影。幸せになれると、自由になれると思っておりんせんでした。

 日暮がいなければ、わっちは今でも終わりの来ぬ夢を見ていたでありんしょう。飛び立つことも、羽を棄てる覚悟も出来ず。

 偽りだらけの愛に溺れ、底のない嘘に沈んでいたでしょう。

 その夜は、月のない、鬼すら眠るように静かな晩でありんした。

「……オイラはずっとこの日を待ってたぜ。明日からお前は椿姫じゃねぇ。ほんとの名前を、オイラが教えてやるよ」

「…………期待しとくでありんす。椋介様」

「…………そっちの方も、また朝にだ」

 わからぬ事を申しながら、涼介様は戸を開けんした。

 衣摺れの音すらしない帳をそっと歩み、梟の声に吐息を溶かす。迅る心の臓を疎ましく思いながら、わっちと椋介様はお天道様のいなくなった庭を駆けていんした。

 わっちの手を引く椋介様。汗が滲み、それが手の中で混じり合っておりんす。牡丹の花に、汗が一つ落ちんした。

「……これで抜けられるはず。先に行け」

「……わかりんした」

 錆びた蝶番が軋み、綺麗な裏の戸をわっちは開けんした。

 出る先は楼店の裏、人の通らぬ町の影。見張り番も眠るこの時間、わっちたちの明日はあと一歩まで迫っておりんした。

 ですが、わっちは分かっておりんした。わっちがお天道様に嫌われていると。一度日陰を歩いた者は、もう先のほそるその道しか歩めないのだと。

「こんな時間こんな所に、何用かな椿姫。それに金の椋介も」

 その方は、吉原門の裏口に構えておりんした。黄色い歯を剥きながら、脂ぎった手が刀にかけられんす。

「……てめぇ、こないだので懲りてねぇのかい?大黒屋」

 戸を閉めた椋介様が、張り合うようにわっちと大黒屋様の間に入りんす。その晩は、桜が舞っておりんせんした。

「なに、おばばから聞いておったのでな。そろそろ椿姫が怪しいと」

 月のない空の下、そのお方は下卑た笑い声をあげんした。

 羽を毟られ、飛べなくなった鳥がもがいていんす。今更声をあげても遅いのに。

「しかし日暮という遊女も愚かよのぉ。早々に貴様らの謀を申せば、こうはならんだのに」

 指の先が震えていんした。これから翼を捥がれるのが恐ろしかったんでありんしょうか。いえ、わっちは、わっちの眼を信じたくなかったんでありんす。

「てめぇ……!」

 大黒屋様の手に握られた黒髪を見て、涼介様も刀に手をかけんした。

 わっちはもう怖くなっていんした。前に進む事を、空を羽ばたく事を。辞めたいと思ってしまいんした。

「しかし、わしはツイておろう?貴様らの足抜けを止めるため、今宵吉原には三十を越える屯所がある。金の椋介を捕らえたとなれば、わしも花魁を抱けようて」

「……てめぇだけは、オイラが殺す」

 行燈を捨て、大黒屋様の一団が向かってきんした。静かな夜に、刃の混じる音が響きんす。

 わっちは、わっちはもう、眼を閉じるしか……。

「お主はやはり、愛いよのぉ、椿姫」

 気付けば、背後に大黒屋様がおりんした。よく脂の乗った手が、目の前に差し出されんした。

「今ならわしの屋敷に匿えるぞ。あの様な男は捨て、どうじゃ?」

 日暮は、どうしてここの生活を捨てたんでありんしょう。飯だってお客だって、他の遊女とは目も当てられんほど良かったのに。

「わしなら日に三度飯を出せるぞ?着物も化粧も、甘味だって揃えられる。どうじゃ?わしの嫁にならぬか?なに、他の下女と同じ扱いはせぬ。蝋は使わぬし、相手をするのも日に五度、ワシだけだ。遊郭に棲まうお前なら破格だろう?」

 たしかに、それだけ聞けば並みの遊女なら足を変えんしたでしょう。

 わっちは思い出していんした。遥か昔、どこかの庭で、わっちと母が笑っていた日を。

 その時に見た、名も知らぬ大きな桃色の木を。

 わっちの願いはただ一つ。今一度、あの在り方を拝みたい。蒼天に散るあの花の様に、わっちも自由でありたい。

 細い眼をして嗤う大黒屋様のほおを、わっちは精一杯の力ではたきんした。

「わっちは、わっちたちは、死ぬまで生きるでありんす!」

 終わりを待つだけではありんせん。わっちは、最後に花が散るその時まで、生きるでありんす。

「よく言ったお前さん!」

「ぬぅっ!!愚かな遊女が!!」

 振り上げられた鋒が、星の光で輝いていんした。ですが、それが振り下ろされる瞬間、わっちの踵は返す事を忘れていんした。

 眼を瞑ったのは、ほんの一瞬でありんした。長い、永い刹那。日暮が瞼の裏で笑っていんした。

「…………椋介様……」

 生暖かい液体が、わっちのほおを伝いんした。

 背中で散る桜が、胸の椋の花が、藤色の一張羅が。

 遍く、朱色に染まっていんした。

「お前さんの刀じゃ、切れるのは骨と肉だけかい」

「な!?貴様妖か!?」

 わっちの眼が、今度は真実を映していんした。

 飛ぶ血潮。肘まで入った鋼の刃。そしてそれをわっちの前で止めている、椋介様の姿。

 涼介様の金の右腕が、わっちの目の前で刀を止めていんした。

「オイラの金の腕、お前さんにやるよ」

「や、やめっーーーーーー!!」

 瞬間、安い鼓でも打ったかのような音が、夜の吉原を駆け抜けんした。

「金の椋介はここで死んだ。すまねぇ、親父」

 朱色に染まった吉原街道、立ち尽くすものは二人のみ。自由を手に入れた遊女と、右腕のないやくざ者。

 いや、既に二人は、自由に空を飛べる様になっていんしたんでしょう。

 幽霊の様な芒が並ぶ白い海、紅葉が綺麗な木の下で、わっちたちは足を休めておりんした。

「どうして、ここまでしてわっちを鳥籠から連れ出してくれたでありんすか。まだ何一つ、わっちは主様に返せていやせんのに……」

 柄にもなく、わっちは心から涙を流していんした。化粧も取れた素の顔を拝まれるのは慣れてないっていうのに。

「……オイラは十分返してもらった。オイラとしちゃ、お前さんがいただけで全部を捨てるだけの価値があったんでい」

「……わっちには母も父もおりんせん。できるのは、身体を重ねて癒すだけ。なのに、主様はそれすら……」

 涼介様は、わっちの膝の上で優しく笑っておりんした。

「オイラにも親はいねぇ。親父はロクでもねぇやつだったし、母親は何人もいたっけな」

「…………」

「最後の母とはよ、親父が死んだ後一月だけ一緒に暮らしたんだ。これがまたできの悪い女でな。でも、笑った顔がなんとも美しかったんだ」

 思い出が、里の景色が、わっちの中に広がっていんした。

「その人もオイラが十一の時に死んじまってよ、それで、床に伏せた時に言いやがったんだ。『最後に、娘が見たい。でも、人に売った私に資格はない』ってな」

 好かねえことを。いけずなことを。

 わっちはこの心を止める術を知りんせん。百の男を悦ばせようが、わっちはこの心を知りんせんでした。

「そっからは、もう必死よ。喧嘩は強かったもんだからよ、やくざ者になって、色々な遊郭を回ってを繰り返して。そんで」

「…………わっちは、わっちは……」

「ようやくお前さんに会えたんだ」

「わっちは……ずっと、独りじゃ…………」

「血は繋がってねぇが妹なんだ。抱けるわけねぇだろ。でも、他のやつがお前さんを買うってのはもっと気にくわねぇ」

 わっちは、独りじゃなかったでありんすね。

「可愛い妹を連れ出せたんだ。他に何がいるってんでぃ」

「…………っ!」

 その晩、わっちは初めて人前でほんとうの涙を溢れさせんした。

 止まらぬその心を、椋介様は、兄は、ずっと撫でてくれんした。



「おーいおばば!団子と茶を二人分頼む!」

「あいよ〜。あら、お前さん男前だねぇ。あっちは嫁さんかい?」

「バカ言うんじゃねぇやい。妹だよ」

 昔々、ある国ある所。そこには二人の兄妹がおりんした。

 その兄妹は、一方が右腕のない元やくざ者。もう一方は元突出しの遊女と言う、少し変わった二人でありんした。

「わざわざこんなとこまで、旅でもしに来たのかい?春は行脚が多いからねぇ」

「まぁ、そんなとこだな。ちょいと見たいもんがあったんだ」

 兄の方は、名を藤介といいました。藤色の羽織にからそう名乗っていたのでありんす。

 お天道様から一度離れた二人は、ずっと影で暮らしていんした。けれども、彼らは比翼の鳥として、もう一度空を羽ばたいたのです。

 偽りだった空を、鳥籠の中から仰いでいた天を、二人は今自由に舞っていんした。

「兄様ー!もっとこっちに来なんし!団子はいつでも食べれんしょう!」

 ある春、その二人はたくさんの木に囲まれた美しい場所を訪れました。

 そして妹は自分と同じ名のその木を、花弁を、慈しむように踊っていました。

「いいじゃないか。元気な妹で。大事にしなよ」

「言われなくても。命賭けて守った妹だからな。あー!わかった今行くよーーーー!」

 その時、一層強い風が、空に桜の路を作りんした。

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