桜源郷記譚
天地創造
第1話
砕くことのできない金剛石の鳥籠。そこがわっちの世界の全てでありんした。
江戸は吉原、常世の桃源郷と謳われたその場所じゃ、男は肉欲、女は偽りの愛に溺れるということが日常でありんす。壊せない格子の外に夢を見て、空を飛んだが陽に焼けて。そんな遊女を、わっちは何人も目の当たりにしてきんした。
だからなのでしょうか。日が沈み、また登るたび。わっちは自由の意味を忘れていたような気がしんす。
「お前は今宵も愛いよのぉ……。椿姫や」
「……好かんことを。主様は……」
囲いの薄い天牢。飾り屏風の真裏の陰で、行われるは熱情的な契りの儀。ですが、このお天道様を仰げないわっちたちができるのは、その真似事だけ。
火照る体とは裏腹に、わっちの心はずっと椿の花の下にいんした。
「……また来の晩も来させてもらう。お前は数え年でいくつだったか」
「わっちは突出しでありんすから、まだ元服も終えてりゃしんせん。数えで十四でありんす」
わっちが浮かねえ顔で言うと、大黒屋様は黄色い歯を見せんした。そして今一度わっちの細雪のような手を握り言いんさりました。「では、見事太夫になる前に楽しんでおかんとな」と。
霧立ち込める暁時に、わっちの仕事は終わりを迎えんした。送り駕籠からお天道様の香りを漂わせるあん人を、わっちは袖を噛んで眺めていんした。
ここは江戸が光の終わり道。戸張を駆けるあん姐さんも、饅頭を食うあん兄さんも、誰一人として外を知らない者ばかり。
「椿姫は、いくつの時にここにきたん?」
贔屓の主様に文を綴っていんしたら、同部屋の禿が筆を投げ出し身を伸ばしてきんした。
「好かねぇことを、日暮。暇なら天紅でもしなんし。あんた、最近ずっと一人の殿方と過ごしていんしょう?……それと、いい加減訛りをなんとかしんさいな。おっかさまに聞かれりゃ口を縫い合わされんすよ」
「んもぅ。椿姫は真面目じゃねぇ。わっちも見習いたいでありんす」
「まったく……。いつここに来たかなんて覚えとりんせん。わっちの目にあるのは、この口紅と同じ薄桃色の大きな木だけでありんす」
「ありゃ~。そりゃうちも同じじゃった。ははっ」
わっちと日暮は、どちらも突出し禿でありんした。
日暮は里から、わっちは母から金のためにと手放され、いくつも人の手を渡ってきんした。そうしてこの吉原に来たのが十の時。
才のあったわっちたちだけ、こうして二人部屋なんて贅沢なもんを用意してもらっていんす。
ゆくゆくは花魁になるからと、食事も日に二度、取るお客は晩に一人、それにこうして文使いまで。ほかの遊女は座敷に雑魚寝、格子の外から眺められていることを考えると、極楽ともいえんしょう。
陽が昇りゃ夢を見て、陽が沈めば夢を魅せる。そうして生きてきた七年間で、わっちは世界の全てを知った気でいんした。
「椿姫。あんたに客だよ」
「はい、おっかさま。支度はできておりんす」
その日も、いつもと同じでありんした。夜が来て、わっちは着物に着替え髪を結う。
白梅香を振りまいて、殿方の入室を待っていんした。
「今夜は新客だ。何故あんたをお選びになったかわからねぇほどの御仁だがね。決して手をぬくんじゃないよ」
「はい。わかりんした」
吉原の夜は宴から始まるのが仕来りでありんす。わっちと殿方の二人で盃を傾け合い、ほどよく世界が回り始めた頃が合図でありんした。
ですから、殿方が入ってくるまでの時間で、わっちの部屋には御膳が並べられていんした。
襖の向こうに気配を感じりゃ、もうわっちは椿姫。あったか知らねぇ名を捨てて、一人の夢と化す時間。
その方は、ぶっきらぼうに襖を開けんしたね。
「おうおうおう!江戸の椿ってなぁここにいるかい!」
浅葱裏でもあるまいし、その方の元気がわっちには少し不思議に映りんした。
藤色の一張羅に、背中にゃ散る桜。整える気もねぇザンバラ髪と胸に刻んだ椋の花とくりゃ、もうあんた様の稼業はわかりんした。
「はい。わっちが江戸が椿の咲く枝垂れ。椿姫にございます」
「おう。こいつぁまた美しいなぁ!おまえさん、オイラのこと知ってっか?」
座敷に着くや否や、あんた様は一服も置かずそう言いんしたね。
「ここは江戸が吉原、隠り世の泡沫でありんす。夢の中じゃ、主様の稼業もまた無関係でありんしょう」
「はっはぁー!気に入ったぜ椿姫!おいばあさまや!もっと酒を入れてくれ!」
何を話すわけでもなく、あんた様は箸を持たんした。
冷えた酒が身体を火照らせ、よく煮えた魚が心を暖める。そうして最後にゃ二人で温もりを分け合う。わっちの準備は終わっていんした。
ですが、あんた様は特別飯を食べりんさる人でありんした。
「オイラはな、椋介っつうんだ。江戸じゃ『金の椋介』と言われててなぁ。ちょいとばかり名が通ってるのさ」
「そうでありんしたか。どうりで、主様はいい腕をお持ちのようで。触っても?」
「おうよ!自慢の金の腕でい!」
ここは常世の桃源郷。わっちの仕事は、やってくる殿方たちを悦ばせること。ですからこうして、その温もりを求めに行く事も遊女たちの間ではよくある事でありんす。
殊更この主様のようなやくざ者にゃ、鍛えた精神と身体を褒めることが一番手っ取り早く気に入ってもらえる行為でありんした。
「……主様は、わっちに触れんせんね」
「オイラぁこういう店は初めてだからな。それに、座敷遊びは苦手だ」
「…………そいじゃ主様は何しにここに?」
「そりゃお前、叔父貴が美味い飯があるって言ってたからよ。オイラが買った時間だ。何してもいいだろ?」
「呆れた人で…………」
椋介様の言葉も、その行動も、わっちには一つたりとて理解できることじゃありんせん。まさか飯だけ食いに吉原遊郭に足を運ぶなんざ、どんなかぶき者でも考えつきんせんこと。
ですが、わっちはあなたの椿姫。暁時までは椋介さまがわっちの主様。戯れないなら楽でいいんす。
椋介さまは、ずっと飲んじゃ食い飲んじゃ食い、御膳と戯れておりんした。
お天道様が顔を出し、露走りが夜の終わりを告げんした。ほんとうにあん主様は、わっちに指一本とて触れんせんした。
「今宵は実に楽しかったぞ、椿姫」
「…………そりゃよかったでありんす。わっちも久しく話に花を咲かせんした」
「また晩も来る。今夜は……そうだな。お前が飯を作ってくれねぇか?」
わっちにとってその言葉は、まるで本物の家族ができたように聞こえんした。瞳を濡らしたい気持ちを抑え、わっちはそっと手を重ねんした。
椋介さまは、駕籠にも乗らねぇで街を歩いて行きんした。背中に舞う桜をわっちは見つめていんした。
「ありゃ椿姫。あんたほりゃ好いとんね?間夫ね」
この吉原遊廓じゃ、茶を挽く遊女は仲間内でもたびたび嫌われんす。ですからいい男が来た日なんかにゃ、わっちも誰もその事を話したりしんせん。
日暮は人から秘密を吸い取るのが美味い奴でありんした。
「違いんす。わっちはただ、あの人がわかりんせんだけでありんす。瞳は濡れども花は乾く。遊女の基本でありんす」
「ほいでも、その人不思議な人じゃねぇ。うちも椿姫も、一晩で何両もよ。御大尽さまなんかねぇ」
「知りんせん。金の椋介ってやくざ者でありんすよ。…………今宵も来んさると」
「ありゃぁー……。椿姫知らんね。その人ぁえれぇ名が知れた人なね」
わっちが筆を置き釵を揺らすと、日暮は持っていた和紙に絵を描きんした。
「金の椋介って言やぁ、四郎兵衛会所の元締めの組の人やよ。前の正月で元服したって。いぶし銀で次期組長候補、日ノ本一のかぶき者って言われてんね。女の子の人気もそうとうなもんよ?」
「……そうざんしたか」
派手に筆を振り回した割にゃ、日暮の絵は綺麗でありんした。日に一度来るうら屋の人なんかにも負けてやしんせん。
「……よく知っていんすね。わっちなんか日ノ本の事なんざ、七つの時で止まっていんすよ」
「うちの間夫が盗賊改でね。枕話に聞くんよ」
やっぱり、日暮はいと恐ろしい奴でありんす。
「でも、気ぃつけねよ?帳番かもしれんよ、その人」
わっちたち下級、中級遊女の中には、この壊れない鳥籠の外に羽ばたこうともがく者が必ず現れておりんした。
吉原にとっちゃ、夢を魅せる側から見る側に回った遊女は面倒なんでしょう。わっちらの心を引きずり出そうとする輩を、たびたびお客に紛れ込ませていんした。
「わかっておりんす」
椋介様がそのお方なら、わっちは何もいいんせん。そのまま夢を見て、泡沫の陽を仰ぐのも一興でありんしょう。
その晩も、また次の晩も。椋介様はわっちの座敷に邪魔しんした。
月が登りゃ、わっちは戸が叩かれるのを待ちわびていんした。日暮のいうとおり。わっちは遊女失格でありんす。
あの晩から、わっちは一度も襖の向こうへ行っていんせんでした。椋介様は、毎夜決まってわっちの座敷に来て、土産話をたくさん聞かせてくれんした。
涙と嘘は遊女の嗜み。わっちが幾度も花魁に言われた言葉でありんす。わっちの遊女としての全ては、あの人の桜と一緒にどこかへ行ってしまいんした。
「お前さん、この鳥かごから出てみたくはねぇか?」
夏も暮れの夜、椋介様は突然そう言いんした。
「御戯れを。わっちはこの吉原の女でありんすよ」
わっちには、まだこの主様に心を委ねる事ができんせん。もしあんた様までわっちから離れて行ってしまいんしたら。わっちはどうすればいいんでありんしょうか。
飛ぶ夢を見て、悪いんでありんしょうか。
「なに、別に身請けとか足抜けってわけじゃねぇやい。ここのおばばに頼めば、日の出の間くらいお前さんを買えるだろ?」
「……確かにできんすけど…………」
一度日ノ本から外れたこの身、今一度お天道様を仰げるんなら、きっとわっちの袖は濡れんしょう。
けれど、遊女の昼は夢の中。連れ出すにゃ相当の額を納めなきゃなりんせん。
身体も重ねねぇのにこんなことを言ってくださりんすなんて。嬉しさよりも先に、わっちは恐くなっていんした。
「椿姫、あんたにお客だよ。昼取りだ。行っておいで」
文を認めていんしたら、おっかさまが扉を開けんした。
「……はい。しかし、一体お相手はどちらさんでござんすか?」
「この頃あんたを気に入ってる、椋介様だ。まさかあの御人があんたなんかを昼取りとはねぇ。知ってるかい?椋介様はね、あの花扇の天紅を振ったんだとか。いやぁ、うちも安泰だよ」
おっかさまの反応は、それはそれは絵に描いたように有頂天でありんした。ですが、これで椋介様が間者であるという事はなくなりんした。
わっちは急いで服を変えんす。遊女の街宣とくりゃ、歩くのは花魁、花扇というのが吉原の常識。わっちのような突出し禿がこの鳥籠を離れるなんざ、それこそ夢物語でありんした。
「いいなー椿姫。わっちも格子の外を見たいでありんすー」
「なんでありんす、その顔は、日暮。わっちの心がいちばんの乱れ花でありんすよ」
「お土産おねがいね…………うっ!」
「また吐き気?ほれ、楽にしなんし」
どうも日暮は、手練手管にゃ自信がありんすが、今一つ遊女としての耽美さに欠けていんした。そこを良いと思ってくれる主様がおるのが、日暮の強みでありんすけど。
わっちは慌てて帳を駆けていんした。吉原は時が命。主様の一刻たりともわっちたちが奪うわけにはいかなんす。
椋介様は、吉原門の前にいんした。
「おぉ、来たか椿姫。ん?なんでぃそいつらは」
わっちたちが昼取りをする時、もちろんわっちと主様だけで行くわけではありんせん。鳥が逃げてしまわぬよう、手綱を握る四郎兵衛会所の兄様がたが三人いんした。
「まぁ、別にいいか。どうせオイラたちにゃ関係ない」
その日わっちは初めて、吉原の門をくぐりんした。
「………………あ」
世界はわっちの瞳じゃ捉えられないくらい広がっていんした。
「椋介様、どうしてわっちを…………?」
今までは、ずっとわっちが夢を魅せる側だと思っていんした。けれど外の世界は、あの鳥籠の外は、もっとたくさんの夢で出来ていたんでありんすね。
「オイラもずっと日陰の身だったからな。お前にも見せたかったんだ。今日はオイラがお前を楽しませるぜ」
まるでどっかの向日葵のように笑うあんた様を、わっちはどこか懐かしく思いんした。吉原に売られる前の七年間が、湯水のように溢れんした。
「さって、まずは茶屋でも行くか。お前さん、菓子は好きか?」
「…………饅頭は怖いでありんす」
椋介様が笑い、わっちも紅を引きんした。
わっちら影が、世の理に逆らい日ノ本を歩く。それだけでも充分だったのに。
常世は地獄じゃありんせん。天国でもありんせん。ここは、人の里の香りがしんした。
人間十四年、常世の影を歩まれば、夢幻の如くなり。茶屋で食ったあんこ菓子は、春の味。織物屋で作った香り袋は夏の匂い。椋介様がわっちのよこで顔を崩すのが、秋の心地でありんした。
「椿姫、椋介様、そろそろお時間です」
「なんでい、風流の無ぇお天道様だ」
その一日は、紛れもなく夢物語でありんした。
ですから、あんた様と別れて吉原に帰るのが、冬の訪れになりんした。
江戸の町を離れ、堕ちるはまた偽りの世。せっかく結った黒髪が、暮れの風に揺られんす。
そんな吉原門の前に、大勢の人がおりんした。しかもそのトリを飾るのは、田舎侍の大黒屋様でありんした。
「貴様か!ワシの椿姫を毎晩奪いよる輩は!一日二日なら我慢できたが、もう勘弁ならん!なおれ!ここで叩き切ってくれるわ!」
大黒屋様は、大勢の田舎友達とともにわっちたちを取り囲みんした。ふらふらと揺れる浅葱裏に、椋介様の桜が重なりんす。
「お逃げを!椿姫!我々が殿を務めますゆえ!」
「そ、そんな……」
四郎兵衛会所の役目は遊女の監視と保護。こうして夢を見るため駕籠をでりゃ、棘を踏むことだってありんしょう。
吉原の門は羅生門。外の世界で起こったことにゃ、花魁以外は聞きんせん。向こうさんの数は十を超え、こちらは五人。
わっちは袖を握りんした。枯れた彼岸花が地に伏せて、痩せ細った烏がかぁと泣きんした。
「安心せい椿姫。邪魔者亡き後は、ワシが城で毎晩契ろうて」
「わ、わっちに手を出せば吉原が……」
「あの吉原が!あの花魁が!外の事に腰を浮かすと思うのか?やはり愛い。その穢れなき瞳が愛いよのぉ……」
真っ黄色な歯を見せながら、大黒屋様が刀に手をかけんした。わっちの心は決まっておりんす。
「わかりんした。ですからせめて他の兄様がたは……」
「バカ言うんじゃねぇやい。こいつはオイラが買った。てめぇみたいなハゲジジイにゃエンコの先すら触れさせねぇ」
わっちの目の前を、桜の花が散っていんした。どこか懐かしい香りが、椋介様の着物からしんした。
「ヤクザ風情が……!ぬか漬けにしてくれるわ!」
タコのようになった大黒屋様が、雄叫びをあげながら向かってきんした。
そんな折の涼介様の顔は、わっちが今まで見たことのないものでありんした。
「金の椋介を、教えてやるよ」
わっちは恐ろしくて、ずっと袖を翻していんした。響く刀の交じる音、どっかの兄様が呻く声。吉原とは違った地獄が、見えぬ先で広がっていんしたんでしょう。
次にわっちが目を開けた時には、全てが終わっていんした。
東風と共に運ばれる鉄の匂いと、わっちが作ってあげた匂い袋の芳香。椋介様が天に掲げた腕が、まるで黄金のように光っていんした。
「怪我ねぇか?ほれ、泣くな。オイラはこの通りでい!」
顔を腫らして、それでもなおはにかむ椋介様。わっちは訳もわからず頰を濡らしていんした。椋介様の御着物に、染みを作っていんした。
「…………帰るぞ、ほれ」
椋介様の右腕が、わっちの黒髪を撫でんした。無骨で、力強くて。せっかくつけた椿油が剥がれんした。
わっちは、幼い頃の母を思い出していんした。
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