「あなたが目を開けてくださって、本当に良かった。心中でもされたかと瞬間、ひやりとしましたから」

 店員がミルクセーキを作る喫茶室にて、老先生は言いました。その口調は、半分眠った意識の私に

「モーニングの美味しい喫茶室があるのですが」

 と話された口調と同じく、日常会話的なのでした。


 私は、重いかもしれない人生観を差し障りなく語ることに慣れて、店員が目をみはそばから、重苦しい会話をいとも容易く繋げていくのです。

「ミヨシくんと私では、とうてい絵に成り得ないでしょう。私は既に、常識のつるに巻き取られた人間です。だから、そんな行為には不似合いなのです」

「そうでしょうか。あなたは若く、美しい。私の孫と、年齢も然程さほど、変わらないはず。ミヨシくんとは、ウマが合いますか?」

「ええ。幾らでも話していたい。少年の形をした青年だと知らない頃、可愛いだなんて、失礼なことを言いました。謝らなければ」


 卵と牛乳と砂糖を攪拌かくはんした飲み物が、私たちの前に並べられました。泡立ったミルクセーキにストローを差して、飲み始めます。老先生も、運ばれてきたばかりのモーニングセットのトーストに、没頭されました。

「誰かと話すことで自分を繋ぎ止めておける。そんなことが、あるのですね」

 トーストを食べ終えて、茹で卵の殻を剥く老先生が呟きました。

「先生には、気を許して語り合える方が、おられるのですね」

「ええ。娘が霊媒師を通じて、私に語り掛けるのです」

 ミヨシくんの予想は的中していました。

「正気の沙汰ではないと、思われるでしょう」

「いいえ、そんなことは」

「いいんですよ。正気の沙汰ではないことぐらい、自分で分かっています。しかし、今の私には必要なのですよ。必要とは言え、昨日はレッスンを放棄してしまいました。この埋め合わせに、と言っては何ですが、あなたの御都合の良い日にちと時間で、振り替えさせて頂きます。月曜日以外で、一向に構いませんよ」

 その御言葉に甘えて、早速、明後日の夕刻にレッスンを希望しました。時間の流れは、いつになく早く、出社時刻を過ぎています。会計を急ぐ私に

「随分、お引き留めしました。此処ここは私が。レッスンを放棄したことを責めない寛容な、あなたに感謝していますよ」

 と、老先生は財布の紐を緩めました。


 月曜日と同じ服装で出社した私は、一時間の遅刻を上司に責められましたが、いつもどおりに働きました。

 それは人生の、おまけに感じられる時間でした。


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