「本当に、帰らなくて大丈夫?」

 ミヨシくんは、娘を気遣う、おとなのようでした。実際に彼は、十歳のフォルムをまとった二十歳の、内面を二十歳以上に老成させた青年なのです。

「明日、お仕事なんでしょう?」

此処ここから通勤するから、大丈夫よ」

「僕、お仕事をしたことが無いんだ。楽しい?」

「楽しいと言うより、とりあえず何かしていなければ、と思うのよ。学生のときから、そうだった。必要に迫られて何かをしていないと、不安なの。あまりにも自分の存在価値って、あやふやで、生きているという実感も薄くて。私にとっての仕事は、気を紛らわすための材料。ミヨシくんの、ピアノと折り紙みたいなものよ」

「材料が無くなったら、どうなってしまうの?」

「経済的に親に委ねることになるから、私は、自分の好きなように生きられないかもしれない。仕事の収入で、ピアノを習えるし、ミヨシくんにも会えるのよ」

 私は、ミヨシくんを気遣う、おとなのようでした。実際に私は、二十二歳のフォルムを纏った、年相応の内面を持っているはずの女性なのです。しかし、年相応とは何でしょう。よく、分からないでいるのです。


 頭痛を訴えたミヨシくんに、薬の保管場所を教えてもらいました。冷蔵庫には、レモンティーが冷えています。彼は、私の汲んだ紅茶と、鎮痛剤らしき薬を飲みました。大きい錠剤が咽喉につかえるようで、可哀想です。雛鳥のように頼りないくびを撫でました。ようやく錠剤は、流れ落ちたようです。

「ありがとう。ササオカさんは、精神的に自立出来ているね。しっかり生きている? なんていて、ごめんなさい。ササオカさんは、流されることのない人だよ。僕の、お母さんとは違う」

「でも、そんな人生も素敵よ。流されることを望んでいる自分が居るの。悲劇に耐え切れず、死と言う流れに逆らわない少女を、肯定する自分が」

「きっと『オフィーリア』だね」

 ミヨシくんは、しばしば、その直感を発揮します。晩年の透明の、なせる業でしょうか。

「ミレーの『オフィーリア』、すごく好きなんだ。水の流れに漂う少女。お母さんに似ているよ。僕は、お母さんと同じところに流されたい。そのときを、無心に待っていればいいのにね。足掻あがくように、動き続けるんだ。生きたいんだか、死にたいんだか、分からなくなっているよ」

「それなら私も同じよ。だって、不健全な『オフィーリア』が憧れなんだもの。私、本当に生きたいのかしら」

 夜中じゅう、私たちは『オフィーリア』への愛を語り尽くしました。

 透明な思考を分かち合える相手。

 それは後にも、きっと先にも、ミヨシくん以外には、居ないであろうと思えるのです。


 明け方、私は出社のために帰り支度を整えました。ミヨシくんは、話の最中、コトリと眠りに落ちます。彼は揺り椅子に掛けたままでした。

 寝台上に畳まれていた掛け布団を拡げて、ミヨシくんに着せます。やはり十歳ぐらいの、綺麗な男の子にしか見えません。

 淡い朝の光は、白い木綿のカーテンをとおり、ミヨシくんに降りそそいでいます。その光の中に眠る彼は、卵の中の雛のようでした。


 卵が割れないように、誰かが守ってあげなければ。


 私は、そんな想いで足を鈍らせました。せめて、彼の、おじいさまが帰られるまで待っていよう。

 やすらかなミヨシくんの姿を眺めているうちに、心やすらいだのでしょう。私も眠気に差されました。

 私の住まいとは比べものにならない朝の静けさは、健全な精神をも透明に侵していくようです。鳴り響くアラームも、時刻を知らせるテレビも無い部屋で、このまま目蓋まぶたを閉じていたいと思いました。


 私は、何をも欲する気持ちに、なりませんでした。

 老先生の帰宅。私は、その気配に目を醒ましました。

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