Ⅷ
「本当に、帰らなくて大丈夫?」
ミヨシくんは、娘を気遣う、おとなのようでした。実際に彼は、十歳のフォルムを
「明日、お仕事なんでしょう?」
「
「僕、お仕事をしたことが無いんだ。楽しい?」
「楽しいと言うより、とりあえず何かしていなければ、と思うのよ。学生のときから、そうだった。必要に迫られて何かをしていないと、不安なの。あまりにも自分の存在価値って、あやふやで、生きているという実感も薄くて。私にとっての仕事は、気を紛らわすための材料。ミヨシくんの、ピアノと折り紙みたいなものよ」
「材料が無くなったら、どうなってしまうの?」
「経済的に親に委ねることになるから、私は、自分の好きなように生きられないかもしれない。仕事の収入で、ピアノを習えるし、ミヨシくんにも会えるのよ」
私は、ミヨシくんを気遣う、おとなのようでした。実際に私は、二十二歳のフォルムを纏った、年相応の内面を持っているはずの女性なのです。しかし、年相応とは何でしょう。よく、分からないでいるのです。
頭痛を訴えたミヨシくんに、薬の保管場所を教えてもらいました。冷蔵庫には、レモンティーが冷えています。彼は、私の汲んだ紅茶と、鎮痛剤らしき薬を飲みました。大きい錠剤が咽喉に
「ありがとう。ササオカさんは、精神的に自立出来ているね。しっかり生きている? なんて
「でも、そんな人生も素敵よ。流されることを望んでいる自分が居るの。悲劇に耐え切れず、死と言う流れに逆らわない少女を、肯定する自分が」
「きっと『オフィーリア』だね」
ミヨシくんは、しばしば、その直感を発揮します。晩年の透明の、なせる業でしょうか。
「ミレーの『オフィーリア』、すごく好きなんだ。水の流れに漂う少女。お母さんに似ているよ。僕は、お母さんと同じところに流されたい。そのときを、無心に待っていればいいのにね。
「それなら私も同じよ。だって、不健全な『オフィーリア』が憧れなんだもの。私、本当に生きたいのかしら」
夜中じゅう、私たちは『オフィーリア』への愛を語り尽くしました。
透明な思考を分かち合える相手。
それは後にも、きっと先にも、ミヨシくん以外には、居ないであろうと思えるのです。
明け方、私は出社のために帰り支度を整えました。ミヨシくんは、話の最中、コトリと眠りに落ちます。彼は揺り椅子に掛けたままでした。
寝台上に畳まれていた掛け布団を拡げて、ミヨシくんに着せます。やはり十歳ぐらいの、綺麗な男の子にしか見えません。
淡い朝の光は、白い木綿のカーテンを
卵が割れないように、誰かが守ってあげなければ。
私は、そんな想いで足を鈍らせました。せめて、彼の、おじいさまが帰られるまで待っていよう。
やすらかなミヨシくんの姿を眺めているうちに、心やすらいだのでしょう。私も眠気に差されました。
私の住まいとは比べものにならない朝の静けさは、健全な精神をも透明に侵していくようです。鳴り響くアラームも、時刻を知らせるテレビも無い部屋で、このまま
私は、何をも欲する気持ちに、なりませんでした。
老先生の帰宅。私は、その気配に目を醒ましました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。