夜中になってから、雑居ビルの最上階にミヨシくんを送ります。其処そこは、老先生とミヨシくんの生活の拠点でした。必要最小限度のものしかない生活形態とは、なんてきよらかで、私を感動させるのでしょう。

「私なんかが上がっても、いいの?」

 聖域をけがすような気がして、私は躊躇ためらいました。

「おじいちゃんが帰るまで、ひとりになってしまう。慣れているはずなのに、何だか今日は淋しいんだ」

 私は、ミヨシくんの生活空間に、初めて足を踏み入れました。板張りの床は、夏なのに冷たくて、目が覚めるようです。

「どうぞ、お好きなところに」

 私はソファに掛けました。その真向かいの揺り椅子に掛けたミヨシくんの声は、或るショパンのワルツのように、内省的に響きます。

「ササオカさんは、ワルツを弾いているね。ショパンの、オーパス三十四の二」

 ミヨシくんは出し抜けに、そう言いました。想いが伝播したのかと驚き、返す言葉に困りましたが、私は素直に述べます。

「不思議ね。私、今、その曲を思い浮かべていたのよ。ミヨシくんって内兜を見透かすみたい」

「晩年だからだよ。神経が透明になって、いろんなことが見えるんだ」

「透明に、なって?」

「うん。どんどん透明になって、全て透明に還るんだよ。指先も、心臓も、全部」

 珍しい光景を見ます。ミヨシくんは、衣服のポケットから煙草の箱を取り出し、慣れた手付きで、その一本をくゆらせました。

「ミヨシくん、あなたは……」

 言いかけて止めました。二十歳の彼には、煙草を嗜む自由が、あるのです。煙草を吸うと、肺が真っ黒になるという定説がありますが、ミヨシくんの肺だけは、決して黒く染まらないように思えました。

 私は、女子高校、女子大学で学びました。煙草が人体に、更に言えば女性の身体に、どれだけの害を与えるのか、副流煙の害と合わせて知っています。しかし私は、学生時代から考えていたことが、ありました。


 はたして、女の子にとって、本当の幸せって何だろう。


 学校では、明るく健全に育って次代の生命を生み出すことこそ、幸せなのだと教えられ、周りの女生徒も疑っていないようでした。成長する。結婚する。出産する。随時、当たり前と言われる、その輪廻めいたサイクルに、魅力を感じられませんでした。

 ジョン・エヴァレット・ミレーの名画『オフィーリア』が好きです。その絵は『悲しみのオフィーリア』と呼ばれることもありますが、私は単に『オフィーリア』と呼びます。それは『オフィーリア』を哀しい運命の少女だと、認めたくない気持ちからです。

『オフィーリア』はシェイクスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物です。彼女は水に身を投げて、水に漂う美しい少女でした。女性としてのサイクルから逃れ、無垢なまま逝った『オフィーリア』が、私には何故か、幸せな少女に思えてならないのです。

 透明の境地に漂う少女。何処までも聖らかで、不安定な精神状態を有した『オフィーリア』は、少年の形をしたミヨシくんに、あるいは、話に聞いた彼の母に繋がります。生活から離れ、愛から離れ、透明に成り尽くした身体。透明な身体への憧れは、論理的に少女時代と呼ばれる年代を越した今も尚、私に深く根差して消えません。それ故、ミヨシくんに惹かれるのでしょう。


 ミヨシくんが一服するあいだ、私は透明について考えていました。生活を排除すること。女性にとって、それは、健全な愛の排除と置き換えられるような気がします。私のミヨシくんに対する愛は、不健全なのです。

 肺に刺さる刺激を喫い足りないのでしょうか。ミヨシくんは、二本目の煙草に火を点けようとしました。私は、彼の透明さにかれているにもかかわらず、その最期を少しでも延ばしたいのです。

「ミヨシくん、疲れてしまうわよ。少し手を休めるほうが、いいんじゃないかしら」

 私の忠告に彼は従い、煙草を箱に戻しました。揺り椅子に沈んだミヨシくんは、少し嬉しそうに見える微笑みを返すのです。

「ササオカさん、以前も、そう言ったね。僕、ササオカさんの存在が嬉しいんだよ。みんな薄情なんだ。見て見ぬ振りで通り過ぎてしまう。おじいちゃんでさえ」

「おじいさまは、ミヨシくんのこと、誰よりも愛しておられるわ。一緒になって苦しみを引き受けて生きるなんて、愛が深くなければできないことよ。勝手に苦しめば。それが当たり前の世の中なの」

「じゃあ、どうして帰ってきてくれないの。きっと、看病に、愛することに、疲れたんだ。僕なんて、勝手に苦しめば、いいんだよ」

 その台詞に覇気は、ありませんでした。彼は、やはり晩年なのです。状況を哀しんでも、怒りに転じることはないのですから。

「おじいちゃんの行き先は分かっている。霊媒師さんの家。おじいちゃん、その人を通して天国の娘と交信出来るんだって。そうすることで、僕の寿命を延ばせると、信じているんだ。僕の視界にも娘が見える。ササオカさんだよ。ねぇ、ササオカさんって、しっかり生きている人だよね?」


 雪白の少年とふたりきりで『オフィーリア』の幸福を肯定する私は、しっかり生きている人に、見えなかったのでしょうか。


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