水曜日の夕刻、レッスンに訪れた私を迎えたのは、火曜日の朝までのミヨシくんでは在りませんでした。頸筋くびすじと耳を露に見せる赤い髪は、切られた上に染められかれたのかと思うほど、質感を異にしています。


 洋服も、お決まりの白ではなく、紺色のセーラーカラーのカットソーでした。半袖に半ズボンなので、ひじひざの骨格が見えます。その形は、突然変異の美しさでした。彼の骨格は、二十歳の青年の、それではありません。少女のような、こどものような、いずれにも属しません。あえて形容するならば、やはり雛鳥なのです。


「謝らせてください。あなたのこと、可愛いなんて言って、ごめんなさい。ミヨシくんは、ほとんど私と同い年の、男の人なのに」

 不躾ぶしつけに見詰めてしまったことも含めて、謝罪しました。ミヨシくんが、折り紙の代わりに華奢きゃしゃぐしを手にしています。彼は、黒いウィッグを手入れしていました。


 彼の髪が、いつも綺麗に揃っていた理由が分かります。病のせいなのか、薬のせいなのか、赤毛に金糸の混じった髪をまとった彼が、換羽期の鳥のように見えて、彼の存在が、ますます危ういもののように思えました。


「謝らないで、ササオカさん。今朝、鏡が割れて、困っていたんだ。これを、着せてくれない?」

 何処かに飛び立とうとするミヨシくんに、新しい羽のように艶やかな黒髪を着せます。この世ではない何処かへ、既に彼はつながっているように見えました。それは、錯覚ではなかったのです。


「ありがとう。何だか眠くなってきて……ねぇ、ササオカさん、子守唄を弾いてくれない? ピアノの音を聴かせて」

「私、レパートリーに子守唄が無いのよ」

「ショパンのワルツ、オーパス三十四の二が、いい。子守唄みたいに静かでしょう。以前、おじいちゃんに教わった。あのワルツは追想。昔あった出来事を懐かしむときの、心の窓を開く曲なんだって」


 オーパス三十四の二は追憶のワルツ。明るい未来を想うのではない。既に過ぎ去った色褪せない思い出の、更新されない頁に自分を閉じ込めるのです。


「ミヨシくんに、ワルツを弾くわね」

「ありがとう。僕は此処ここで聴いているよ」

 ミヨシくんは揺り椅子に落ち着き、膝にストールを掛けて、眠る姿勢になりました。私はレッスン中の一曲を、弾き始めます。


 オーパス三十四の二はメランコリックなワルツ。熱い思いは過去に忘れられ、この旋律の中に、たぎる感情は無い。ただ、そんな熱さを忘れていなかった頃の自分を、あの頃は良かったんだと想い出し、その日々を懐かしみ、慈しみ、想い出に棲むように自分を重ねるのです。


 これは、鎮魂曲レクイエムなのではないかと思いました。私の脳裏には、ピアノ教室に通い始めてからの、幻めいた透明な日々が漸次、旋律に重なってくるのです。

 レッスン依頼の電話を掛けてから今までの、老先生との交流。そして、ミヨシくんとの交流。


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