淡水色みずいろのジュレの表面を、ミヨシくんのナイフが、なぞります。それは、綺麗に二等分されました。

「どうぞ、ササオカさん」

 ミヨシくんに勧められるままに、食べ始めました。ジュレは曹達ソーダ水の味がして、たいへん美味です。なのにミヨシくんは、最初の二口ほどを食べたきり、興味を失ってしまいました。


 彼は、何かに衝き動かされるように折り紙を始めますが、その手は小刻みに震えていて、折り紙の両端をきっちり合わせられないのです。私は見兼ねました。

「ミヨシくん、そんなに、いつも何かに集中していると、疲れてしまうわよ。少し手を休めるほうが、いいんじゃないかしら」

 しかし、ミヨシくんは動き続けます。

「ミヨシくん」

 彼は歪んだ菊を仕上げて、やっと私の顔を見ました。その瞳は相変わらず潤んでいて、泣き出しそうにさえ見えるのです。

「手を動かしていないと、不安なんだ」

 そう言って、また折り紙を始める彼を、黙して見守るしかありませんでした。


 しばらくして、老先生が戻られました。喫煙スペースで煙草を吸っておられたらしく、微かに匂いがします。先生はミヨシくんの様子を見るなり、白い長袖のブラウスに包まれた彼の腕をきました。

「引き続き五分ほど、お留守番をお願いします。指馴らしをしておいてください。今日は鍵盤を拭いていないのですが」

 老先生は、雑居ビルの最上階の部屋に、ミヨシくんを連れて行かれるようです。お留守番の追加を引き受けた私は、指馴らしにメトードローズを弾き始めました。仏蘭西フランス的教則本をさらいながら、ミヨシくんのアラベスク一番を思い出します。それは名演奏でした。少年の指のつむいでいるものとは信じ難い円熟でした。


 そう言えば、ミヨシくんは何歳なのでしょう。私はミヨシくんの年齢も、老先生の年齢も知りません。推定して十歳、六十歳と言ったところでしょうか。

 確定できないまま、時は過ぎます。


 時節は晩夏に差し掛かります。レッスン終了後のひととき、アイスコーヒーを御馳走になりました。その日のピアノ教室に、ミヨシくんの姿は在りませんでした。シロップを入れないコーヒーを飲む老先生に、たずねます。

「今日はミヨシくん、お休みですか?」

 いつもどおりならば、私のレッスンの後にミヨシくんのレッスンが控えているのです。折り紙を携えた彼は、私のレッスンをおとなしく聴いてくれていました。彼の居ないピアノ教室に、私は慣れていないのです。

「あの子に、変形が始まりましてな」

 老先生は、妙なことを口走りました。

「娘に降り懸かった病は、その子をも侵すのです。私にとっては悪夢ですよ。しかし、あの子は悪夢を受け入れている。私も受け入れて、ただ見守っていくしか方法は無いのです。私は、命脈の短い花を看取る運命なのでしょうね」

 背筋を凍らせる言葉でした。私は恐怖と好奇心にあおられながら、話を続けます。

「ミヨシくんは、病を持っていたのですね。道理で普通の男の子と……街で遊んでいるような子たちとは違うと思いました」

「ええ。あの子は原因の分からない奇病でして。母親も、その病で亡くなりました」

「治療法は、無いのですか?」

「明確な治療法は発見されておりません。あまりにも前例の無い病です。医師の懸命で手探りの治療が功を奏して、生きております。しかし、変形は止められなかった」

「変形……ですか」

「関節と関節をつなぐニカワ質というものに、変形が生じているようです。あの子の母親が亡くなったとき、無惨な姿だった。ミヨシくんは、母親が徐々に変形していく過程を、しかと見ていたのですよ。真っ直ぐに伸びない指は、まるで畸形きけいの百合だった。あの子は、自らが畸形の百合に成る未来を予感しているはず。賢い子ですから。自分の病を理解しているのですよ。折り紙を手離せないのは、そのせいです。一日の、ほとんどを、指の形と動きを確かめる作業に費やしている。病を受け入れている証拠でしょう。決して目を背けないのですから。そして、歪み始めた指を目の当たりにしている。あの子は、階上うえの部屋に居ますよ。数日前から、関節が腫れ出しました。熱も高いのです」

「治ることはないのですか?」

「治癒の見込みはありません。あるとすれば、小康状態ですな」

 私は返す言葉も無く、ただアイスコーヒーを飲み干しました。老先生も、氷の溶けた淡いコーヒーを、一呼吸に咽喉のどに流し込みます。

「随分、お引き留めしました。申し訳ない」

「いいえ」

 もっと引き止めていてほしいと思いました。しかし、単なる一生徒にすぎない私が首を突っ込むには、あまりにも深い話です。興味本位で他人の深刻な事情に立ち入って、良いはずがありません。


 私は詮索を止めたつもりでいました。けれども私の興味の対象は、饒舌に総てを語り出します。老先生は、枯れるだけの花の生命をひとりで引き受けることに、ミヨシくんも、枯れていくだけの未来をひとり抱え込むことに、疲れ果てていたのかもしれません。


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