初夏が盛夏になっても、ミヨシくんは相変わらず、ピアノと折り紙に夢中です。


 まだが高い酷暑の夕刻、汗をにじませてレッスンに訪れた私に、老先生はアイスティーを振る舞ってくださいました。思いがけない、お茶の時間です。

「本当に可愛い、お孫さん」

 ミヨシくんは、ガムシロップを沢山たくさん、溶かし込んだ紅茶を飲み、合いの手には、やはり折り紙を携えていました。

「ミヨシくんと同居し始めて、何年目だったかな。可愛い孫と過ごす時間は、精神的に充たされるものですよ」

「先生は、かつて独り暮らしを?」

「ええ。妻に先立たれましてね。娘……この子の母親も、他界しておりまして。ミヨシくん、冷蔵庫のジュレを、見てきてもらえないかな」

 ミヨシくんは頼まれて、教室を一旦、退出しました。


「私たちの生活の拠点に、この雑居ビルの最上階を借りているのです。此処ここよりも、ずっと小さな部屋ですが、冷蔵庫と、洗濯機と、パソコンと、エアコンを完備しています」

「テレビは無いのですか?」

 私は、そんな質問を躊躇ためらいなく口にしました。生活というと真っ先に、家族の話し声よりも自己主張していた自宅のテレビを思う私には、老先生とミヨシくんの生活が、生活と言われるものとは違うように感じられるのです。

「テレビは、パソコン画面で視聴できます。ニュースを観る程度ですが。あの子も、テレビが欲しいとは言わないのですよ。ミヨシくんと暮らすにあたって、必要なものをリストアップしたのですが、あの子は不思議で。既に、あるもので、充たされているのです。何をも、欲しがらないのですよ。晩年の、せいでしょうか」


 さいごの言葉は掻き消されるように小さいものでしたが、確かに『晩年』と聞こえました。どういう意味なのかたずねようとしたとき、ミヨシくんが戻って来ました。

「ジュレ、ちょうど良く、美味おいしそうだよ」

 ミヨシくんは、サクランボと生クリームをデコレーションしたブルーのジュレを、バスケットに収めて戻りました。型に流された大きいジュレです。

「ササオカさんと、ふたりで楽しむといい」

「おじいちゃんは食べないの?」

「私は、血糖値に気を付けねばならないからね」

「そうなの? 可哀想かわいそうだね」

「可哀想ではないよ。私は、今までの人生で存分に食べ過ぎたんだ。しかし、煙草はい足りないようだ」

 禁煙推奨の御時世、老先生の内ポケットから煙草の箱が出てきました。

「すみませんが、ミヨシくんと、ふたりで、お留守番をお願いできますか」

 お留守番なんていう可愛い単語を、久々に聞いた気がしました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る