Ⅲ
翌週の夕刻、端末が止まっていました。
私はバッテリー切れの端末を鞄の奥に、遅刻を承知でピアノ教室に入りました。
彼らのレッスンは私に施されるものよりも、よほど本格的でした。ミヨシくんの演奏する横で、先生が「リテヌート」「クレッシェンド」など、専門用語で指示を出しています。そのとおりにミヨシくんが、だんだん弱く弾いたり、次第に強く弾いたりすると、彼には惜し気の無い賛美が、そそがれるのです。
「素晴らしい」
私は、レッスンの光景に圧倒されました。ミヨシくんの、電気仕掛けのような滞らない演奏。先生の褒め言葉が「ワンダフル」や「セシヴォン」ではなく「素晴らしい」で、あったこと。シャンデリアの灯り、カサブランカの香り。陶酔境に浸りました。
「ミヨシくん、お疲れさま」
先生はミヨシくんの髪を撫で、軽く抱き寄せ、額に接吻さえするのです。
「おじいちゃん、レッスン、ありがとうございました」
と丁寧に言いました。
先生はミヨシくんの祖父。ミヨシくんは先生の孫なのです。
ミヨシくんはレッスンが済んでしまうと、私の横を通り過ぎて、教室を去ります。その際、軽い会釈を交わしてくれました。彼は、こどもなのに、会釈を知っているのです。
「今日は、あの子と、あなたのレッスンを、振り替えさせて頂いたのですよ」
遅刻をしたことを思い出します。
「本日は、遅れて申し訳ございません」
「いいえ。大丈夫ですよ。しかし、何かトラブルでも? あなたが遅刻なさるなど、初めてのことですからね」
「端末がバッテリー切れで、私の時間が止まってしまいまして」
「バッテリー切れ……ですか」
先生は、バッテリー切れという言葉に、不可思議な間と余韻を持たせました。
私は、それが気にかかりましたが、追求することは、ありませんでした。
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