第三百六十七話【日本にW杯を招致する!・悪夢の2002日韓共催W杯 日本編】
「〝話し〟というものは時系列に沿って語るのが解りやすい。よって〝正当な韓国叩き〟はしばし後回しとなるのをご承知頂きたい。これから触れるのは日本サッカーのちょっとした歴史話である」
「——そもそも〝ワールドカップ日本開催の話し〟はいつから始まったのか? という招致の歴史について話しをしなければならないからだ。私がざっと調べてみたところ大まかな流れは次のようなものだ」そう言いながら例によって仏曉は手元のファイルを繰り、そして手の動きが止まる。
「——ついさっき私は『『メキシコ』でさえ単独開催だったのにな』と言った。これが1986年の大会で、ヨーロッパでも南米でもない開催地だったわけだが、この時国際サッカー連盟の会長は『2002年大会をアジアで開催したい』と発言した。16年後の未来を早くも見据えて動き出していたというわけだ」
「——その国際サッカー連盟会長こそが先に触れたブラジル人会長その人であった。国際サッカー連盟のヨーロッパ人役員どもはこのブラジル人会長があまりに長くその職にとどまり続けている事に不満だったようだが、16年後の未来のビジョンを描くためには長く続けるのにも理由はあると言える。むしろ年齢がすっかり中年となってしまっているのに16年後の未来を見据えて生きている人間がどれほどいるのか、とさえ思い私は感心する」
「——さて、1986年と言えば日本はかのバブル景気1年目と云われている。その国力も国際的地位も今の日本とは比較にならない。中国の台頭などもっと後の話しで、この年に『アジアで開催したい』と国際サッカー連盟会長が発言したというその意味は、『日本で開催したい』とイコールであると言っても過言ではない」
「——つまり、いかにも日本人らしいと言うか、自ら図々しく『サッカーワールドカップをぜひ日本で!』と手を挙げたわけではないというわけだ」
「——しかし実際にワールドカップを日本に招致する場合、重大な問題が二つあった。一つはワールドカップのために収容人員の多い〝ばかでかい競技場〟を日本各地にいくつも造らねばならない事。当時造る事自体は可能でもワールドカップが終わった後、その後の使い道が無い。特に地方は」
「——いま一つは、ワールドカップを開催する以上、当然開催国権限で代表チームがワールドカップに参加できるわけだが、参加した代表チームの戦績があまりに散々たる結果で終わってしまうと、それこそ惨禍となる。これはシャレではなく真実シャレにならない。『ワールドカップを招いたせいで却って日本サッカー界が終わりかねない』という問題であった」
「——この二つの問題を同時に解決する方法がサッカーの社会人チームをプロにしてしまおうというプロ化計画であった」
「——つまりワールドカップ日本招致と、日本にサッカーのプロリーグを造る事は二つそろって一組の、要は〝
「——ワールドカップの方のプロジェクト開始は1989年11月、日本サッカー協会はワールドカップへの立候補を正式に決定した。そして1991年6月にワールドカップ招致委員会を発足させる。日本サッカープロ化計画も同時並行的に始まっており、1989年6月には『プロリーグ検討委員会』が日本サッカー協会に設置されていた。1991年2月には〝プロリーグ参加10団体〟が決定。そしてこの1991年という〝年〟にはもうひとつ、〝象徴的できごと〟が起こっている」
「——『ジーコ』。サッカー・ブラジル代表、かつてブラジルに於いて〝黄金のカルテット〟〝黄金の中盤〟と言われたほどの4人の一角、その中で10番を背負った男、と言えばこれで説明がついてしまうほどの名プレイヤーである。そんな選手がサッカーをやるために日本にやってきたのが1991年5月であった」
「——しかも所属チームは茨城県、当時鹿島町といった町を本拠地とする日本の社会人リーグのチームで、しかも2部のチームであった。このチームは日本にサッカーのプロリーグが誕生するにあたりプロ化を決断し、〝プロリーグ参加10団体〟のうちのひとつに選ばれていた。プロチームとなるためのあらゆるノウハウ獲得のためジーコにオファーを出し、そして快諾を得たのだ」
「——その『鹿島』の他、『埼玉県の浦和』、『静岡県の清水』といった、およそプロ野球では考えられない地域がプロサッカーチームの本拠地として選定された。斬新と言っていい。こうして1992年には各チームがそれぞれ形となりカップ戦が行われている。この1992年11月には日本代表は『アジアカップ』を初めて制覇しアジアの頂点を獲得。箔も付けた。そして遂に翌1993年、日本のプロサッカーリーグ『Jリーグ』がスタートする。たちまちのうちに入場券はプラチナチケットとなり、社会人リーグ時代のスタンド風景がまるで嘘のような盛況ぶりとなった」
「——『Jリーグ』スタートの同年1993年秋には『1994ワールドカップアメリカ大会』出場を賭けたアジア最終二次予選が行われている。残った6チーム中上位2チームとなれば本大会出場権を獲得する。この時サッカーファンの間で『ドーハの悲劇』と語り継がれる事になる〝事件〟が起こっていた。熱心なファンなら日付まで記憶に焼き付いている事だろう。1993年10月28日、その最後の試合『日本代表VSイラク代表戦』での事だ。日本は後半ロスタイムにイラクに同点ゴールを決められ2位から3位へと転落、紙一重のところでワールドカップアメリカ大会出場を逃してしまった」
「——ちなみに4年後の1998年フランス大会に日本代表はワールドカップ初出場を果たすのだが、アジア地域の出場国枠は1994年アメリカ大会当時の出場国枠とは違っていた。1994年開催大会のアジア出場枠は『2ヵ国』しかなく、それが1998年開催大会から『3.5ヵ国』に増枠されている。つまりワールドカップの出場国の枠自体が1994年大会は『24カ国』だったものが、1998年大会から『32カ国』に増えているのだ」
「——1998年開催大会の地区予選で最終的に日本はアジア内プレーオフを制しアジア地域3位となりワールドカップ初出場を果たす。しかし、1994年開催大会同様出場枠が『2』しかなかったのなら、この1998年もダメだった事になる。逆説的に1994年開催大会のアジア出場枠が『3.5ヵ国』だったなら、日本は1994年開催大会の地区予選では3位だったため、この時ワールドカップ初出場を果たせた事になる。ためにワールドカップに出られたからといって、以前よりチーム力が向上したのかしないのか、判断に苦しむところではある」
「——しかし、まあ1994年の代表チームも、ワールドカップに出られた1998年の代表チームに比べてそうそう劣ってはいないと言っていいのではないか。実力も伴わないのにプロを自称し始めたわけではない事は1993年の時点で間違いなく証明されていたと言える」
「——ちなみに、日本が1994年アメリカワールドカップ出場を逃した代わりに奇跡的に滑り込みで出られた国が当然にしてあった。その国がどこかというと、あの韓国であった」
「——その時韓国が国を挙げて行った行為が〝いかにも韓国〟であった。日本戦の最後の最後ロスタイムで同点ゴールを決めたイラク代表選手をわざわざ韓国に招待し英雄扱い。彼は韓国のテレビ出演まで果たした。まったく昔からこういう連中なのだ、韓国人は。知れば知るほど、調べれば調べるほど〝敵〟という認識が正しいと、益々確信を深めた次第だ」
「——しかし、本物の本番はこの後だった。1994年大会時に韓国を蹴落とし日本がワールドカップに出場する事ができなかった事は、後のワールドカップ日本招致に暗い影を落とす事になったのである」
「——日本がワールドカップ自国開催のために立候補を表明したのは1989年である事はすでに述べた。では大韓民国という国家がワールドカップを自国に招致しようと、いったいいつ頃から考えるようになったのか? これがまた〝いかにも韓国〟であったという事だ。正に敵がとる行動そのものであった」仏暁は言ったばかりの同じことばをまたも繰り返してみせた。
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