第三百五十八話【今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって】

 仏曉は眼前に掲げていたファイルを降ろし顔を上げる。


「——『>今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって』、この部分が何を意味するか? 諸君らにはとっくに理解できている事であろう。この太宰治作『パンドラのはこ』、この小説が発表されたのは、河北新報という新聞紙上において連載開始、翌年昭和21年1月7日まで掲載された事は既に述べた。当然ながらアメリカ軍が日本を占領していた時代。そんな時代に発表された小説なのだ。その占領軍には〝或る意図〟があった。いわゆる『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』。有り体に言って『東京裁判』を始めるに当たり、この頃からもう日本国民が温和しく服従するよう地ならしを始めていた」


「——その〝思想的仕組み〟は諸君らも周知の事実だ。『日本国民に被害を与えたのは日本の戦争指導者で日本国民はその犠牲者だ』として日本の大衆の怒りをアメリカ合衆国から逸らしつつ、しかしながらアメリカが直接関わっていない『中華民国と大日本帝国』の交戦状態の辺りを日本人の『罪』の起点とし、日本国民全員の内心に罪の意識を植え付ける」


「——もちろんそうしたアメリカ人の内心を見抜けぬほど日本人はマヌケだったとは思いたくはないが、基本日本人は温和しくそうしたアメリカの占領政策を受け入れていったため、傍目にはマヌケに見える」


「——ところが太宰治という男がいた。この男、占領期に『>今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって』と堂々書き放ち、アメリカ人が日本社会に拡散を意図した『日本国民に被害を与えたのは日本の戦争指導者で、』という価値観を実に無造作に拒絶してみせた。アメリカ人目線では〝正面から否定してきた〟ようにしか映らなかったろう」


「——アメリカ軍の占領下でアメリカの意図に逆らいこれをできるのが太宰治。これこそが『自由思想』というものだ。つまり太宰治は作中の登場人物にあるべき理想を語らせるでは済ませず、自ら〝自由思想〟の実践者となってみせた。正に私の好きなことば、『言行一致』とは真実これの事だ」


 仏曉の口自らの解説にようやく咀嚼できたとばかりにここで場内に拍手が響く。かたな(刀)は仏曉と〝思考が一致してしまった〟事を自覚する。


「——それに比べ今の『左翼・左派・リベラル勢力』ときたらどうだ? 戦後80年でもまだ『日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって』の状態だ。奴らは永久に、それこそ永久に『A級戦犯』の話しを続けそうじゃないか」


 仏曉の政治ダジャレに今度は場内に笑い。


「——『便乘思想』というのも的を射たり。日本の『左翼・左派・リベラル勢力』ときたら『日本悪玉史観』という〝外国の思想〟に未だに便乗しているだけの奴らだ。この歴史観はアメリカ合衆国の歴史観であり、中華人民共和国の歴史観であり、ロシア連邦の歴史観であり、北朝鮮の歴史観であり、そして大韓民国の歴史観なのである。いちいち親切にこうした国名を挙げてくれればいいものを『左翼・左派・リベラル勢力』の言う事といえば『外国様がお怒りだ! 歴史修正主義だ! 日本が孤立する!』といったレベルで言行がおよそ自由思想とはほど遠い。『日本人には歴史解釈の自由は無い』という価値観を押しつけてくる外国人どもの忠実な実行部隊となっている。コイツらは自らの意志で〝言論の自由〟を放棄している。それでいて『日本の言論の自由が脅かされてる』と同じ口がほざくとはとんだお笑いぐさだ」


 これにさらに鳴り響く拍手拍手拍手拍手。仏曉はその拍手が鳴り止むのを辛抱強く待ち、収まり始めた頃合いでまた話しを始める。

「——しかしこれで終わりではない。太宰治作『パンドラの厘』の凄みは。これがただの恋愛小説なら、およそ書く必要があるのだろうか、といった事が書かれているのだ」と仏曉、また再びファイルを眼前に掲げ朗読開始体勢。

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