第三百五十七話【君たちは自由思想を何と考えるか?】

「——さて太宰治作『パンドラのはこ』というよりはフランスに対する〝熱き思い〟を思わず吐露してしまったが、『パンドラの厘』の真髄はここではない。朗読を続けよう」そう〝断り〟を入れ、言った通りに仏暁は先を続ける。



「——『>越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。「いったいこの自由思想というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい』神様はその願いを聞き容れてやった。然るに鳩は、いくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔ひしょうが出来ません。」「あ、」と固パンは頭のうしろを掻き、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。』、」



 ここで仏曉は朗読の手を休めた。


「——作中の登場人物の言に拠ればこれは『カントの例証』だとの事。翻って我が身に当てはめ考えてみるに、我々『右』の者達は『左翼・左派・リベラル勢力』の闘争の対象にされてきた。つまり奴らだけが〝自由思想〟を謳歌してきたと言えるが、我々は『左翼・左派・リベラル勢力』に対しいつ圧政や束縛をしてやったというのか? むしろ我々の方が戦後80年もの長きに渡り奴らに圧政され束縛され〝悪人〟とひとくくりにされ〝ナチス呼ばわり〟されてきたのではなかったか? 自由に歴史観を語ると途端に『歴史修正主義者!』と攻撃され、自由な発言の『訂正』、その後の沈黙までも強要されてきた」


「——なら逆に我々は我々で連中を闘争の対象にしたっていいじゃないか。そうしないと〝我々にだけ自由思想が無い〟という意味になるぞ」


(ひええっ、『社会の分断』を〝良くない〟と考えるどころか積極的に肯定してるっ)と恐れおののくかたな(刀)。


「——それにまだまだこの先、これからが実に興味深い。なにせ小説の登場人物達が〝現代日本の政治界〟を論じているわけだから、」そう前置きし、仏曉は朗読を再開する。



「——『>僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ちつき払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追及して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思いわずらうな、空飛ぶ鳥を見よ、かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。』」



「『>「それからまた、自由思想の内容は、時々刻々に変るという例にこんなのがある。」と越後獅子は、その夜は、ばかに雄弁だった。どこやら崇高な、隠者とでもいうような趣きさえあった。実際、かなりの人物なのかも知れない。からださえ丈夫なら、いまごろは国家のためにも相当重要な仕事が出来る人なのかも知れないと僕はひそかに考えた。「むかし支那に、ひとりの自由思想家があって、時の政権に反対して憤然、山奥へ隠れた。時われに利あらずというわけだ。そうして彼は、それを自身の敗北だとは気がつかなかった。彼には一ふりの名刀がある。時来らば、この名刀でもって政敵を刺さん、とかなりの自信さえ持って山に隠れていた。十年経って、世の中が変った。時来れりと山から降りて、人々に彼の自由思想を説いたが、それはもう陳腐な便乗思想だけのものでしか無かった。彼は最後に名刀を抜いて民衆に自身の意気を示さんとした。かなしいかな、すでにびていたという話がある。十年一日の如き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎないという意味だ。日本の明治以来の自由思想も、はじめは幕府に反抗し、それから藩閥を糾弾し、次に官僚を攻撃している。君子は豹変するという孔子の言葉も、こんなところを言っているのではないかと思う。支那に於いて、君子というのは、日本に於ける酒も煙草もやらぬ堅人などを指さしていうのと違って、六芸に通じた天才を意味しているらしい。天才的な手腕家といってもいいだろう。これが、やはり豹変するのだ。美しい変化を示すのだ。醜い裏切りとは違う。キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。狐には穴あり、鳥には巣あり、されど人の子には枕するところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。一日も安住をゆるされない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ」』」



 ここで仏暁、朗読の手を休める。

「——時代は既に変わっている。本作の言う通り、正に『>十年一日の如き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎないという意味だ』。さぁて、いよいよこの後に来るぞ。諸君、太宰治というおとこの真髄がこれだ」と仏曉が見栄を切るかのような表情を見せファイルを眼前に掲げるような位置で両手に持つ。そして朗読を再開。



「——『>日本に於いて、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。——』」

 朗読はたったこの一文で区切られた。



 場内、水を打ったように静まり返っている。傍目には皆固まってしまっているかのようだった。

 しかし身体は動かせずとも思索だけは回り続ける。

(っっっって、それって、)かたな(刀)の頭の中でもそれは始まっていた。

(これは間違いなく戦後に書かれた小説で——)

 考えているうちにかたな(刀)の頭の中で『昨日の軍閥官僚』が、別のことばだが意味は変わらない現代風のことばへと置き換えられていた。

 それは『』————

『>日本に於いて今さらA級戦犯を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。——』



(これが……太宰?……)かたな(刀)には〝信じがたいものを聞いてしまった〟としか思えなかった。


(自由思想というのは、反抗精神。圧制や束縛のリアクションとして同時に発生する闘争すべき性質の思想……)


(これ、キャラクターに喋らせているだけじゃない。太宰治その人が実践してる!)

 そこまで思い至ると半ばかたな(刀)は放心状態————

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