第三百四十三話【戦後民主主義な高齢者は他人の子どものために我慢などしない】

 仏曉は指を三本立てる。

「具体的話しをしよう。『異次元の少子化対策』、これにかかる総費用は3兆円超だという。政治家どもがこの費用を全世代の日本国民から集めることは簡単だろう。何しろ奴らは国家権力なのだからな、『新たな義務を国民に課す』事など権力者にとっては実に造作も無い事である」


「——しかし、3兆円超を国民から搾り取ってそれで成功ではない。『一定程度以上の出生数の向上』という結果は大前提だが、そうした結果が出たとしても『結婚出産世代』以外の世代から上がるであろう怨嗟えんさの声を、ここまでクリアしてこその〝成功〟なのだ。だがこの点についてマトモに考えている者がいるようにはとても見受けられない。政治家なのに政治的センスを欠くというのは致命的と言える」

 ここでいったん僅かばかりの間をとる仏暁。改めて場内をぐるりと見回す。



「私は敢えて諸君らのを今から言う」と、奇妙な〝断り〟を入れた。当然場内はざわめく。


「——私の目の前にいる諸君らのほとんどは一般的には〝高齢者〟と言われる。だが『昭和』や『平成前半』の高齢者とは明らかに別種の高齢者である」


 仏曉のこのことばに再び場内がざわめいた。


「——長らく『高齢者』と言えば〝古い考え〟、もっと直接的な表現に言い換えると『戦前の価値観』が肌身に染みついている人間だとされてきた。要するに『お国のため』というやつだ。これを肯定するのが高齢者だと。誰もが知るそうした代表者を一人挙げるなら小説家にして政治家でもあった『石原慎太郎』氏であろう。しかしこの方は、もう何年も前に鬼籍に入ってしまっている。歳月はそこまで流れ続けているという事なのだ」


「——今現在の高齢者の大半は〝〟である。戦前生まれだとしても昭和18年生まれだとか19年生まれだとかで、当時の学校、『国民学校』に通う年齢にも及んでいない。乳幼児時代という物心があやふやな時期に戦前期を生きていたというケースがせいぜいだ。日米戦争開戦年の昭和16年生まれでも終戦時の昭和20年にようやく4歳なのだ。これでは戦前の教育など受けようがない。先ほど名を出した『石原慎太郎』氏は昭和7年生まれ、単純計算で終戦時は13歳だ。現代の学年にすると中学1年か2年の年齢。『戦前の教育』を受け戦前の価値観を生身で体験して知っていると言える限界値、即ちその最後の世代がここら辺りだろう」


「——ではその『戦前の教育』とは何か? 端的に言ってそれは『お国のために』以外あり得ない。『異次元の少子化対策』とは正になのだ。だがこの価値観は徹底的に否定されてきたのではなかったか? 今現役の政治家達もその加担者であった。つまり、この現代の高齢者は戦後民主主義教育を最初から叩き込まれている世代で、『お国のために』などという価値観など最初から持ってなどいない!」


「——分かり易すぎるくらい戦前の価値観を現している『生めよ増やせよ』という標語がある。もう少し教養の高そうな言い換えをすると『子どもは国の宝』という事になるだろう。しかし、この現代の高齢者の中にこうした価値観を持たぬどころか、あからさまな反感を露わにする者がいる」


「——こんな話しは聞いたことがないだろうか? 保育園や、小学校の運動会や、あるいは公園を管理する自治体に、『子どもの声がうるさい! なんとかしろ!』と抗議する高齢者が実際いると」


「——要はこれは究極の『ミーイズム』だ。国家を否定的に取り扱い個人の権利こそが大事だという戦後民主主義教育の効果が出ている。こうした価値観に基づく教育下では『国家のため・お国のため』は一転徹底的に否定される」


「——これでも私は元々教育者であった。そうした教育は一概に否定できないにせよ『ミーイズム』という副作用を生んだという現実は否定できない。この価値観の下では自分の子どもは可愛いが、他人の子どもなどどうでもよくなってくる。かくして『子どもは国の宝』という価値観は死に体となるのだ」


「——とかくメディアは世代を区分したがるが、こと『教育』という視点から物事を見た場合、高齢者だからといって明らかに他世代と異なる国家観を持っているわけではない。この点についてこの現代日本ではジェネレーションギャップは存在しない」


「——しかし当然、別の視点ではジェネレーションギャップは


「——現代の高齢者はきっとこう言うだろう。『異次元の少子化対策など俺たちの世代には無かった。しかし俺たちの世代には赤ん坊はどんどん生まれたろう!』と」


(あ、確かに、)とかたな(刀)。


「——現代の高齢者の中核層はもはや昭和二十年代生まれ。『団塊の世代』が含まれている。『自分達が子どもの頃は国家からろくな支援が無かった。でも子どもは数多く生まれてそうして育てられてきた』。これは真実である。『自分達がろくでもない扱いを受けながらも結果を出したというのに、今の若い奴らにだけこれほどにまで手厚い支援を我々の世代が犠牲になって出すなど許せない!』。きっとこういう被害者意識を抱く事であろうな。『年金』がテーマになると若年世代の方が高齢者世代に対する被害者意識を持つようだがこのケースでは逆状態となるのだ。こうなるといよいよ抜き差しならぬ世代間対立の発生が予測される」


「——今さら言っても後の祭りなのだが重ね重ね無念であったのはやはり〝タイミングを逃した〟というこの点だ。タイミングとは先に触れた『天の時』の事だ。むろん2000年から2005年の期間を指している。この頃に結婚出産適齢期だったのが『団塊ジュニア世代』だと私は言った。『団塊の世代』の特徴は、、という点にある。つまり、その分子どもを持つ人間が大半だった。もし『団塊ジュニア世代』に対する異次元の少子化対策が行われていたとしたら、『団塊の世代』にとっては〝〟と言えるのだ。『ミーイズム』の観点から『団塊の世代』が異次元の少子化対策に反意を抱く可能性はほぼゼロだ」


「——また2000年から2005年の頃の高齢者なら、戦前の思想的影響を強く受けていた高齢者がまだまだ数多くいた。『子どもは国の宝』と言われて、『確かにそれはそうだ』と、納得するだけの価値観を持ち合わせていた事だろう」


「——しかしこの現代に生きる高齢者たちにとっての結婚出産適齢期世代はもう彼らの子どもの世代ではない。彼らの子どもの世代は社会に出た時の社会の経済状況が影響し、結局結婚できなかった者も少なからずいる。もはや一口に『団塊の世代』と言っても一塊に同じ立場に立ってはいない。子どもが結局結婚できなかった親の立場では『孫』を肌身で感じようがない。世代的に〝団塊の世代の孫世代が受益する〟でも、に〝自分達が受ける事のできなかった手厚い受益が与えられる〟としか思えないのだ」


(高齢者を目の前によくこんな演説がぶてる)と感心するやら呆れるやらのかたな(刀)。

 ここでやおら仏曉が身振り手振りを止め、居住まいを正した。

「改めて、〝不快な話し〟をよくぞ聞き続けてくれたと諸君らにはお礼を言いたい。むろん私はこの現代に生きる高齢者だけをあげつらい『老害』扱いする気は毛頭無い。今さらの『異次元の少子化対策』は高齢者ならずとも、受益者世代以外の世代が反意を持つ政策であるという話しをこのまま続けようと考えている。続きに興味のある方はどうか拍手で応えて頂きたい」

 仏曉がそう言うと場内から拍手が湧く。


(こんなところで終わられたらたまらない、ってことだよね、)とかたな(刀)は思うしかない。そう思ったかたな(刀)は一応『異次元の少子化対策』の受益者世代ではある————

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