第三百三十一話【新聞社の社長がテロの黒幕?】

「結論から言うと、『誰も非難しないテロ事件』となった。それどころか賞賛されていたとさえ言える。テロを実行した『来島恒喜』の地元福岡での葬式には参列者だけで五千人。これとは別に沿道にてその葬列を見送った人間も相当集まったというから、もしかしたら一万人くらいの人々が見送りに来たのかもしれない。〝一人のテロリストの死〟にこの人数だ」


「——弔辞を読んだのはもちろん『頭山満』で、極めて短く、故人にこうことばを贈った。『天下の諤々がくがくは君が一撃にしかず』と」


「——『しかず』とは『及ばない』だとか『かなわない』という意味であり、『諤々』とは『遠慮せずに正しいと思うことを述べたてるさま』だというから、天下国家についてあれこれ正しい事を述べようと、あの爆弾の一撃にはかなわないという、思いっきりのテロ大肯定であった」


「——世間がこういう空気になって一番困惑したのが爆弾を投げられた『大隈重信』本人だろう。テロ事件直後は『あくまで条約改正をやり遂げる!』と息巻いていたようだが、だんだんと世間の空気というものが当人のところにも伝わってきたのだろう。こうなると〝被害者意識〟をむき出しにして怒り出すと人間としての器が小さく見えてしまう。早い話しが大物政治家に見えなくなってくる」


「——かくして〝大隈重信大物伝説〟が出来上がる事になる。というのも大隈重信は来島恒喜を評して『愛国の精神を以て行動したる志士』『献身的行為にして身を殺して仁を成したるものなり』と言葉を寄せているのである。さらには『玄洋社』が毎年行っていた来島の法事に香料すら贈り続けた。もはや〝元維新の志士〟のメンツにかけてそうせざるを得なかったとしか思えない」


「——これは後年の話しになるが頭山満はこんな事を言っている。『来島は元来、大隈に対して何らの怨念も無い。彼はただ条約改正に反対してこれを止めさせようとしたのみである。大隈もまた片足くらいでその命が助かったのは彼のために喜ぶべきではないか? もし改正案を断行していたら千年後まで汚名が残ったであろう。大隈は爆弾で政治生命を救われたのじゃ』と。まったく〝遺憾の意〟すらも欠片ほども見当たらず、見事なくらいに清々しい言いっぷりと言うしかない」


「——そしてこれが意外と重要だと思うのだが、この事件、未遂に終わり暗殺には失敗している。一方『大隈重信』は、というと、頭山の言った通り政治生命を失わず事件の後も外務大臣に返り咲いたり、果ては首相にまで上り詰めている。しかし『今度こそは大隈を仕留めてみせる』と、玄洋社社中に再度〝大隈重信暗殺〟を計画する動きは無かった。あくまでテロは〝政治家の行為〟に憤り起こしたもので〝政治家個人〟に対する怨恨ではなかった事が、からこそ、逆に証明されてしまったと言える」


「——『頭山満』は〝政治生命〟にしか言及しなかったが、今この現代においても『大隈重信』の名は名門大学の開学者としてなお名高いままである。その名もズバリ『大隈講堂』と名付けられている象徴的建築物も健在だ。右脚一本と引き替えに『汚名』とは真逆の『名声』がまだまだ輝き続けているのだから、頭山満の清々しい言いっぷりにも説得力があるというものだ」


(いちおう関係者としてこれにどういう反応をすれば……)とかたな(刀)。


「——ところで、世間の空気がどうであれ、要人の暗殺あるいは暗殺未遂事件が起こった場合、この現代も明治の頃も警察的にはメンツ丸つぶれである。警察は『このテロは来島恒喜の単独犯である』などとは。『玄洋社』が絡んだ組織的なテロだと睨むのはある意味当然。たとえ『来島恒喜』が玄洋社の名簿から己の名前を抜いていようとそこは関係が無かった。『頭山満』始め、玄洋社社員が片っ端から警察にしょっ引かれ取り調べを受ける事になる」


「——警察としては『頭山満が〝大隈重信暗殺命令〟を下の者に出した』、という構図を描いていたようだが〝実行犯〟がその場で自殺してしまっているため本人を取り調べようもない。物的証拠も出てこない。玄洋社社員の中には『一人でやりやがるとはけしからん奴だ』と『来島恒喜』に憤った者もいたというから〝頭山満が命令した〟というよりは〝頭山満がめなかった〟というのが真実に近いのだろうと考える。ただ、テロに使用した手製の爆弾を〝頭山満が手配した〟という話しもあり、にも関わらず最終的に逮捕され有罪となるといった事もなかった」


「——『玄洋社』は西南戦争直後『もはや言論をもって戦うしかない』と、自由民権団体として発足し、新聞など作って言論活動をしてきた団体であった。が、ここまではこの時代にあまた生まれた政治団体の中の一つに過ぎなかった。しかし、テロ事件以降『玄洋社』という政治結社の名は全国区となり、同じく『頭山満』の名も全国に轟く事となった。『言論』をやっていたのに皮肉な事と言うしかない」


「——こんな話しも伝わっている。海軍大将を勤め、内閣総理大臣にまで上り詰めた『山本権兵衛』の〝頭山評〟だ。曰く、『頭山という人間は善いことも悪いことも無造作にやる。殺人・放火、何でもやらせておいて、それで自分は一度も引っかからないのは実に不思議だ。あれこそ本物の怪物じゃ』、と」


「——ただし山本の言には少し続きがあって、『』と続くのがなんとも味わい深い。自分も政治家なのに『政治を狙ったテロを許すな!』とか言い出さないのが凄いところである」


「——私は『玄洋社』の話しを始める前に、まず『テロ』の話しからし始めた。『〝あまり『許せない!』と思われない〟どころか、却ってというものがある。それがだ』と」


「——諸君らも『テロ』についてずいぶん印象が変わったんじゃないか? 新聞紙上で非難してもダメ、市民団体を結成して関係各所に陳情してもダメ、すると残された〝手段〟はなにか? という話しになる」


「——ホンモノの左翼は『日本赤軍』の実例で証明されている通り実際テロもやるが、『左派・リベラル勢力』は少し別だ。連中はこういうフレーズを多用する。即ち『テロは絶対に許されない。言論には言論を』と。しかしこの言い分には矛盾があるのではないか? これに〝公式〟としての価値があるとするなら、『言論活動』をした結果、何かしらの〝効果〟を生まなければならない」


「——とは言え『言論』を言うならば、あらゆる主張が『言論』と言えてしまう。その全てが〝効果〟を生むとは言い難い。大まかに言って『言論』には二種類があるのだ。それは『大衆の支持を得ている言論』と、『大衆の支持を得ていない言論』である」


「——大衆の支持を得ていない言論であれば〝効果〟を生まなくてもある意味当たり前で、政治家がこれを無視したとしてもやむを得ない。しかし大衆の支持を得ている言論を政治家が無視し自身が信奉する価値観へと猪突猛進し続ける場合には『テロは絶対に許されない。言論には言論を』という価値観は矛盾の塊となる」


「——大衆の支持を得ている言論を主張していながらそれがなんらの効果も生まない場合、『テロは絶対に許されない。言論には言論を』という〝公式〟はモドキに過ぎず、絶対的価値観ではなかったと言える。即ちそれはテロを許す隙間を与えていると言えるのだ。諸君らはどう考える?」


 そう仏暁に問われ、(さぁどうしよう、)としか考えられないかたな(刀)であった。古びたプレハブ小屋というこの限られた空間の中に限っては『テロはなにがあっても絶対に許されない』という空気がだんだんと薄くなりつつあった。

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