第三百二十八話【新聞人・頭山満、言論戦で勝利する】

「『頭山満』が新聞社の社長をやっていた新聞『福陵新報』は、不平等条約を改正する名目で新たな不平等条約を自ら求める条約改正案に、当然の如く反対し紙面で言論戦を展開していた。さて、問題はその結果がどうなったかだ」


「『ペンは剣よりも強し!』、意外に思うかもしれないがこういう結果になったのだ。これについては事の成り行きを紹介しておく必要があるだろう」そう言ってまたも仏暁は手元のファイルを何枚か繰った。


「——そもそも『外国人が日本の裁判官になれるようにして不平等条約を改正しよう』などとバカな事を言い出したのはどこのどいつだ? という事になるが、これは元々は伊藤博文内閣の目論んだ事である。個人名を出すと、当然『初代内閣総理大臣・伊藤博文』。加えて『初代外務大臣・井上馨いのうえかおる』、この二人のコンビの仕業なのである。少し補足をしておくならば交渉責任者の『井上馨』の方がより熱心だった」


「——『井上馨』は不平等条約を結んでしまった欧米列強と、個別交渉ではなく共同交渉する事を志向し、列強共同の条約改正のための準備会議を開催する事とした。〝共同〟とする利点は一回の合意で全ての問題に片をつけられるスピード感にある。反面不利益な点としてはどうしても『1対多数』で交渉する構図となり、数的不利に陥る。つまり列強視点で言うと理不尽な要求を押しつけるハードルが下がるのだ。しかし第一次伊藤博文内閣はこれまでの個別交渉の不首尾も手伝い共同交渉を選択、内閣発足の翌年明治19年、即ち1886年5月から条約改正のための準備会議を始めた」


「——さて、一部繰り返しになるが『外務大臣・井上馨』による〝条約改正案〟について少しだけ詳しく説明しておかねばならない。でなければ、どこら辺りがろくでもないかが解らなくなる。骨子は三点。『裁判所に外国人裁判官を任用する事』『重要なる法律を作る場合は公布前に外国の承認を得る事』『外国人は日本国内のどこにでも住める事』の三つである。〝条約改正案〟とは言ったがこれらは元々日本側の発案ではなく、『憲法が無い』事を理由にされ、列強各国の要求を受け入れてしまったが故の〝妥協の産物〟の結果である。最後の一つは一見現代なら容認されそうな感じはするが、自衛隊の基地の側であるとか尖閣諸島であるとかは〝どこでも〟の範疇に含まれないような気はする」


「——この三つの条件の中で最も世上の評判の悪かったのが『裁判所に外国人裁判官を任用する事』で、これをどのように運用する事を想定していたのかというと、これが今聞いても噴飯モノで『日本国内で起きた外国人が絡む事件では、全ての裁判所で〝外国人裁判官を半数以上任用する』というものだった」


「——『日本国内で起きた外国人が絡む事件』については二通りが考えられる。外国人が被害者になった場合と、外国人が加害者になった場合だ。どちらのケースでも相手が日本人だったとしよう。外国人が被害者になった場合には重い処罰を、逆に外国人が加害者になった場合は軽い処罰を、と容易にこうなる事が予想される」


「——しかし私はどこか『日本人』を信用していないところがある。この現代『半分は日本人裁判官ならいいじゃないか』と言って井上馨の譲歩案を支持する輩が出かねない。そういう奴らがいる事すら想定しこう言ってやる。2015年の『熊谷6人殺害事件』を覚えているか⁉ 犯人のペルー人は日本人を6人も殺しておいて心神耗弱だとして無期懲役で済ませたのが日本人裁判官だ。外国の顔色をうかがったとしか考えられない。これが日本人の弱い性質なのだ。日本人だけで裁いてもこの体たらくなのにこれに外国人裁判官が加わったらさらに目も当てられない結果になるのは確定的だ!」


「——少し話しが横道に逸れたが、伊藤博文内閣が条約改正交渉をやっている正にその同じ年に重大事件が起こる。同年10月の『ノルマントン号事件』と呼称される事件がそれだ」


「——これはイギリス船ノルマントン号が紀州沖で難破した事に端を発する事件で、船長含むイギリス人船員だけが救命ボートで脱出し、同船に乗っていた日本人乗客二十三名の方が置き去りにされ全員溺死したのである。では乗客を残し逃げたイギリス人船員達にはどのような処分が下されたかというと、領事裁判制の下でイギリス人船長には三か月の禁錮刑に処せられただけ。当初は〝無罪判決〟だったからこれでもほんの僅かばかりはマシということになってしまうが、結局賠償も無かったのだ」


「——外国人が日本国内で起こした事件を外国人に裁かせるとこういう事になるという、これ以上ないくらいの実例が起こってしまったのである。こんな中で『外国人が日本の裁判官になれるようにする』などと外国に提案するなどもっての外で、こんなものは単に『条約を改正しました』というアリバイ造りのための行為でしかない。それはあたかも現行憲法の9条2項をそのままにして『憲法9条を改正した』と言い張ろうとする行為と構造的に大差無い」


「——こうしたおバカな不平等条約改正案に対しては、むしろお雇い外国人の方が真っ当であり親切でもあった。内閣法律顧問として雇われたフランス人『ボアソナード』氏はこの『不平等条約改正案』を内々に示された後に意見を述べた。やはり指摘されたのは『裁判所に外国人裁判官を任用する事』という箇所で、厳しい批判意見を述べてくれた。その意見というのが『我々が目指しているのは、日本の独立と主権確立だ。外国人を裁判官にするのは、却って日本の独立精神を失わせる結果になるのではないか』という立派なものだった。いったいどちらが日本人なのか」


「——しかしこれだけを紹介しただけでは外国人しかこの改正案を批判しなかったように聞こえてしまう。日本の政治家の中にも『日本の主権』に言及した者はいた事は一応指摘しておいた方がいいだろう。農商務大臣を務めていた『谷干城たにたてき』という人物がそれだ。曰く、『井上殿は条約改正という自身の手柄にばかり目がくらみ本来の目的を見失っている。我々が目指すべきは主権国家としての日本の独立であり、条約改正そのものではない。井上殿は形だけの条約改正をやろうとしている』と。これなどこの現代の憲法9条改正論にもそっくりそのまま当てはまりそうだ」


「—— 一方で『外務大臣・井上馨』は同じ『日本の主権』について語っていても、『主権国家樹立を目指す我が国において、領事裁判権の撤廃は早急な課題。外国人裁判官の任用は、我が国の憲法整備が西洋のそれに遠く及ばない現状では止むをない譲歩だ』といったような体たらく。『結局裁くのは外国人ではないか』と易々と突っ込まれるお粗末な言い分だ」


「——しかし『井上馨』のお仲間の『伊藤博文首相』はドイツから帰国するなりこれらの批判意見に反発も露わに『我が国の憲法は西洋のものを範としなければならないほど未発達なものだ。条約の改正にはそれ相応の代償が必要なことは明確ではないか』などと主張し、『ボアソナード』や『谷干城』を〝裏切り者〟呼ばわりしたのである。その結果『谷干城』が農商務大臣を辞任する事態にまでなってしまう。ただの国務大臣よりも内閣総理大臣の方が偉かったという事だろう。ただし、『伊藤博文』個人よりは『高杉晋作』の方が偉い。この時高杉晋作が生きていたらブン殴られそうな言い様ではある」


「——『ボアソナード』はまた『重要なる法律を作る場合は公布前に外国の承認を得る事』についても物言いをつけてくれた事について言及しておくべきだろう。伊藤博文内閣は『これは単なる通告だ』という事にしたつもりらしかったが、公布の前にいちいち法律内容など外国に伝えていたら干渉してくれと言わんばかりである」


「——『ボアソナード』の最終的結論はこうだ。『この改正案は従来の不平等条約よりも』と。遂に〝江戸幕府以下〟の烙印を押したのだ。というのもこんなダメ押しをしている。『これでは大衆の怒りは日本政府へと向き、〝維新〟の時と同じくらいの大変動すら起こりうる』と。改めて思うに、さすがフランスは〝革命の国〟である。このフランス人『ボアソナード』氏に対しては『メルシーボーク』以外に贈ることばがない」


(おぁ、フランスかぶれが久々に、)と思うかたな(刀)。


「——実は『伊藤博文』と『井上馨』には弱点があった。というのもこの時日本政府は交渉内容について国民には一切報せない秘密主義をとっていたのだ。独断専行の秘密主義ではやっている事が『大老・井伊直弼』とほとんど同じである。唯一違っていた点が、外向きには『これこそ日本帝国の完全な独立への着実な方途である』と調子の良いことを言っていたという、たったこれだけ」


「——この『ボアソナード』の意見書は政府内においてはあくまで〝内部文書〟という扱いだったが、なぜか外部に漏洩した。良心を持った日本人が政府の中にいたという事だろう。こうした情報を広く世に知らしめたのが当時社会に定着しつつあった〝新聞〟だ。当然輿論は沸騰する。あれほど政府内で無双状態だった『伊藤博文』と『井上馨』であったが、結局条約改正会議を〝無期限延期〟としてしまった。しかしこれでも事態は収まらず最終的に『外務大臣・井上馨』は辞職に追い込まれる。案外『〝維新〟の時と同じくらいの大変動すら起こりうる』が効いた可能性がある。伊藤も井上も長州出身で〝政府を倒した側〟に立っていた経験を持っていた。だからこそ〝倒される〟事が絵空事には思えなかったのかもしれない」


「——ここで思い出してみて欲しい。『玄洋社』が『福陵新報』という新聞を作り『頭山満』が社長に就任したのが明治20年、即ち1887年の8月なのである。そこで初代の伊藤博文内閣の期間と照合してみた。初代伊藤内閣は明治18年、即ち1885年12月22日に始まり、明治21年、即ち1888年4月30日に終わっている。『福陵新報』は正にこの間に創刊されている。これを考えるに『新聞社社長・頭山満』にも福岡県限定とは言え言論戦の一翼を担い一定程度の功績があったと言えるのではないか」


「——とまれ、この時はもう、中央政府が外国とどんな条約を結ぼうと、国内で文句を言う奴には『安政の大獄』が如き方策で対応する、というやり方ができなくなっていたのだ。この時はこれからの時代『言論戦』で国家権力に勝てると思われた」


(〝この時は〟と言ったってことは……)とこの先に不穏なものを感じるかたな(刀)であった。

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