第三百二十二話【FIRE】

「まずつまらない事を言おう。『FIRE』とは別に余暇を作ってキャンプファイヤーを楽しもうだとかそういう意味ではない。『フィナンシャル・インディペンデンス・リタイア・アーリー』の頭文字を取ってつけた造語だという事である」


「——これに『早期リタイア』という日本語訳をつけるのはまだ許せるとしても、これに『経済的自立』などという訳をつけるのは噴飯モノである」


「——生活するためには金が要る。その金はどうするのだ? というのは出てきて当然の疑問だ。生活費は『資産運用』して出した利益からひねり出すのだそうだ。『資産運用』する事を大前提として、その上がりの利益だけで生活していく、それが『FIRE』である。私には腐臭しか感じないが諸君らはどうか?」


「——まったくこれほど不道徳なくせにこれほど堂々と社会に君臨している価値観もない。投資の運用益というのは自分以外の誰かの労働の結果生まれた利益の一部を頂戴しているという意味で、他者の労働の結果生まれた利益で生きていく事を〝自立〟などと抜かすのはとことん性根が腐っている」


「——『FIRE』とは〝労働無き利益で生きていく〟という意味なのだ。この価値観は欧米発だというが、キリスト教的価値観では『労働無き利益』を罪悪としていたような気がしたが」


「——ただ、道徳など説いても聞く耳を持たれないのがこの現代社会でもある。が、しかし〝合理性があるか〟という観点からもこれほど不可解な価値観はない。定年にも達していない年齢で働くことをやめられる『早期リタイア』は、通常億万長者にでもならない限りあり得ない筈で、たとえ億万長者になったとしても、それが宝くじに当たった事によるような場合、銀行員は当選者当人に対し、『でも仕事はやめないで下さいね』とアドバイスしていると云う。こうした従来からの前提をぶっ壊す価値観が『FIRE』なのである。つまり億万長者にならなくても『働くのはもうごめんだ』という、頭のネジが吹っ飛んだような価値観なのだ」


「——そんなバカみたいな事が本当に可能なのか? 普通はそう考えるものだ。だが今の現実、『どうすればFIREできるか?』などと公然と語っていい空気がこの社会に醸成されつつある。『彼を知り己 を知れば百戦殆からず』という故事もある。奴らの言い分も一応は紹介しておく必要はあるだろう」

 仏暁は手元のファイルを繰る。

「——『投資』をするためには元手となる金が要るのはまず大々大前提だ。自分の家、自分の車などを持つ事を考えず、若いうちから投資元本をひたすら貯めていく。そうして運用益で生活可能という目処がついた時点で仕事を辞めてしまう。先ほど私は高校の学習指導要領が改訂され、学校の授業で『資産形成の視点に触れること』になっていると、そう言った。正にこうした道を国家レベルで若者に勧めていると言うしかない」


「——そこで今度は実際にどういった数字が提示されているかについて述べようと思う。まず入り口時点での関心事は『〝元本〟をいくら用意するか』、これに尽きる。当然元本を元手にその運用益で生活をしていこうというのだから、この元本には手をつけないのはである。そこで、自分なりの1年分の生活費、即ち支出額をまず計算し、運用益がこの支出額とイコールとなるようにすれば、手持ちの金を一切減らすことなくこの先も暮らしていけるというのが『FIRE』の理屈だ」


「——これにツッコミたい事はあるが今は控え、話しを続けよう。『4%ルール』なるルールがある。『4%』とは何か、というと『1年で元本の4%、これくらいの運用益が出るはずだ』という目算で、誰がこれを言い出したのかといえば、想像通りと言うべきか、例によってアメリカ人である。『アメリカ株式を中心として資産運用すれば年間4%の利益は見込める』という、一種傲慢ごうまんささえ感じさせる主張である」


「——とまれ、この『1年4%の利益以下』に『1年分の支出額』を抑える事ができたなら、『働かないで食っていける』という理屈になるはなる。ただし理屈だけは、だ」


「——例えば日本の平均年収を400万円とすると、その400万円の運用益を出すために元本は1億円必要だ。これだけでも『ふざけるな!』と言いたくなるが、腐敗臭を感じるのはここからが本番である」


「——総務省が調べた『家計調査報告』なる調査データに拠れば、2020年の単身世帯の平均支出額は年間およそ180万円だという」


「——この年180万円という支出に、先に触れた『4%ルール』なるルールを当てはめるためには年想定支出額の25倍を元本として用意する必要があるという。この場合だと180万円×25=4500万円となる」


「——資産が運用によって4%増えるという事は、計算式にすると4500万円×1.04=4680万円。4680万円から元本の4500万円を引けば運用益は正に180万円となる」


「——何やらこんな事を喋っていると『極右の思想家』というよりは『怪しげな投資コンサルタント』になったような気分だ」仏暁がこう言うと場内から失笑が漏れる。


「——しかしこの『FIRE』、二重の意味で机上の空論である。まずどれほど節約しようと4500万円もの現金を貯められる大衆はめったにいない。真っ当な職業で考えたら年収1000万円レベルの大企業のサラリーマンなら可能だろうが、それくらい給料を取っていると人生単身のまま終わる者の方がまれであり、たとえ単身であったとしてもそれくらい給料を取っていると1年を180万円では暮らさないのである。単身世帯の支出が平均年180万円というのは収入が低いため、しかたなくやりくりした結果出てきた数字に過ぎないのだ」


「——しかもだ、運用益がこの先30年、40年と、ずっと4%なければこの生活は破綻する。人生100年時代などと言っているから下手をすればこの先50年、60年と4%の運用益が出続けなければならないのかもしれない。率直に言ってそんな事があると思うかね? 例えばアメリカが『利上げ』を行っただけでいくつかの銀行が経営危機に陥っていたが、このように『金融不安』というものは定期的に起こるものだ。これが〝一定の調子〟である以上、元本そのものが崩壊する時が来る確率の方が高いのではないか? 世界の秩序についても、エネルギー問題についても、この先数十年単位でずっと心配が無いのかね?」


「——誰もそんな事は保証しない! 〝元本崩壊のXデー〟は必ず来るだろうし〝その時〟が来たなら同じ『FIRE生活者』でも、『富裕層』と『大衆』との決定的な違いが誰の目にも明らかとなるだろう。『あーぁ、まあいいか』で、これまでと変わらない生活を続けられるのが『富裕層』である。自宅にガソリンを撒いて『FIRE』するのが『大衆』だ」


(これは、寒いオヤジギャグと言って笑えない。『FIRE』の末路が『FIRE』って……、)とかたな(刀)。

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