第三百七話【『労働市場の流動性』、織田家の人事、その末路】
「——私は具体名として『山内一豊』の名を出したが、別に彼一人だけが特異というわけではない。織田家の悲劇は本能寺以降本格的に訪れたと言える。信長の死後、織田家の家臣のほとんど、まあ『山内一豊』も元々その中の一人だったわけだが、ほぼ大半の者が合理的な選択をしたのである」
「——織田家の他の家臣達は『織田家』という組織に対する忠誠心が極めて薄く、信長無き後の織田家を『これまで通り支えよう』などと考える者は希で、そんな事を考えていたのは『柴田勝家』くらいではあるまいか。それどころか家臣の中にその権力を簒奪しようとする者も現れた。それが『羽柴秀吉』こと『豊臣秀吉』だ」
「——織田家の家臣達は一斉に『羽柴家』即ち『豊臣家』へと雪崩を打って転職をしていった。織田家はその存在こそ消えはしなかったが、その衰亡は目を覆うほどであった」
「——とは言え『ネオ・リベラル』の奴らは頭のネジが飛んでいるようなところがある。織田家家臣達の行動を『労働市場の流動性』であるとか、『労働流動化』であるとか言って肯定し出すのかもしれない。現にこうした価値観が奴らの中ではトレンドらしいからな」
「——要するに『ネオ・リベラル』の奴らが欲しいのは、自分達支配層が不要と判断した労働者を解雇するに当たり、そうした行為が社会的に後ろ指を指されぬよう、それをあらかじめ正当化しておくための大義名分なのである。その格好の事例となり得る信長亡き後の織田家臣団の行動を、奴らが否定できるわけがない」
「——だが、『ネオ・リベラル』の奴らがほとんど日常的に日本との比較対象とするアメリカで、流動する労働者がどれほどいるか、その数字を聞いた者がどれほどいるだろうか? その数値を大いに広報もしないで『労働市場の流動性』などと抜かしても、我々としてはそこに大衆を騙すペテンの臭いを感じ取るしかないのである」
「——そもそも『労働市場の流動性』と言われてもまずその中身が不明ではないかね? 私には突然意味不明のことばを社会の支配層から一方的に告げられたようにしか感じない。そして私は考えた末に、これを〝意図的誤訳〟と断ずる」
「——では『労働市場の流動性』を正確に表すとどうなるか? それは『極短期失業率』である。〝ただ失業して違う仕事に就きました〟という意味ではない。離職して一ヶ月未満で次の職場に移る事を『労働市場の流動性』などと表現しているのである」
「——私は少し調べてみた。アメリカにおける『労働市場の流動性』がいかほどか、をだ。データは日本銀行のサイトから引っ張ってきたもので、その元の元はOECD、経済協力開発機構のデータなので内容的には間違いない。2016年におけるその数値は1年で4.2%ほどに過ぎない。しかも主要国を比較しての最大値がこれなのである。逆に言うとアメリカにおいてさえ、95.8%の労働者は流動していない」(https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2017/data/ko171005a2.pdf参照・『労働市場の流動性』で検索)
「——そこで気になるのは日本だ。日本は、というと『労働市場の流動性』は0.7%ほどで、アメリカと比べ6分の1である。アメリカは日本と比べて『労働市場の流動性』は6倍もある。『ネオ・リベラル』の奴らはことさら両国の倍数だけを強調し実数には目をつむる。自らの説にとって都合が悪いからだ」
「——奴らは事あるごとに『アメリカと比べて』云々と、典型的な『海外出羽の守』な奴らだが、そもそもアメリカ社会は手本に値する幸福な社会だろうか? ヨーロッパと比較した場合ドイツと日本の『労働市場の流動性』はほとんど変わらないのである」
「——仮に信長亡き後の織田家を見限り逃げ出す家臣が4.2%程度で済んでいたら、豊臣秀吉は天下人にはなっていなかっただろう」
「——1年でたったの4.2%程度、それだけの人間が辞めてすぐ転職しただけで社会が劇的に良くなるわけがないだろう! 逆に流動化しすぎた場合、それは社会の破壊活動にしかならない。流動する人数が過半数を超えた程度でも〝流動された側の組織〟はこれまで通りの機能を有しなくなる。するとその組織が維持存続できるかどうかすらも怪しくなる。そうなった場合、結局の所ほとんどの人間が流動を強いられるのである。必然、社会は安定性を欠き無秩序状態へとまっしぐらだ」
「——ほんの少しでも使う頭があったなら、行き過ぎた労働流動化は社会の崩壊を招くというのは目に見えている。あのアメリカであってもせいぜい4.2%程度がその上限なのである。たったの4.2%程度である。4.2%では普通〝少数派〟とは言わんかね? そのたったの4.2%の人間の行動は社会の規範たり得ない。私は何度でも繰り返し言ってやる! あのアメリカにおいてさえ95.8%の人間は労働を流動したくない、と考えているという事だ。『労働市場の流動性』や『労働流動化』などという価値観は、万国ほとんどの労働者の共感を呼んでいない価値観と言える。あのアメリカにおいてさえ、だ!」
「——これでもなお『労働市場の流動性』などを現在声高に叫ぶ奴らは日本の社会秩序破壊を目論むアナーキストなのだ。実に頭の悪い支配層だとは思わないかね? 社会が無秩序状態になったら支配層はこれまで通りに支配できなくなるというのにな!」
「——織田信長の織田家のまたたく間の没落は『今この時この瞬間、利益をもたらさない奴は要らん』という人事で造られた組織の末路なのだ。『ネオ・リベラル』という価値観は、その価値観を信奉した者自身にさえこうした悲惨な結末をもたらす事になる。これぞ正に歴史の教訓である」
「——そしてこの様を冷徹な目で見ていたのが織田信長の同盟者、『徳川家康』であった」
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