第二百七十二話【ヒョロ長な男】
墨書で『玄洋舎』。かたな(刀)がその看板を読んだのとほぼ同時に彼女の方へとよく通る声が飛んできた。
「このバティマンのコンシェルジュはどこですかーっ⁉」
(ヒョロ長の男! というかここにはその男しかいない。それは向こうから見ても同じ。わたししかいないことに気づかれてる、)
かたな(刀)は身長百九十センチ超の男から声を掛けられている。
(これってマズイ展開じゃないの⁉ 距離は詰めない方がいいのは間違いない。って、このプレハブ小屋に『コンシェルジュ』なんていると思ってんの? あの男頭はまともなの? それに最初に言った『バティナントカ』ってなんなの?)などなど、ひたすら狼狽するしかないかたな(刀)。心臓の鼓動が早くなってくる。
「ア、『バティマン』はもちろん建物の方。『コンシェルジュ』は管理人です。この建物の管理人はどこですかーっ?」と再び声が飛んでくる。
(なら最初からまともな日本語で喋って欲しい)
「それが誰だか知っているんですか?」かたな(刀)は大声で言い返す。
「ウィ! ムッシュ遠山。
(『とおやま・きみは』。伯父さんの名前だ! それと『ウィ』『ムッシュ』でようやく分かった。何なの? このヘンなフランスかぶれは)
「なぜ建物の持ち主を知っているんですかーっ⁉」かたな(刀)は大きな声で問う。
「いま分かりました。ムッシュ遠山はあなたのオンクル。あなたは彼のニエスですね?」
(またしても意味不明。『オンクル』ってのはアンクルのことなの?)
「あなたこそ誰なんですーっ?」かたな(刀)は質問に質問で返す。(邪道なんだけどね)と思いながら。
「私ですかーっ⁉ 日本人大量餓死の危機が現実になったため、いよいよ立ち上がった男でーすっ‼」
(は? この男は何を言ってるの? 頭がヘンなの?)
「私は自己紹介しましたよ。あなたもどうぞーっ」
(そっち名前言ってないじゃん、)
(——とは言えこんな男の名前を聞いても意味が無い。偽名を名乗ることもあり得るし——)
かたな(刀)は躊躇する。(こんなのに自分の素性を明かすなんてきっとろくなことにならないだろう)そんな事を考えているとヒョロ長の男は続けてかたな(刀)に問うてきた。
「姪の方ですよね?」
!
「どうやらあなたが就職活動に遂に成功することのなかったマドモアゼル遠山ですか?」
かたな(刀)は何をどうすべきかと少し混乱していたらしく、反応がほんの少し遅れた。遅れた分の時間をかけ気づいた。(わたしの名字が『遠山』だと、あの男が知っている?)
(遠山公羽の姪だと何で知ってるの? 『こんなところに来るのは親戚に違いない』と当たりをつけて適当に言ったの? って言うか、な、な、な、ななっ。なんてとんでもないこと言ったの! たったいまっ。『就活』って言った! 『ついに成功しなかった』って言われたっ! 直接、面と向かってそんな失礼なことを言うなんて信じられないっ‼)
(ハ? 待って。わたしの身の上というか、直近の事情まで知ってるのはなぜ?)かたな(刀)の思考は千々に乱れていく。
「さては図星といったところですか? コミュニケーション能力が足りないとかそんなことを言われたってとこですか?」
妙に背の高いその男は、一歩もかたな(刀)に近づかず、大声で話し掛け続けている。
「悪かったわねー」かたな(刀)がマスクをずらし大声で言い返す。
「おや、当たりですか」
(バカな会話がやまびこになりそう)
「ところであなたは何かひと言でも言い返すことでもしたのでしょうね?」かたな(刀)に向かってそんな声が飛ぶ。
「できるわけありませーん」
「なぜです?」
「そりゃ、こちらは採用して貰う側ですから。そんな反抗的な態度をとれるわけがありませーん」
「コミュニケーション能力云々を言われた時点で見込みはないとは思いませんでしたかー? だったら後することは思いっきり暴れ回ることくらいじゃないですかー?」
「それで溜飲を下げたつもりになるなんて子供じみてまーす。いーえ、子供でーすっ」
「情けない大人よりはまだましだとは思いませんか?」
「ああ言えばこう言うですねーっ」
「そもそもコミュニケーション能力っていう言い方が変だとは思いませんかーっ? この語彙には引っかかるところがあーるっ!」
「どこが引っかかるんですかー?」
「少しは考えて下さいよーうっ」
(……考えろって)
「いいでしょーう。では私が言いまーす。コミュニケーションとは双方向である。そうは考えませんかーっ? あなたとコミュニケーションが取れないというのはあなたにも問題があるが、あなたの相手にもコミュニケーション能力が足りないからコミュニケーションできないのではないですかーっ? それを一方的にあなたにのみ、つまり就職活動者側にのみにコミュニケーション能力が無いと断定し切って捨てられる風潮はおかしくはないですかーっ? しかし私はある時合点がいきましたーっ。実はコミュニケーション能力とは一を聞いて三くらい理解するという意味だったのでーすっ。『話さなくてもそれくらい察しろ』というのがコミュニケーション能力の正体だったわけでぇすっ。即ち以心伝心。日本人同士の間でのみ通じる特殊感覚です。極めて日本的な昔ながらの感覚を採用側が求めているに過ぎないのにコミュニケーション能力などと外来語で包装しあたかも新しいもののように見せかけこれを求めるなどやり口が卑劣でーすっ。『話さずとも普通それくらい察しろ、それが古くからの日本だ』、とは言えないものだからわざわざそうした造語を造って流布させているっ。その一方で就職には英語力は必須だというのもおかしな話しでぇす。短く言葉を話しただけでその三倍もの意図が十二分に楽々通じる能力があるなら、やれ何点獲っただの、厳密な英語力を問うこと自体矛盾していると言えまーすっ。単語を四つか五つ並べるだけでいいじゃないですかーっ? 企業が採用した人全員にそんな素晴らしいコミュニケーション能力があるなら、カタコト英語でも十二分に通じるはずですよーっ。あらゆる企業で素晴らしいコミュニケーション能力を持つ者のみが日本人であれ外国人であれ採用されるというならば話す言葉が日本語だろうと英語だろうと片言の言葉で全て通じるはずじゃあありませんかぁっ⁉ コミュニケーション能力が必須ならどうして英語資格の点数が必要なんでーすっ?」
かたな(刀)は呆れた。
(いや凄い、と呆れた。マイクも拡声器の類も使わずよく遠くまで通る声だこと。しかも実に長い口上だ。それになんというぺらぺら口の上手い男だろう。まさか詐欺師? それもお年寄りをたくさん集めて無駄なものを売るセールスマン? でもそれにしては見すぼらしすぎる車に乗ってきたものだ。悪い奴ってのはもうちょっと良い車に乗るもんだよね)
「このボロっちぃ車、高速を走ったら分解するんじゃないですかーっ?」
かたな(刀)は言い返した。それくらいしか言い返す事を思いつかなかったからである。〝高速〟云々はむろん東京方面からやってきたという前提で。もしそうなら高速を使う筈だからだ。
一体この男はどこから来たのか? しかしこの男は〝高速〟の話しになどまるで食いついてはこなかった。代わりに言ってきた事はこうだった。
「ボロ・オトモビルではありません。〝ドゥ・シュヴォ〟です」
「え? ドスボっ?」
「ノンノン、 〝ドゥ・シュヴォ〟ですよ。マドモアゼル」
(なんなの? 完全にヘン!)と、かたな(刀)が内心で毒づいたところで遠くからエンジン音。その音が次第に近づきつつある。白い軽トラックだった。その車はかたな(刀)の目の前、プレハブ小屋前の空き地に入り、腐った黄色のボロ車の隣で動きを止めた。止まるやすぐドアが開き、一人のやけに老け顔の中年男性が運転席から、一人の若いモンが助手席の方から降りてきた。二人ともに農作業着姿。最低限の間を置いてバム、バンと乱暴に軽トラのドアを閉める音がふたつ響いた。それがやけに大きな音のようにかたな(刀)には感じられた。
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