第二百六十九話【会社の中で酒盛りを始める男たち】
祭記者が姿を消してから10分ほど経っただろうか、その彼が戻ってきた。
「買ってきました缶ビール!」とコンビニのポリ袋を高々と掲げてみせる。
(本当に買ってきたのか、缶ビール)と、さすがの天狗騨記者もこれには固まる。
「どこで呑むんだ?」と思わず訊いてしまった。
「静狩さんは今夜中に新幹線で帰るんでしたよね?」祭は改めて静狩に確認した。
「そうですが」と返事する静狩。
「だったら〝今ここで〟しかないですよ。天狗騨キャップはこの後アメリカ行きでしょう? この先こうやって集まる機会なんていつになるやらですよ」
(そう言われればこの三人が集まる機会などこの後あるかどうか——)妙に感慨が湧いてくる天狗騨。(——しかしココ会社だぞ)
と思ってる傍から祭に缶ビールを手渡されてしまう天狗騨。続けて祭は静狩にも一本手渡す。そして当人は一番早く缶ビールの蓋をプシュッと開けてしまった。既に泡が開口部から漏れている。
(あ〜ぁ)と思う天狗騨。
「祭君、君があまりに〝エリート顔〟してて分からなかったが、昔不良だったろ?」天狗騨は訊いた。
「いやぁ、天狗騨キャップから〝エリート顔〟って言われると嬉しいですね、そう見られたかったんですよ」とまんざらでもなさそうな祭。まだひと口も呑んでいない筈だが早くも酔っ払ったような事を言っている。
(なんか当たってるのか?)
ここで静狩が提案した。
「人の流れのあるフロアの真ん中はよくないですよ。エレベーター前なら少し広いでしょう? その隅なら」と。
「じゃあ行きましょう!」と即座に祭が応じた。天狗騨はこの男にしては珍しく、すっかり〝引きずられペース〟に巻き込まれている。多少その当たりを察したか、祭は言った。
「大丈夫ですよ会社で前後不覚になるなんてあり得ません、なんたって350ml缶ですから」
しかし、の割にはコンビニのポリ袋の中からは、まだガチャガチャ缶どうしがぶつかる音がする。
「祭君、何本買ったんだ?」と天狗騨は訊く。
「それぞれ二本ずつ。合計六本です」
(それじゃあ700mlじゃないか)と思わず内心で突っ込んでしまう天狗騨。
かくして三人の男達はエレベーターホールの隅へ。次に缶ビールの蓋を開けたのは静狩。開けるだけでなくどかっとあぐらをかきその場に座り込んでしまった。缶ビールの蓋をプシュッと開ける。このトンデモ行動にまたも天狗騨は(おおおっ⁉)と驚くばかり。驚いている最中にもう祭までフロアの床に尻をつけてしまっている。天狗騨が一番最後になった。天狗騨もその場へ座り込みようやく缶ビールの蓋を開ける。打ち合わせた訳でもないのに静狩と祭が声を合わせ、
「天狗騨さん/キャップっ、アメリカ栄転おめでとうございまーす!」と乾杯の音頭。
思わず「ありがとう」と天狗騨も応じてしまいビールをぐい、と呑んでしまう。もちろん静狩も祭も。ひと口目を呑み干してしまった後、
「会社で酒盛りなんてその栄転が無くなったりして、な」と天狗騨。
「我々は今日はもう退社して家に帰る途中なんです。別に勤務時間中じゃないからいいんですよ」と祭。
「何か言われたら全て私の責任にしてもらっていいですから」と静狩。
目線を思いっきり下げれば普段の景色もどこか違った世界のように見える。だがこの場所は紛れもなくASH新聞東京本社1Fエレベーターホール。
(ここであの日あのアメリカ人支局長と会ってしまったのは運が良かったのか、悪かったのか——)
「そう言えば行く前からなんですが、天狗騨さんはいつまでアメリカに?」と静狩が訊いてきた。天狗騨も今なんとなくその事を考えようとしていた。
「それが長くなりそうなんですよ。通常は語学留学に1年でその後外国特派員としての勤務なんですが、留学に3年の時間をかける事になってしまいましてね」と天狗騨は答えた。
「すると後の2年は?」
「語学留学だけじゃあ話しにならないらしく、最低限正式なカリキュラムをクリアして〝修士号〟を獲っておかないと〝学閥員〟として扱われないようでして」
「それは〝向こう〟の方から?」
「ええ私は与党の有力政治家の息子でもないのに、いったい何を考えているのやらですよ、アメリカ人は」
「じゃあその後外国特派員をやるとなると……」
「ええ、どんなに短くても6年は戻って来られないでしょうね。長いですよ」
「もしかして天狗騨さんは気が進まないのですか?」静狩は訊いた。
「いやいや、そんな事ないでしょう! 明らかな出世コースなんですから!」とここで祭が割り込んでくる。
「いや、6年もあれば、これからの6年で日本もだいぶ変わってしまうだろうな、と思いましてね、しかもいい方向に変わるという予感がしない。そこで頼みた——」まで天狗騨が話していたその時、たった今一階に着いたばかりのエレベーターのドアが開いた。エレベーターが人を吐き出す。
目の前、正面に地べたに座り込んで酒盛りをしている男が3人。当然注目の的となる。
「げ、天狗騨」と思わず声が出てしまったのは中道キャップ。実に運の悪い(?)タイミングだった。
「あっキャップ、ちょうど良かった!」と天狗騨が中道キャップに声を掛ける。掛けられてしまった以上、中道は無視して通り過ぎる事もできない。
「中道さん、もう〝上がり〟ならまだビールありますよ!」と祭まで声を掛ける。
「いや、俺はここでは呑まないから」と中道。
「じゃあお土産です」と言いながら祭は立ち上がり「開けなきゃいいでしょう」と無理矢理一本中道に持たせてしまう。思わず受け取ってしまった中道。受け取ってしまったのが運の尽き、さらに祭から「行きましょう、行きましょう」と半ば強引に〝輪〟の中に引きずり込まれ座らされてしまう。
「ところで天狗騨さんは今何かを言おうとしていました?」座り込んだままの静狩が天狗騨に尋ねた。それは正にその通りだった。
「実は静狩さんを含め皆さんに〝お願いしたい事〟がありまして、」と天狗騨。
「私はSZO新聞ですが、」
「所属新聞社などこの際関係がありません。『仏暁信晴』という極右の男について、もしなにか小耳に挟んだ事でもあればなんでもいいから報せて欲しいんですよ」
「誰ですそれは?」と静狩も祭も中道も、全員そんな名は知らなかった。査問会で会社の上役相手にその人物の存在をぶった事はあっても、同僚・後輩等には一度も語ってこなかった名前である。
「誰、と言われても、元中学校教師の極右、としか言い様がありません」天狗騨は答えた。
「天狗騨キャップはそんな無名の男がそんなに気になるんですか?」と祭が訊く。
「あの男が政治家を目指しているのならたいした事はないんだ。しかし思想家を志向している以上危険なんだ」
「何が危険なのかよく解らないが、」と相変わらず缶ビールの蓋を開けないで持ったままの中道キャップが疑問を投げかけた。
「過去に例がありますよ。『松下村塾』という、所属人員せいぜい50名ほどと言われている私塾が歴史を動かしてしまったっていう実例が。仏暁信晴の場合もう優にその50人を超えています」
「なんだかよく解りませんが、その人物の動向を知りたいわけですね?」と真面目に静狩が応じた。
「ええ、ぜひお願いします。ただ、出没場所は日本全国のようで、静岡県に現れる確率も47分の1なんですがぜひ」
しかし静狩は乗ってくれたが中道と祭はぽかんとしたまま。
「とにかく『仏暁信晴』という名さえ覚えてくれたらそれでいいんです」
話し始めたら長々とした嘘くさいホラ噺にしか聞こえず、ビールの気は抜けてしまうし静狩の帰りの新幹線も無くなってしまう。だから天狗騨はそう言った。
「別につまみは無いんだしいいでしょう」と謎の理屈を口にして天狗騨はグイと一気に缶ビールに上方四十五度の角度をつけた。つられるように静狩と祭も。
ただ中道キャップだけは相変わらず缶ビールの蓋を開けないで持ったまま。
『天狗騨は会社で酒盛りをしていた』。
事実は事実でもこれは専ら静狩や祭のせいだったのだが、全て天狗騨がやらかした事になった。こうしてまた新たな天狗騨伝説がここに生まれてしまったのである。
伝説の伝説たる所以は、これが〝訓告〟程度の処分で済んでしまった事である。会社の主流派と言っても今やその程度の力でしかないという事を逆に証明してしまった〝ちょっとした事件〟であった。
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