第二百六十八話【静狩記者上京してくる】

「8万部ですか。イマイチ微妙な数字ですね……80万部なら『おおっ』となるんですがね」そう天狗騨記者が言った相手はSZO新聞静狩記者。

(もしかして静岡県の中でしか売れてないのか)とさえ思っている。


 ここはASH新聞東京本社の1Fフロア部。夕闇に包まれているASH新聞東京本社にSZO新聞静狩記者が訪ねてきている。天狗騨アメリカ栄転(?)の話しを聞きつけ、所用ついでにここに寄っている。ただ今立ち話中。


 ASH新聞とSZO新聞紙上で同時に連載された特集記事、『SDGsとリニア中央新幹線』がタイトルもそのままにASH新聞出版から〝完全版〟と銘打たれ新書として刊行された。先ほど天狗騨が口にした〝8万〟という数字はこの新書の現在の総発行部数である。もう売り出されてから数週間が経過した後の数字であった。


「まあ善戦と言いますか、これでもたいしたものですよ」静狩記者はそう言った。


 ちなみにこの本の著者の名は『SZO新聞リニア取材班 代表・静狩清司  ASH新聞リニア取材班 代表・天狗騨誠真』と、なっていて印税の分配は少々込み入っている。

 天狗騨の懐にもいくばくかは入ってきたが元々金目当てで本にしようとした訳でもない。世に対する影響力を少しでも持続させようと、そう目論んだ上での新書化である。ちなみに中身は対談本なので2時間少々、長くても2時間半で読めてしまうものだ。

 元々これは、あくまで天狗騨の個人的アイデアに過ぎず、SZO新聞側が乗ってくれなければそこでこの話しはオシマイだったが、静狩記者に持ちかけたところトントン拍子に話しが進んだ。ちなみに静狩記者とは出版後初めての対面である。


「まさかこの自分の名まで載せて頂けるとは思いませんでした」と邪気無く言ったのはASH新聞の祭記者。このリニア特集の間だけ天狗騨の部下をやっていた男である。静狩記者が上京してくるというので彼も取材活動に関わった当事者としてこの場に呼ばれていた。


「そこは当然だろう」と天狗騨は言った。(向こうが『SZO新聞リニア取材班』と名乗りたい、というのなら、こちらもバランスで『ASH新聞リニア取材班』と名乗るのは必然だからな)

 そういう訳で祭の名前も巻末に載っている。むろん天狗騨は特段気にするでも恩に着せるでもない。だがどうにも〝その後の事〟がスッキリとはしていない。

「一冊の本になってなんとく〝やり尽くした感〟になっていますが、JRTKはルート変更もせず、掘れる所まで掘ってるんでしたよね?」とボヤき気味に天狗騨は静狩に訊いた。


「残念ながら『既成事実を造ってしまえ』です。現在南アルプスルートのまま静岡・山梨県境数百メートル手前まで掘り進められてしまっています。元より〝県境〟なんてものは人間が引いた線に過ぎませんから自然相手に通じる筈もありません。もういつ大井川の水系に影響が出てもおかしくはありません」


「結局効果があったのは〝人のいるところ〟。大深度地下の部分だけですか。しかし東京まで繋がる見込みも無いのによく掘る」つぶやくように天狗騨は口にした。


「ただ大深度地下工事について国民の認識はどんどん厳しくなっています。例えば北陸新幹線の大阪延伸について、京都では大深度地下に新たな新幹線を通すようですが、その工事に反対する署名が2万数千以上集まったと聞きますし、〝利便性のための犠牲〟が容認されなくなりつつあるのは有利な材料だと思うしかありません」それでも静狩はこう言った。


「新幹線と言えばリニア南アルプストンネル工事許可と引き替えにするかのように、新幹線静岡空港新駅の話しが出てきていますよね?」天狗騨は訊いた。


「あれはちょっと懸念材料ですね。攻撃側にネガティブキャンペーンの材料を与えるようなもので〝大井川の水問題〟は口実だったのかと、そういう事にされかねません」


「そうなるとせっかくあれだけ書いても、こっちの立場が無くなってしまう」


「もしかして、表の連中の拡声器の声ですか? 天狗騨さんの名前も聞きましたが」

 驚くべき事に〝日本が誇るリニア〟の工事に反対したとしてASH新聞に怒りをぶつけるデモ隊は毎日押しかけている。むろん今日も。


「いったい普段は何の仕事をしているのかと思いますね」天狗騨が皮肉混じりに言った。


「まあリニアの方は後は残った者で続けるだけです。今日はまあこういう辛気くさい話しは無しということで純粋に天狗騨さんのアメリカ栄転を祝いに、という事で——のつもりで来たんですが〝ちょいと一杯〟は難しそうですね」


「ええ、酒は呑めないわけじゃないんですが、外に出るのは。だから今は会社が車を出してくれて社用車で重役出勤してます。なにせ顔写真付きで特集記事が載りましたから変装でもしないと。ただ髭は剃りたくはないんですよ」


「その髭はやはりなんらかのポリシーですか?」


「ええ、『長いものには巻かれないぞ』という表現です。あくまで個人的こだわりですが」


「そうだったんですか⁉」と驚いたような声をあげた祭。「そんな事言ってくれなかったじゃないですか」とも続けられた。


「こんなもの人にいう事じゃない。だいいち訊かれてもいないしな」天狗騨は答えた。


「身の危険を感じるという事ですか?」静狩が訊いた。


「だから〝アメリカ行き〟となっているなら日本の治安も終わりですね、向こうは銃社会だってのにですよ。それより静狩さんの方は大丈夫ですか?」


「静岡の方は平和なもんですが、この建物(ASH新聞東京本社)に入るのにも複数の身分証の提示に金属探知機をくぐりさらには訪問目的について細かく要件記入を求められました。ようやく立ち入れても部外者はこの一階のみです。だからここまでご両人にはご足労頂いたわけですが、東京はもうすっかり〝危険を前提にした街〟なんですね」


「それはリニアとは関係無いのであまり気にしないで下さい。これは論説委員刺殺事件の影響です。まあ容疑者は就活生を装い正面から入って来ているのでそういう意味ではちょっと感覚はズレているんですが、警察の指導のようですよ」


「そう言えば警官の姿も見ましたが」


「デモ隊がいつまでも押しかけてくるので今のところは、ですね」


「すると我々はもうする事が無いですなぁ」と静狩。〝する事〟とはもちろんそこら辺りでの〝ちょいと一杯〟の事である。


「じゃあ俺が缶ビールでも買ってきますよ、コンビニで」と突然素っ頓狂な事を言い始めたのは祭。


「は?」と反応するだけの天狗騨。


「ちょっとここで待っていて下さい!」そう言うやもう祭記者は駆けだしていた。

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