第二百五十八話【天狗騨記者の内なる真の敵(その1)】

(おっとそうだ。さぼっちゃいられない)と、天狗騨記者はASH新聞社に送りつけられてくるほぼほぼ〝抗議のメール群〟のチェックを再開した。


 『天狗騨』『天狗騨』と天狗騨の名にまじって今日はやけに『韓国』の名も出てくる。

(そう言えば……)天狗騨は今朝のASH新聞社説を思い出す。ブラウザを立ち上げすかさず自社サイトに接続、本日付の社説を表示し確認する。タイトルに『日韓』と付いている。


(やっぱりこれか、)

 タイトルをクリックし社説の中身を画面上に展開する。改めてざっと斜め読みし、そして改めて過去に読んだ分との記憶と照合する。

(これ、今日だけじゃないんだよなぁ)


 社説の中身はいつもどこかで聞いている『北朝鮮問題に対応するため日米韓の連携を』というもの。『そのためには日本の側も歩み寄れ』といった、日本に対し、韓国に譲歩するよう迫る定番中の定番な主張であった。

 これは天狗騨に言わせると(考えないで書ける社説)という事になる。当然その中身も気に食わない。

 〝日米韓の連携〟をアメリカが求める理由を『軍事協力の要求・事実上の三国軍事同盟』だと喝破している天狗騨は、『日本にとって失うものはあっても利益らしい利益が無い』として北朝鮮がどうとか言われようと反対の立場である。


(韓国が北朝鮮に攻撃された場合、日本が韓国防衛のために兵站担当として参戦するなどモロに集団的自衛権の問題じゃないか! このASH新聞の上の奴らは普段は集団的自衛権に反対しているくせに、なぜ日米韓の連携を集団的自衛権行使の問題だと一欠片も思わないのか!)


(これが台湾なら『シーレーンの防衛』という大義名分も成り立つが、日本の韓国防衛になんの大義名分があるというのか! 中立政策が正しい解だ!)


(そもそも日米の軍事協力関係の深化を望まないのがリベラル・左派の基本路線だというのに、ここに韓国がたった一カ国混じるだけでどうして結論が正反対になってしまうのか!)と常に自陣営(?)にムカムカしている。


 ところで、今天狗騨はASH新聞の社説を自社サイトで見ているが、新聞社のサイトの画面右端には『今よく読まれている記事』というランキングが常に表示されていたりする——、

(あれ? こんな記事が、)反射的に天狗騨がその記事タイトルをクリックする。

 それは、

『若者は本場の中華料理に嵌まり、それを受け入れない親は「中国を下に見ている」』というものだった。

 記事の日付を確認する天狗騨。日付からして天狗騨が担当を任されたリニア特集にかかり切りの頃のものだった。



(このタイトルには……論理というものが無い……)

 天狗騨は今、まったくあり得ない信じがたいものを見てしまっているという感覚しかない。


(『ガチ中華』だかなんだか、若者がどんな料理を好むかはさておき、その料理が苦手だとどうしてその国を『下に見る』事になるのか? 『下に見る』ってのは要するに〝差別してる〟って意味だ。単に食べ物の好き嫌いの話しがどうして差別の話しになる?)


(〝この理屈〟を他の国に当てはめるとどういう感じになる?)天狗騨は自問自答を始めた。


(日本のカレーを『カレーだ』と思っている日本人が、インドのカレーを食べたらどうなるか?)

 これはシミュレーションというやつである。


 カレー発祥の地はインドであるのは間違いないが、今や日本のカレーはインドのそれとはかなり違っていて、インド人にとっては〝カレーであってカレーでない〟変質してしまった料理になってしまったのだと、天狗騨はどこかで読んだ記憶があった。


(となれば本場インドのカレーを「これはちょっと食べられない」、という苦手意識を持つ日本人は必ず出てくる。その場合、「インドのカレーが食べられないのはインドを下に見ているからだ」という理屈が成り立つ事になる。これが成り立つだろうか?)


(どう考えてもおかしいだろ、これ)


(じゃあ、今度はここに『日本』を当てはめたらどうなるか? 『刺身の食べられない外国人は全て日本を下に見ている』と、これが言える理屈になる)


(あまりにバカすぎるだろ)率直に天狗騨は思った。いや、思うしかないと思った。


(それにしてもひでえ事しやがるな)天狗騨は憤った。

 〝ひでえ事〟は誰がしたかというと、他ならぬこのASH新聞社の記者であった。つまりは一応〝同僚〟。


(バカをさらし者にして、『これは俺(ASH新聞記者)が言ったんじゃありません』ってのはなんなんだ?)


 この記事タイトルの場合、『本場の中華料理を受け入れない親は「中国を下に見ている」』はASH新聞記者のことばではなく、記者が取材した取材対象のことばなのである。事もあろうにコレを見出しにした事について天狗騨は憤っていたのであった。


 これを俗に『偏りコメンテーター』戦術という。自らの口で言うにはリスクがあり、そのリスクを背負いたくない場合に、誰かちょうど良い具合の代弁者に喋らせるのである。この場合コメンテーターレベルにも達してないので天狗騨は〝バカ〟と表現した。

 これは一般人相手に言うには実にキツい表現であるが、その人物が中国についてこうも言っているのだからそれも無理もない。

 『>歴史や政治を気にしないから』と。そうこの記事中にはあった。


(中国の政治を気にしないって事は、香港における人権抑圧や、ウイグル・チベットにおける虐殺も気にしないって事だ。いったいどういう人権感覚だ。虐待を受け続けている他者の痛みにこれほど鈍感な人間など、この俺が許せると思うか!)

 こんな具合にカッカ・カッカしていて、ようやく今ごろになって天狗騨は気がついた。

(この取材対象、30代半ばかよ。俺と大差ないじゃないか!)

 これでまた天狗騨のイライラが募り始めた。(そこまで歳を重ねたならもう少し賢い筈だろ!)と。


(だいたい、『歴史も気にしない』なんて言ってるって事は、この取材対象が『南京大虐殺も気にしません』と宣言してるのと同じだ。つまりこう言われてしまった時点でこの話しは日中関係の〝美談〟になど仕立てようが無いって事だ。それに気づかないウチ(ASH新聞)の記者も負けず劣らずのバカとしか言い様がない。この記者、。まったくよく記名記事で書けたモンだ!)


 天狗騨は誰でも彼でも身内でも容赦が無い。取材対象のみならず身内の記者もバッサリだった。その結果、ある種の平等主義にはなっている。取材対象を小馬鹿にして扱いながら自らも馬鹿道へと堕ちていくという自社の記者、彼に言わせればコレは(ミイラ取りがミイラになった状態)としか言い様がなかったのである。



(しかし——)と天狗騨はここで意識して、敢えて努めて努めて意識して自らをクールダウンさせていく。



(だが、これは、取材対象や記事を書いた記者を小馬鹿にして済む問題じゃないぞ。この記事を紙面に掲載する事にGOサインを出した上層部が、いるって事だ……)


 そんな天狗騨の目に、より驚愕すべき記事タイトルが飛び込んできた。

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