第二百五十三話【論説主幹、遁走する】

「うおうさおう?」天狗騨記者は改めてこの社会部フロアを見回す。ついでに祭記者の顔も。そして再び口を開いた。

「誰が?」

 誰も右往左往している様子が見えないのでそう訊いた。


「論説主幹ですよ」祭は言った。


「別に主幹は国賊にされてないだろう?」天狗騨は訊いた。


「主幹に天狗騨キャップほどの肝の太さがあれば良かったんですけどね」


「〝右往左往〟の中身が分からんが」


「『辞める』とか言い出しているそうですよ」


「〝辞める〟って会社をか?」


「〝論説主幹〟だけを辞めたいそうですよ。虫のいい話しです。それで理由が何だと思います? 『急に腰痛が、』ですよ。それで部署転換願いですよ。しかもぼろりと『安心できるところ』が希望だと。ここまで露骨に言いますか? ウチの部長なんてカンカンですよ」


「左沢さんか」


「はい」


 天狗騨はあの短気を絵に描いたような容貌の左沢政治部長の顔を思い出していた。

(〝上役に逆らいやがって!〟みたいな事、俺には言ってたのに、『上役』、関係無いじゃないか)そう思ったが、目の前の祭記者はその左沢の覚えが目出度いらしい。だから天狗騨は思った通りを口にするのをやめた。

 天狗騨の方にも〝個人的な感情〟というものがある。銀座のあの喫茶店で、ひらの一記者の話しを熱心に聞いてくれたのが論説主幹なのである。


(『悪く言われる様など聞きたくない人』というのはいるものだ)と、ここは〝お互い様〟を自覚した。

「やっぱりあの東大生テロリストによる論説委員刺殺事件がきっかけか、」天狗騨は言った。


「確かにいつも顔を合わせている人間がああいう亡くなり方をすればショックでしょう。聞けば偶然大便で難を逃れただけって事らしいですから」


「〝だいべん〟って便意のことか?」天狗騨にとってはまるで初耳である。


「そうです。ほんの偶然が重なってたまたまあの時席を外していただけみたいです。後から考えるとゾッとするという感性は解らなくもありません。だけどあれが〝きっかけ〟なんかじゃありません。そもそもテロ事件の直後ではなく、なんで今頃になって『辞めたい』なんて言い出すんです?」


「〝なんで〟と言われてもな、我慢に我慢を重ねてきたけれども、遂に耐えきれなくなったとか?」


「〝今辞めたい〟なんて言い出したきっかけってのがこっちにはハッキリ分かってるんですよ。政治部の要望が原因であるとしか考えられません。正にそのタイミングで『辞めたい』ですからね」


「いったい何を要望したんだ?」


「ほら、紙面の一面に論説主幹が記名で堂々持論を述べる事があるでしょう? 主幹なんですからその肩書きを持つ者の主張は社論です。それを名を名乗り行う。基本執筆者不明の社説より。正に総力を挙げ報道している感があります。アレをウチの部長が『ここはリニアでひとつ』、と論説委員室に依頼したところにべもなく拒否ですよ」


「拒否なのか?」


「こっちは上げ潮で正に時の勢いに乗っているってのにここで水を差すのかと、政治部一同、身内に怒りで煮えたぎってますよ」


「名前を出せば俺みたく、毎日デモ隊に押しかけられるから、とかなんだろうか?」と天狗騨。


「そこなんですが天狗騨キャップも巻き添えになってるんです」


「え? 俺?」


「『毎日毎日押しかけられるのが怖くて引きこもっている』とか、妙な噂が流れてますよ」


(それで自宅まで社用車が迎えに来るし取材で外にも出してもらえないのか?)


「こんな噂を聞くくらい、信じがたい事に論説主幹の側に付くようなのがいる。だったら天狗騨キャップが『国賊』呼ばわりされている事をそんなに怖がっているのかどうか、見てきてやろうと思って」


「そういう事なら祭君、君の確認に感謝しないとな」

(あの論説主幹が噂をまき散らした張本人とも思えん。この社内、俺の知らない所にまだまだ敵がいるという事か)と思う天狗騨。


「今や全政治部は天狗騨キャップの味方ですから」と祭。


(ま、全ての人間の内心は透かしては見えないが)と天狗騨は思うが、わざわざ味方だと言ってくれている者を敵に回す必要は無い。しかしささやかながら言っておきたい事はあった。

「とは言え主幹の事はあまり悪く言うな。名前を出して主張するってのは自ら矢面に立つって事だからな」


「天狗騨キャップはばかに大人たいじんですね」

 もっと〝厳しい〟のが天狗騨という人間だと言わんばかりの祭。


(俺は昔の中国人じゃないが)と内心で苦笑いするしかない天狗騨。

「結局怖いんだろうなあ、人の恨みを買うのが。あの人は前からそうだ」

 天狗騨はかつてASH新聞が死刑廃止社説を書いた時、自身が起こしたとも言える騒動の事を思い出していた。

 天狗騨自身がその場にいなかった時論説主幹が血相変えて社会部フロアに飛び込んで来て、イランやサウジアラビア大使館宛てに天狗騨がASH新聞の当該死刑廃止社説を照会した件について、それこそ右往左往していたと、後から中道キャップに聞かされた話しを思い出していた。


 だが祭の方には論説主幹に対する同情心など無さそうだった。

「しかし右翼の恨みを買うのを怖がる人ではどうしようもありません」


「そこは必ずしも〝右〟とは限らないとは思うが」と天狗騨は応じる。


「他に誰が?」


「リニアはJRTKという会社発注の工事だが大規模公共事業のクラスの費用がかかる。ことばは悪いが当然〝飯の種〟として当てにしている人々の数も多い。右翼などの比じゃないかもしれない。生活がかかっているんだから飯の種が無くなったら当然恨まれる」


 祭は小さく「あっ、」と声を上げた。「じゃあ天狗騨キャップは……」


「どれだけ覚悟があったのか自分では計れないが、そういう事はさもありなんとは思っていた。ただ、工事関係者の生活がある一方で、大井川の水で生活している多くの人々がいる。真剣に何かを訴えようとすればする程、必ず敵は生まれる」


「〝敵を作るのを厭わない〟とはこういう事なんですね……」


 しかし天狗騨は祭の問いに直接は答えず、

「主幹が恐れているのは〝国賊呼ばわり〟じゃない。テロだ。テロに遭い命を落とす事を恐れている。別にこれは主幹が特別臆病ってわけじゃない。あの弁護士達だってそうだった」


「あの弁護士達とは?」


「『死刑廃止論をぶつ弁護士達』だ。その主張は安全な者に対してしか行わず、恐い者相手には口をつぐむんだ。その卑怯さに比べたら主幹の小市民的感覚はまだ許せる」


「……」


「ただ〝テロを恐れる云々〟は大声では言えない」


「弁護士が訴えるから、ですか?」


「いや、あいつらなら簡単に蹴散らせた。それに下手に訴えて騒ぎを大きくすれば却って奴ら自身の命が危なくなりかねない。何しろテロに脅えていたからな」


「ならば〝テロを恐れる云々〟を公然と言い出したら言論の自由を成り立たせるのが難しくなる、とかですか?」


「それはあると言えばある。しかし工事関係者をテロリスト予備軍のようには言えないだろ? なら『腰が痛いから論説主幹を辞めたい』の方がまだ辞める理由としては真っ当だ」


「……なんというか大物というか、天狗騨キャップみたいになるのはなかなか大変だという事ですね」


「おっと、あまり買いかぶるなよ。俺は単にあの人(論説主幹)が憎めないだけかもしれないんだからな」

 とは言え、なぜ論説主幹が査問会の後にわざわざ個別に天狗騨の話しを聞いてくれたのかは解らない。

(社会を悪くした結果テロのハードルがかなり下がっているのがこの現代だ。あれは単に〝危険察知〟のための情報収集が目的だったのかもしれない……)とも思える天狗騨だった。親身な雲の上の上司、と言うよりは自身が〝分析官〟にされただけのような気もしていた。




 ——その後のこと。論説主幹はほどなく『論説主幹』という肩書きを本当に自ら棄ててしまった。

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