第二百四十四話【昨日の『インパール作戦』、上手くいきましたか?】

〝もしもし、静狩です〟

 天狗騨記者のスマートフォンが振動し、出ればそれはSZO新聞の静狩記者だった。


「あぁ、静狩さん、土曜なのに朝からわざわざお手数掛けます」そう天狗騨は言ったが、午前中ではあるものの時間的にはそう早くもない。「——わたしですか? ええ、私も今日は非番です」


「——ところで、昨日の『インパール作戦』、上手くいきましたか?」


 プッ、

 その天狗騨の言で吹き出してしまったのはマスター。ここは銀座の、あの老舗喫茶店である。元々上司である社会部長の行きつけの店だったが今は天狗騨もしばしば通うようになっている。

 さて、『インパール作戦』である。むろん『インパール作戦』などというものは上手くいかない代名詞のようなものであり、ビルマからインドへと——補給を無視した第二次大戦中の日本軍のこの作戦は、地図の上でしか成功しない。

 天狗騨のかなりおかしい問いに、しかし静狩は真面目な声で応えていた。


〝全てかどうかはもちろん分かりませんが、感触としては『インパール作戦』、悪くないような感じです〟


 静狩の声は真面目だったが言ってる事は極めてヘン。しかし天狗騨は、というと、それを聞いても吹き出す様子は全く無い。


「まずまずの評判といった所ですか。ウチ(ASH新聞)の常識は必ずしも他社(SZO新聞)の常識じゃないんじゃないかと、それを気にしてたんです」


 天狗騨が気にしていたのは『第5回』に後から付け足した〝文言〟であった。SZO新聞との提携についてASH社内の空気がいよいよ抜き差しならぬ所へ来ていると感知した天狗騨は『インパール作戦』、そして『戦前の軍部』という語彙を、静狩に頼み込み付け足した。


〝そこはまあ『新聞記者』ですし、そのケはあったという事じゃないですかね、個人的にも南アルプストンネルを『インパール作戦』にしてしまうのは痛快感がありました〟静狩の声色には意に介する様子は感じられない。


「そうですか、それを聞いて胸をなで下ろしてますよ。なにせリニアの問題を語っている場で唐突に出てくる『インパール作戦』ですからね」


 なにかにつけ『戦前の日本』を引き合いに出し、これと絡めて批判を行わないと気が済まない。常套手段と言うよりもはや癖と言った方がいいのかもしれないASH新聞の性向である。本心では天狗騨はこれをあまり良い事と思ってはいない。しかし〝手段を選ばない〟以上は仕方がない。ただそれはあくまでこちら(ASH新聞)の事情で、あちら(SZO新聞)がどうなっているかは分からない、という認識はあった。天狗騨はこれが気になって静狩にあちら(SZO新聞)のを教えてくれるよう頼んでいたのである。


〝確かに唐突感はあるのかもしれませんが、あそこにこのことばがあっても違和感はありませんから、もう気にしないで下さい。それよりも南アルプストンネルは本当にインパール作戦になってしまうんじゃないかと、本気でそう思えてきたくらいです〟またも静狩は肯定的反応を示した。


「ASH新聞は『忖度は悪だ』と言ってきた筈なのに忖度を強要する同調圧力がかなりのものでした。それで忖度してしまう自分も自分ですが。その点静狩さんは凄いですよ。『大井川の水問題から一旦離れてみましょう』なんて、会社をまったく忖度していません」


〝今朝6回目が掲載されたばかりでしかも土曜、中の評判がどうなっているのかはまだ分かりませんが〟


「もしや揚げ足取りをする者がいますか?」


〝いない事を願いたいものです〟


「お互いに」と天狗騨は言ったが、ASH新聞には確実にそういう人間がいる。(評判を言い出したら明日以降かなり評判が悪くなるんじゃないか?)と、内心そう思っている天狗騨であった。そして型どおりの挨拶で締めくくり、この通話は終わった。



「休日なのに珍しいですね」マスターが天狗騨に声を掛けた。


 すぐにその意図を察した天狗騨。

「休みの日なのにわざわざ会社の周りをうろつく人間もめったにいないんでしょうね」


「場所柄、休みの日にうろつくこともあるとは思いますよ」

 〝場所柄〟というのは『銀座』を指している。天狗騨は苦笑いをしてコーヒーを一口すする。そして言った。

「何かを買う目的は無いんですよね。買おうにもなかなか。新品のライカが百万を超えるとか、感覚的にいつの時代の銀座かって感じです」


「すると〝銀ぶら〟ですね」


「強いて言うと買う物は無いがこの街を離れがたいのかもしれません」


 それを受けマスターはこう言った。

「あなたは必ずここへ戻ってきますよ」

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